[#表紙(img/表紙.jpg)] 動く不動産 姉小路祐 目 次  プロローグ 十三年ぶりの帰阪  第一章  地面師  第二章  隠された悪意  第三章  砂上の登記  第四章  真相への肉迫  エピローグ 動く不動産  文庫版あとがき [#改ページ]  プロローグ 十三年ぶりの帰阪        1  園山由佳は、十三年ぶりに新大阪駅のホームに降り立った。母に手を引かれて、この新大阪駅を発ったのは、九歳のときであった。小学校の三年生——もうその当時の記憶はほとんど残っていないと言ってよい。ただ、正確な記憶はなくても、思い出や感傷という言葉で呼ばれる心の襞《ひだ》の痕跡《こんせき》は結構残っている。  由佳は新幹線ホームから、東海道線のホームに向かった。新幹線は大阪駅には直接乗り入れておらず、東海道線に一《ひと》駅乗り継がなくては大阪駅には行けない。 (この乗り継ぎひとつ取ってみても、大阪ってダサイわ)  由佳はルイ・ヴィトンのバッグを持ち直しながら、連絡橋の階段を上がった。東海道新幹線が開通したのは昭和三十九年——由佳が生まれる四年前のことである。由佳が幼稚園に通っていたとき、まだ離婚前の両親とともに新幹線を淀川《よどがわ》の堤防まで見物しに行ったことがある。父は流線型のひかり号を見て、一人拍手をして悦に入っていた。母は新幹線を堤防から眺めるだけというようなつまらない家族リクリエーションはバカらしい、せめて白浜《しらはま》温泉くらいには連れていって欲しいわ、とそっぽを向きながらボヤいていたことを由佳はかすかに憶《おぼ》えている。今にして思えば、あの頃から父と母の関係は完全に冷え切っていたのだ。その母は去年交通事故で他界し、父も今や危篤の病床にあるとの連絡を受けて由佳はこうして大阪へ十三年ぶりに帰ってきた。  東海道線の大阪駅行きは出たばかりで、十分近く待たなければならなかった。 (どうして大阪駅まで新幹線を乗り入れられなかったのかしら?)  由佳は、一《ひと》駅だけの乗り継ぎのわずらわしさに、頬《ほお》を膨らませた。  開通当時の東海道新幹線のひかり号停車駅は、東京・名古屋・京都・新大阪の四つだけだったはずだ。その四つの中で、新大阪だけが在来線の駅の構内に乗り入れず「新」という冠文字が付いているのだ。 (あの当時の土地の値段なら、頑張ったら線路用地は買収できたはずだわ)  昭和三十九年といえば、東京オリンピックが開かれた年で、高度経済成長が始まった頃だ。まだ日本列島改造論も派手な地上げもなく、地価は現在ほど高騰していなかった。駅前の開発も今ほどは蚕食《さんしよく》され尽くしてはおらず、線路用地くらい何とかなったように思えるのだが。 (当時の国鉄は、大阪にそれほど重きを置いていなかったということかしら)  ようやく東海道線の水色の車両がホームに入ってきた。京都から大阪を経て神戸そして姫路《ひめじ》に向かう各停ということもあってか、車内は結構込んでいた。由佳は吊革《つりかわ》を持った。 「田中はん、えらい、久しぶりでんな」  由佳のあとから乗り込んだベレー帽の男が、突然前に身を乗り出すようにして、シートに座っている中年男に話しかけた。そのため由佳は腰をぐいと押される恰好《かつこう》になった。 (何なのよ、このオジサン。あたしは腰が痛いのよ)  由佳はバレーボールをやり過ぎたために、腰と膝《ひざ》を痛めている。しかしベレー帽はそんなことにはお構いなしだ。 「やあ、どないしたはりまっか」  ベレー帽に田中はんと声をかけられた男は眼をまたたかせた。「さあ、ちょっとここへ座りなはれ」  田中はんはそれまで大きく拡げていた足をすぼめて、横にわずかな隙《すき》を作った。 「そうでっか、えらいすんまへんな」  ベレー帽はそのわずかな隙間に、強引に尻を降ろした。隣で英単語を覚えていた予備校生らしい若者が、窮屈そうに肩を寄せて迷惑な視線で睨《にら》んだが、ベレー帽も田中はんも知らん顔を決め込んでいる。 (大阪人って厚かましいから、嫌い)  由佳は唇を尖《とが》らせた。しかし、自分にも厚かましい大阪人の血が半分流れているのだ、と由佳は思った。バレーボールが続けられなくなって大学を中退したものの、まだ定職に就いていない由佳は、このさき何枚も就職用の履歴書を書かなくてはいけないだろう。そのときに、「大阪市生まれ」としたためるのはどうも気が進まない。採否を決める相手も、何となく「ダサくて、厚かましい」というイメージを持つような感じがするのだ。小学校の四年生以降はずっと東京暮らしなのだから、東京生まれと記してもいいと思うのだが、もしも調べられて虚偽申告ということになり、そんなことで採用取消にでもなったら、目もあてられない。 「どうでっか、もうかりまっか?」 「まあ、ぼちぼちでんな」  ベレー帽と田中はんは、大阪人の常套的挨拶といわれる会話を交わしていた。本場の大阪弁を聞くのは十三年ぶりだが、懐かしい気持ちはまるで起こらない。それはきっと大阪があまり好きではないからなのだろう、と由佳は自分自身を分析した。 「もう二週間ほどで、花の万博でんな」  田中はんはいつの間にか、すぼめた足をちゃっかりと拡げていた。花と緑の博覧会は今年——平成二年の四月から九月まで、大阪市東部の鶴見《つるみ》緑地で開催される。 「そやけど、あれは千里でやった万博ほどは盛り上がりまへんで」 「そうでっしゃろか」 「あんときとは大阪のパワーが違いますで。もう大阪は東京に比べたら一地方都市ですワ」  ベレー帽の言葉に、由佳は小さく頷《うなず》いた。東京は何といっても首都である。政治、外交、経済、文化、マスコミ、どれひとつを取っても日本の中心だ。それと比較したら、大阪は関西の中の最大都市というだけだ。中京における名古屋、東北における仙台と立場は同じだ。人口だけを比べてみても、大阪市は東京の巨大なベッドタウンとも呼ぶべき横浜市に抜かれている。 「花の万博いうても、神戸ポートピア博覧会クラスのスケールになるんとちゃいまっか」 「ほなら、泉州沖《せんしゆうおき》にでける関西新空港はどないでっか」 「あれもまあ二十四時間営業ということが目玉くらいで、成田には勝てまへんやろ。しかも開港は早《はよ》うても平成五年で、まだちょっと先ですがな」 「京阪奈《けいはんな》の関西学研都市は、どうでっか?」 「それも関東の筑波《つくば》の小型みたいなもんでっしゃろ」  ベレー帽はことごとく、田中はんの言葉をくさしている。由佳は、小気味よい思いでそのやり取りを聞いていた。しょせん、大阪は大阪であって、東京には敵《かな》いっこないのだ。 「関西復権というのは、あきまへんか」 「なんぼ頑張っても無理でんな。なんやかやいうても、阪大も京大も、東大には勝てまへんがな。阪神タイガースかて、さっぱりですがな」 「けど、阪神は優勝しましたで」 「もう、五年も前でんがな。それもバースという助っ人の力におんぶしての優勝でっせ」 (そうよそうよ)  由佳は心の中で拍手を送った。由佳の好きな巨人は去年セ・リーグ優勝を果たし、日本シリーズではやはり関西に本拠地を持つ近鉄に三連敗しながらも、残りを四連勝という見事なうっちゃりを見せた。 「いや、今年は分かりまへんで。監督も中村はんになって、パリッシュが来ましたさかいに」  田中はんがしつこく息巻いたところで、電車は大阪駅に着いた。どっと人が吐き出される。由佳はその波間を縫うようにして、環状線乗り場に向かった。人の雑踏は、新宿駅で慣れている。 (阪神タイガースか)  大阪人が三人寄り集まると、必ず食い物と阪神タイガースのことが会話に登場するという話を聞いたことがある。由佳の父親・周平も、阪神タイガースの大ファンだった。巨人阪神戦の中継があると、必死で白黒テレビにかじり付いていた。村山、バッキー、山内、そして若き江夏がいた。 (今の阪神には、カッコイイ選手が少な過ぎるわ。せいぜい真弓さんくらいだけど、もう三十半ばの妻帯者だわ。そこへいくと巨人には、岡崎、吉村、井上、緒方といった若くてカッコイイ選手が揃《そろ》っているのよ)  由佳は、環状線のホームに上がった。  ホームから見える大阪駅前の光景は十三年の間に一変していた。まず大阪駅に隣接する場所に、二十七階建ての「アクティ大阪」という巨大なマッチ箱を立てたような高層ビルがそびえている。そのすぐ南側にも、高層のビジネスビルが四棟立ち並んでいる。さらにその横には、グレーのライターを連想させる大阪ヒルトンホテルと茶色のビール缶のような円筒形の大阪第一ホテルが偉容を見せている。  けさ新幹線で通ってきた都市の中では、さすがに最も大都会らしい賑《にぎ》わいと活気がある。しかしそれも、西新宿の超高層ビル群と比べたなら、大人と子供ほどの背丈の差を感じてしまう。それは単にビルの高さという物理的なものだけではない。東京が持つトレンディでリリカルな雰囲気(それは首都の誇りと風格、そして洗練され垢抜《あかぬ》けたスマートさと言い換えてもいいかもしれない)が、大阪には感じられないのだ。 「あのう、もしかして、石丸由佳さんじゃありませんか?」  駅前のビル群を見上げていた由佳は、突然横から声をかけられて驚いた。しかも見知らぬ若い男が、ちゃんと昔の由佳の姓まで知っているのだ。 「ぼく……河合敏一ですけど。ほら阿倍野《あべの》第一小学校で三年生のときに、一緒だったじゃないですか……」  長身の青年ははにかみながらそう言った。 「河合敏一、阿倍野第一小学校……、え、じゃあの河合君なの」  由佳の記憶の糸が十三年前にバックするのに、しばらく時間がかかった。  小学校三年生の夏休み明け頃に、担任の教師は男の子と女の子を一人ずつペアにして、机をくっつけさせて座らせた。他のクラスに比べてなかなか男の子と女の子が仲良くならず一緒に遊ばなかったので、その先生なりの苦肉の策だったように思う。そのとき由佳とペアになったのが、河合敏一という男の子であった。くじ引きで隣り合った二人であったが、由佳は河合敏一とは結構ウマが合った。初恋と言うにはあまりにも幼すぎるが、それまで父と義兄以外にろくに異性と口をきいたことがない由佳にとって、男の子と話をするのも楽しいものだ、と初めて感じた相手であった。由佳の両親の離婚が決まり、母親に連れられて東京へ転校することになったとき、クラスのみんなは担任教師の指導によって色紙に寄せ書きを描いてくれた。由佳はそのとき河合に、「赤のサインペンでできるだけ大きな字で描いてね」とねだった。誰よりも河合の字を目立たせたかったのだ。河合は願いどおり、赤のサインペンを使ってくれた。「これからも元気でいてください。ぼくもガンバリます 河合敏一」——描かれた内容は平凡だったが、由佳は満足だった。 「本当に、あの河合君なの?」  由佳は訊《き》き返した。かつてはバレーボールの日本高校代表に選ばれたこともある由佳は、百七十五センチの身長がある。だが、目の前の青年は由佳より優に十センチは高い。 「小学校三年生の頃は、ぼくはチビの方だったものね」  河合は由佳の心の中を見透かしたように、照れ笑いを浮かべた。 「そう。でも、どうしてあたしのこと分かったの」  十三年の間に、由佳だって大きく変わっているはずだった。 「バレーボールの高校選手権の優勝戦をテレビで見ていたんだ。それに高校代表のヨーロッパ遠征を、スポーツ番組で特集してたじゃないか。実はぼくも高校時代はバレーボール部にいたから、すごく関心があったんだよ。画面を見て、あの小学校で一緒だった女の子と同じ名前だなと思っていたら、由佳さん、特集番組でレポーターに『大阪出身ということですが、さすが大阪の女性らしくド根性と粘りがありますね』って言われて、『あたし、大阪には小学校三年生までしかいませんでしたわ』ってむくれていたじゃないか」 「やだぁ」  と由佳は、思わず河合の肩を叩《たた》いてしまった。  あの頃は、自分が最も輝いていたときだった。日本高校代表チームの一員に選ばれ、ヨーロッパ遠征で活躍し、新聞やテレビでニューホープの一人として報道された。東京にある三つの私立大学から、入試無試験・授業料全額免除の話を持ちかけてきた。由佳はその中から、最も伝統のある体育大学を選んだ。全日本入りを夢に見て、練習また練習の毎日が続いた。新人戦にも出て次々とアタックを決めた。  しかし、華やかな栄光はそこまでだった。百七十五センチというのはアタッカーとしては、世界レベルからすればかなり低い上背であった。その低さをカバーするために、由佳は必死でジャンプ力を高めようと猛練習を積んだが、そのために膝《ひざ》を痛める結果となってしまった。由佳は手術を受けた。靱帯《じんたい》と半月板が痛んでいるということで、難手術となった。そのあとは、懸命にリハビリテーションに努めた。二年の歳月が流れた。だが、膝はなかなか良くならなかった。このままでは、大学のレギュラーの座も危うかった。由佳はあせった。監督に無理を言って、大学リーグ戦に出してもらった。由佳はそこで膝をカバーすることを意識し過ぎて、チームメートと接触し、コートに腰を激しくぶつけてしまった。今度は、脊椎《せきつい》を手術した。奇跡のカムバックを信じて、再びリハビリテーションに努めた。  けれども、結果は無情だった。由佳は三日三晩涙を流しながら、退部届をしたためた。特待生扱いがなくなった以上、もはや授業料の免除はなく、定期試験も一般学生と同じように受けなければならない。これまでバレーボールとリハビリテーションしかやってこなかった由佳にとって、急に勉強をしても及第点などとうてい取れるものではなかった。  由佳は失意のまま、大学を中退し、それから半年経った現在もフリーアルバイターとしての生活を送っている。 「今もバレーボールをやってんでしょ」  河合は残酷な質問をしてきたが、彼に悪意はあろうはずがない。  由佳は黙って首を左右に振った。 「そう」  河合は短く応《こた》えた。  そこへ環状線の赤い車両が警笛を鳴らしながら姿を見せた。 「由佳さんはどこまで行くの?」 「新今宮《しんいまみや》までよ」 「じゃ環状外回りだな」  河合は、由佳が長い間忘れていた言葉を口にした。大阪環状線には内回りと外回りがある——といっても何のことはない。複線のレールが大阪市内を円形に一周しているため、その内側を内回り、外側を外回りというだけのことだ。  由佳の生まれ育った浪速《なにわ》区|恵比須東町《えびすひがしちよう》は、大阪環状線で行くなら新今宮駅が一番近い。その新今宮駅は、大阪駅を頂点とする円形をぐるっと描けば、ほぼ底点にあたる。円の左側(即ち外回り)を進めば七つの途中駅で済むが、円の右側(即ち内回り)を行くと十個の駅を通らなければならない。だから、大阪駅からだと、外回りの方が若干早く到着するのだ。  由佳は、かつて母や父に連れられて大阪駅周辺へ来たときはいつも「環状外回り」で帰っていたことを思い起こした。 「ぼくは鶴橋《つるはし》駅までだから、内回りだよ」  河合は少し残念そうに言った。 「だったら、あたしも内回りで行くわ。たいして時間は変わらないし、急がないもの」  由佳と河合は、発車を告げるベルに急《せ》かされるように、赤い色の車両に乗り込んだ。 「新今宮って、もしかして阿倍野第一小学校へ行くわけ?」  由佳がこの河合と机を並べていた小学校も、新今宮駅の近くにあった。 「うううん」  由佳はかぶりを振った。「元の家に行くのよ。あたしが生まれて九歳まで育った家だわ」 「あれ、東京に引っ越ししたのに、家はまだ残っているの?」  ドアが閉まり、電車はゴドゴトと走り始めた。 「ええ、父が住んでいる家はまだ昔のままよ」  由佳の答えに河合は怪訝《けげん》そうな顔を見せた。由佳はあわてて付け足した。 「小三のときに、あたしの両親は離婚したの。母の実家のある東京へあたしは連れられて行ったけれど、父は大阪に残ったのよ。その父が今、危篤で、こうして帰ってきたの」 「そうか。あんときはどうして引っ越しするのかよく分かんなかったけど、君もいろいろたいへんだったんだな」 「ええ」  転校したばかりの東京の小学校で、いきなり父親参観なる日があった。そうでなくても友達がすぐにできなくて淋《さび》しい思いをしていた由佳は、昼休みに父の腕にぶら下がるようにして甘えているクラスメートを見ながら、懸命に涙を堪《こら》えていた。幼心に、離婚の意味は充分には理解できなかった。なぜそれまでひとつ屋根の下に住んでいた父と母が別れて暮らすのか、いくら考えても答えは出なかった。  電車はブレーキ音を軋《きし》ませながら天満《てんま》駅に着いた。ここをずっと南に行けば日本三大祭りの一つ、天神祭りのお宮である天満天神社がある。 「河合君は、ずっと前の家のままなの?」 「いや、ぼくも引っ越したよ。あのときの父親が死んでしまってね。現在は八尾《やお》市のアパートで暮らしてるよ」 「そう」  十三年の間に大阪の駅前が一変したように、ここに住む人々の生活もそれぞれに変化を見せているのだ。 「危篤なら、親父さんをしっかりと見送ってあげてほしいな」  河合は淋しそうな眼で車窓に視線を移した。天神祭りのクライマックスである船渡御《ふなとぎよ》が行われる大川を通り過ぎる。鉄橋を渡る車輪の蹴立《けた》てる音が耳に甲高く響く。  由佳が今まで一度も父親のところに会いに行こうとしなかったのは、母親の存在が大きい。母親は、ろくに仕事もせずに将棋ばかり指していた父親のことをずっと憎んでいた。父親のところへ会いに行くとでも言おうものなら、たちまち眉間《みけん》に青筋を立てただろう。由佳自身も成長するに従って、父親の鈍重で貧乏臭い生き方が嫌いに思えてきた。それはこうして新大阪から各停電車に乗り継ぎながら、大阪の町はダサイと感じた思いとどこか共通するところがあった。由佳が目指す小粋でトレンディな生き方からは、父親も大阪の町も阪神タイガースもあまりにもかけ離れているのだ。  電車は次の桜《さくら》ノ宮《みや》駅に着いた。ここから南に二十分ほど歩くと、造幣局に行ける。小銭に使われるコインが大阪にある造幣局で鋳造され、紙幣は東京で印刷されるというところにも、東西の差が象徴されているような気が由佳にはする。大阪は所詮《しよせん》はコインどまりで、スケールでは東京にはかなわないと、由佳には思えるのだ。 「由佳さんは体育大学へ進んだんだろ。いつぞやのスポーツ番組の特集で、アナウンサーがそうコメントしてたよ」 「ええ、まあ」  由佳は言葉を濁した。中退した負い目は口に出したくなかった。 「河合くんも大学生?」  それ以上|訊《き》かれないようにと、由佳は逆に質問した。 「うん、堺《さかい》市にある浪速大学の理学部へ行っているよ」 「もうすぐ卒業?」 「うん。大学院に進むことになっているけど」  由佳は二十二歳、もしバレーボールをやらずに勉強に精を出していたら、ちょうどこの三月に大学の卒業式を迎えていることになる。もしかしたら、ちゃっかり大企業に就職を決めて、今頃は卒業旅行と称してヨーロッパの空を飛び回り、最後の春休みを満喫していたかもしれない。  人間は二つの道を歩むことはできないが、「もしバレーボールをやっていなかったなら……」と、時折まだ痛む膝《ひざ》を抱えて、考え込むことがある。  再び環状線の電車は走り出した。並び立つビルやマンションの間から、ちらりと大阪城の天守閣が見える。子供の頃、大阪城の敷地はずいぶん広いと思ったものだ。しかし東京の皇居と比べると、たいしたことはない。大阪の人間は、この大阪城を築いた豊臣秀吉を太閤《たいこう》さんと呼んで一様に好いているようだ。けれども豊臣秀吉はあえなく一代限りの政権で終わった。たとえネクラというイメージはあっても、江戸に遷都して十五代の長きにわたって子孫に覇権を取らせた徳川家康の方が理知的で世渡りが巧かったと由佳は思っている。 「大阪へはずっと帰っていないの?」  河合は脇《わき》に持っていた書類入れを持ちかえた。 「ええ、バレーボールの練習も忙しかったしね」 「お父さんの方から、会いには来なかった?」 「ええ。どうせ父は通天閣《つうてんかく》の近くで将棋ばっかり指していたのでしょう」  由佳の母は、東京での住所を父に知らせていなかった。慰謝料も養育料ももらえるわけではないのだから、教える必要などないわ、ときっぱりと言い切っていた。たとえ父が由佳たちの住所を知ったとしても、東京まで来れる金銭的余裕があったかどうか怪しいものだった。それほど父は貧乏をしていた。何しろ淀川から新幹線をタダ見するのが家族リクリエーションという暮らしだったのだ。それも母が内職をして家計を支えていた時代の話である。 「由佳さんのお父さんって、棋士なの?」 「若いころは棋士を目指していたし、憧《あこが》れてもいたわ。でも夢がかなわなくって、代書屋《だいしよや》を職業にしていたの」 「代書屋って、司法書士のこと?」 「ええ。だけどめったにお客さんが来なくて、商売には全然なっていなかったわ。だから、毎日将棋ばかりしていたのよ」  家の前に縁台を出して、見知らぬ通行人と一戦を交えていたステテコ姿の父の姿が瞼《まぶた》に浮かんだ。母が内職の縫製に忙しくしてようが、家事に精を出していようが、父ののんびりした姿は変わらなかった。 「でも、昔はともかく、司法書士って今なら不動産ブームで結構|儲《もう》かっているはずだよ」 「うううん、だめよ。あたしには義理の兄がいて、父の代書屋を継いでいるのだけれど、貧乏暮らしはまるで変わっていない様子だわ」 「義理のお兄さんって、お姉さんの旦那さん?」 「いえ、あたしには実の兄弟姉妹はいないわ。関係がややこしいんだけど、父には亡くなった先妻の連れ子の男の子がいて、あたしたちと一緒に住んでいたの。あたしと血の繋《つな》がりはないけど、父とは養子縁組をしていたので、お義兄《にい》さんと呼んでいるのよ」 「それじゃあ、君とお母さんが東京へ行くことになって、お父さんとそのお義兄さんが大阪に残ったってわけか」 「そういうこと」  河合の手際良い要約に、由佳は白い歯を見せた。  父が危篤だということは、義兄が(どうやって由佳の住所を調べたのか分からないが)知らせてきたのだ。 京橋《きようばし》駅に着くと、どっと乗客が降り、新しい乗客が乗り込んだ。ここではJRの片町《かたまち》線と私鉄の京阪《けいはん》電車が、環状線と交わっている。  京橋駅を出て車窓の東に見え始めた光景に由佳は眼《め》を見張った。十三年前は、かつての大阪砲兵|工廠《こうしよう》の焼け跡地として、褐色の地肌がむき出しとなった原っぱがそこに拡がっていた。だが、今はそこに大阪駅前に勝るとも劣らない高層ビル群が屹立《きつりつ》しているのだ。 「大阪ビジネスパークと言ってね。数年前に開発が進んだんだ。大阪市内のど真ん中にこんな空き地があるのを利用しない手はないということさ。ホテルニューオータニ大阪や読売テレビのビルも立派だけど、何といってもツイン21ビルが中心だよ」  河合は、青空を背に建つ外装も高さも瓜《うり》二つのビルを指差した。まるで巨大な鏡が間に挟まっているかのように、くっきりとした対称形《シンメトリー》を浮かび上がらせている。 「ツイン、つまり双子という意味だよ」  こんなモチーフの建築物は、由佳は東京でも見たことはない。 (双子か……いいわねぇ)  由佳は、じっとツイン21ビルを車窓越しに眺めた。電車の進行にしたがって角度は変わっていっても、双子ビルはぴったりと巨大な体躯《たいく》を寄り添わせている。  由佳には実の兄弟姉妹はいない。肩を並べて歩ける恋人もいない。友人はバレーボールを通じて何人かできたものの、バレーから身を退《ひ》いた今では由佳の方から避けている状態が続いている。 「どうかしたの?」  河合は優しそうな眼差《まなざ》しを向けてきた。 「河合君は、兄弟姉妹はいるの?」 「いないさ。兄弟姉妹というものには全く縁がないんだ……。独りぼっちって、結構|淋《さび》しいんだよな」  河合はポツリと言った。 「あたしも独りぼっちだわ」  由佳も睫毛《まつげ》を伏せた。仲の良かった母親は、一年前に交通事故で死んでしまった。草津温泉で由佳がリハビリ療法を行っているときに、突然舞い込んできた訃報《ふほう》だった。それまでは、母に晴れ姿を見てもらいたいという願いを込めてバレーボールに熱中してきた。日本高校代表のメンバーに決まったときに、いの一番に知らせたのは、監督でもチームメートでもなく、母親だった。  由佳がバレーの世界から引退を決めたのは、手術の結果が芳《かんば》しくなかったこともあるが、それまで心の支えになってくれた母の存在が消えたことも大きい。「一度や二度の手術の失敗でくじけてはいけないわ」と母が励ましていてくれていたなら、由佳は奇跡を念じつつ、現在でもまだリハビリに取り組んでいたように思うのだ。  電車は次の駅に停車した。「大阪城公園駅」という聞いたことのない駅名がアナウンスされた。由佳はホームを見回した。 「七年ほど前に新しくできた駅だよ。さっきの大阪ビジネスパークの開設にタイアップさせて作られたということだそうだ」  河合が解説をしてくれた。  やはり十三年の間に大阪は開発が進み、大きく変容をとげていた。ただその変容は、どうも東京のあとを追い駆けているという印象を拭《ぬぐ》いえない。こうして環状線の中から見ていても、立ち並ぶビルの林に大阪城の姿が隠されてしまっている現実に象徴されるように、大阪の個性を持ったものはどんどん失われているように思える。  電車はすぐに次の森《もり》ノ宮《みや》駅に着いた。駅のすぐ横に日生《につせい》球場が見える。この光景は以前と変わっていない。 「去年、近鉄バッファローズが優勝して、大阪は盛り上がったの?」  日生球場は、近鉄がフランチャイズのひとつにしている球場だ。 「まあね。でも、阪神タイガースの優勝のときほどのバカ騒ぎはなかったよ。日本シリーズで巨人に見事に負けてしまったし、それに南海、阪急というふたつの球団が身売りしちゃったしな」 「そうだったわね」  先ほどの東海道線の車内でベレー帽の男たちが話していたように、やはり大阪は球団が相次いで身売りするほど、地方都市化しているということなのだろうか。  ほどなく玉造《たまつくり》駅に到着した。ここはもう天王寺《てんのうじ》区になる。東京の山手《やまのて》線に比べて大阪環状線は円のスケールが小さく、十分余りで半周できる。そのためか、東京の中央線のような円の真ん中を貫く路線はない。  玉造駅を出ると、車内アナウンスが「次は鶴橋‐地下鉄|千日前《せんにちまえ》線、近鉄線はお乗り換え願います」と告げた。河合はもうすぐ降りてしまうのだ。 「河合君、また会えるといいわね」  由佳は思わず、少し語尾を掠《かす》らせてしまった。こんな束の間の会話で、思慕を抱いたと表現するのは大げさ過ぎる。しかし十三年ぶりに出会った幼なじみの河合に、男らしい成長を由佳は感じずにはいられなかった。柔らかい優しさを含んだ彼の眼差しは胸に沁《し》みたし、独りぼっちという境遇も似ている。 「そうだね。また駅のホームでひょっこり、なんてこともあるかもしれないね」  河合は切れ長の眼を二、三度しばたたかせたが、その仕草の意味は由佳には理解できなかった。あるいは、意味など何もないのかもしれない。ただ�偶然の再会�を口にしたところを見ると、河合は�非偶然的な再会�を望んでいないようにも受け取れた。  由佳はこんなとき、自分の容姿に自信がある女性に生まれなかったことを口惜しく思う。アイドルタレントのように可愛《かわい》くて、背丈もこんなみっともないほど高くなければ、あるいは「アパートの住所、教えてもらえるかしら?」と切り出していたかもしれない。  そんな由佳の気持ちなどお構いなしに、電車は鶴橋駅に到着した。 「じゃ、お父さんをせいぜいお大事に。たとえ死に目であっても、お父さんに会えるというのは幸せだと思うよ」  河合はそう言い残して、片手をちょいと上げてホームに降りた。 「ええ」  由佳は彼の広い背中を見送った。 (河合君、振り向いて……)  由佳は小さく念じた。  しかし河合の背中は人の波の中に次第に紛れていき、こちらに反転することなく、かき消えていった。        2 「新今宮、新今宮——」  少し間の抜けたようなアナウンスが響くホームに、由佳は降りた。  群青色のむき出しの鉄塔に大きく「日立ビデオ」と記された通天閣《つうてんかく》が、十三年前と全く変わらない姿で由佳を出迎えた。  この通天閣の見える貧乏長屋で由佳は育った。通天閣にはいつも日立の宣伝文字が掲げられていた。確か由佳の小さい頃は「日立キドカラー」だったと思う。由佳は、タワーというのはみんな宣伝文句が描かれているものと思っていた。だから東京タワーを初めて見たときは、そののっぺらぼうな鉄骨にびっくりした。横浜のマリンタワーの夜景と見事にマッチしたイルミネーションにも、何の宣伝文字もなかった。  のちになって、神戸のポートタワーにも、ロウソクのようなシックな形の京都タワーにも、名古屋のテレビ塔にも、コマーシャルの類《たぐい》は一切掲げられていないことを知った。  天神祭りの船渡御で河面を行き交う船が掲げる提灯や長旗にも、数多くの宣伝文句が掲げられている。けれども京都の祇園《ぎおん》祭の山鉾《やまほこ》に、そのようなコマーシャルの文句が架かっていることは絶対にない。  せこい、という大阪弁がある。細かくてみみっちいという意味だが、この大阪はまさしく、何であっても宣伝に使ってしまう「せこい」街なのだ。  新今宮の駅前は、十三年前とあまり変わっていないように由佳には思える。もっとも、小学校三年生の時の記憶などそう正確であろうはずがない。ただ下町的な雰囲気や雑多な食べ物がブレンドされた臭いが、昔を想起させるのだ。  駅の切符売り場は自動券売機に変わっている。しかしすぐその軒先で、切符を買おうとする人の迷惑も考えずに堂々と寝そべっている数名の労働者の姿は以前と変わりない。彼らは白昼から酒を飲んで、寝転がっているのだ。新今宮駅を挟《はさ》んで、通天閣と逆の方角には日本最大のドヤ街として有名なあいりん地区が拡がっている。そこでは、二万人を超えると言われる数多くの日雇い労働者が日々の仕事を求めてたむろしている。天候や雇い主の都合で仕事にアブレてしまった労働者たちは、所在なく昼間っから酒を呷《あお》り、路上でゴロ寝をする。夜は一泊二千円前後の簡易旅館に泊まるか、その金がなければ町角にダンボールでねぐらを築いて野宿をする。東京には山谷《さんや》というドヤ街があるが、大阪のあいりん地区の方が、スケールは上だ。 (大阪が勝てるのは、せこさとドヤ街だけだわ)  由佳は苦笑いしながら歩き始めた。こうして十三年ぶりに帰ってきても、やはり大阪は好きにはなれなかった。東京が由佳の好きなトレンディなヨーロッパ調なのに対して、このあたりはどう見ても垢抜《あかぬ》けないアジアなのだ。  由佳は足を停《と》めた。十三年ぶりということで、さすがに道がちょっと分からなくなったのだ。通天閣という格好の目印がありながらも、歳月を経た記憶は由佳に生家への道順を迷わせていた。 (確かここにタタキ売りのお店があったんだけどな)  新今宮駅から、生家のある長屋への路地を曲がる角に、東京では滅多に見られないタタキ売りの店が二軒|廂《ひさし》を並べていた。いずれもお世辞にもきれいとは言えない軒先に、衣類や靴から中古電化製品や家具まで、ありとあらゆる商品を所狭しと並べ立て、店主が威勢のいい掛け声を出しながら棒で板をバンバン叩《たた》いて道行く人に安値で売り込んでいる勇壮な姿が、毎日見かけられたのだ。現在のディスカウントショップの原点とでも言うべき店だろう。子供心にも、その独特の販売方法には好奇の眼《め》を見張ったものだ。その「タタキ売り」は今や二軒とも店を閉め、一軒は小さな喫茶店、そしてもう一軒は狭いモータープールとなってしまっている。 「タタキ売り」の横にあった串カツ屋もなくなって、「タタキ売り」が取り壊された跡のモータープールの一部になっている。一本十円とか二十円とかいう破格の安値だが、ノラ犬やノラ猫の肉を混ぜているという噂《うわさ》が出ていた。「タタキ売り」にしても、革靴を買って家へ帰り、よくよく見ると底皮はスルメだったというエピソードもある。  歩きながら、由佳はちょっぴり淋《さび》しい気分になった。この通天閣一帯は「新世界」と呼ばれ、大阪屈指の歓楽地として連日活気|溢《あふ》れる賑《にぎ》わいを見せていた。演芸場、射的、弓道場、ビンゴゲームといった狭くて汚い店々が肩を寄せ合い、まるで常設の縁日を見るような面白さがあった。だが、今はほとんどの店が閉めるか衣替えをしており、人出も昔日の四分の一もない。とりわけ若者の姿はほとんど見受けられない。  いくら�好きでない大阪�といっても、自分の生まれ育った街が寂《さび》れて影を薄くしているのをまのあたりにするのは、決して心地の良いものではない。 「あら」  由佳は小さく声を上げた。「将棋 角龍クラブ」と墨で書かれた古びた木の看板が眼に入ったからだ。ここだけは昔とまったく変わっていない。父の周平が、しょっちゅう入り浸っていた将棋会所だ。二十畳ほどのスペースに、将棋盤が三十以上もずらりと並べられている。木戸銭を払った見ず知らずの男同士が、膝《ひざ》をつき合わせて駒《こま》を弾き合う。中には観客役になるだけで、こちらあちらと将棋盤をぐるぐる見回っているだけの者もいるようだ。入り口のある道路側はガラス張りになっていて、そのガラス越しに入り口付近での対戦を見るのはタダである。金のない周平は、ガラスにはいつくばるヤモリのような悦《たの》しみ方をしていることが多かった。たまに代書屋の客があり、母の「由佳ちゃん、角龍クラブを見ておいで」という不機嫌な声を背にサンダルの音をけたててここへ来ると、周平は何人かの男たちに混じってじっとガラスに頬《ほお》を擦り付けて、中の熱戦に見入っていたものだった。ときには、会所に上がり込んで知らないどこかのオッサンと対局しているときもあったが、そんな場合は決まって、「今取り込み中や言うて、向こうの電話番号を聞いといてんか。あとから電話をかけるさかいに」と答えるのであった。昼間っからろくに仕事をしない周平に、母が愛想を尽かしたのも今にして思えばよく分かる。恋人すらいない由佳だけど、結婚するのならそんな根無し草のような男はまっぴらご免だ。  きょうの角龍クラブの前にも、かつての父と同じようにガラス越しに中をじっと見入っている男が五人ばかりいる。まるで十三年前のシーンがそのまま蘇《よみがえ》ったような錯覚を受ける。  ここ新世界は、型破りの棋士として有名な坂田三吉《さかたさんきち》の活躍した舞台だ。通天閣の真下には、王将・坂田三吉の記念碑もある。坂田三吉は無学奇行の反骨漢として知られる。周平は三吉をいたく崇拝しており、風呂桶《ふろおけ》を抱えて銭湯に着流しで行くときは決まって村田英雄の「王将」を口ずさんでいたものだった。  角龍クラブの次の辻を曲がると、ほどなく生家のある長屋がある。狭い道路の正面に通天閣をいただき、雀荘《ジヤンそう》、ホルモン焼き、そして寿司屋と続く。この街並みは十三年前とほとんど変わっていない。由佳は何となくほっとした。 (あれっ)  由佳は足を停めた。前をのっそりと歩いていく風船のような肥った体つきの男の背中に見憶えがあった。丸い顔の頬骨が肉付きのよいほっぺたよりもさらに突き出していて、さながらラグビーボールを横にしたような印象を受ける。 「ブーやん、お好み焼きの買い出しかい?」  ホルモン焼き屋の前の道路を掃除していたおかみさんが彼に声をかけた。やっぱり義兄の石丸|伸太《のぶた》だ。由佳が東京に発ったとき、伸太は高校三年生の十八歳だった。そのときから彼は丸々と肥り、頬骨の突き出た特徴的な顔の輪郭をしていた。そして、「ブーやん」と呼ばれていた。伸太という名前からブーやんと仇名《あだな》を付けられたと本人は言っていたが、むしろ脂肪満点の豚のような体つきに由来するものではないか、と由佳は思っている。 「さいな。雨不足のためやろか、キャベツが高《たこ》うてかなわんワ。せやし、一個しか買わなんだで」  伸太は右手に持ったスーパーのビニール袋をひょいと差し上げた。「けど、きょうは魚が安かったで。さんまのみりん漬けが、三枚で百円や。思い切って、九枚も買《こ》うたったワ。これで今晩のわいの食卓はばっちしや」 「ブーやん。いつまでも自炊しとらんと、早《は》よヨメはんをもらわなあかんで。もう三十路《みそじ》を越えたんやろ」 「ああ、三十一歳や。ええおなごがおったら、いっぺん紹介してんか。若くて、別嬪《べつぴん》で、頭がようて、気立てのええのが希望やけどな」 「アホなこと、言いないな」  ホルモン焼き屋のおかみさんは笑いながら、手にしていたチリトリを団扇《うちわ》のようにして伸太をあおいだ。「そないなおなごがいたら、先にうちの息子に紹介してるわよ」 「せやな。ほなら、そのおこぼれでも期待してまっさ」  そう言って、伸太は差し上げたスーパーの袋をくるくると回しながら、歩き出した。まるで子供が風車《かざぐるま》で遊んでいるような姿だ。  伸太は、底のちびた汚れたズック靴を履いている。優に百キロを超える体重を支えて、ズック靴はすっかりボロになっている。それを道路にこすり付けてスタスタと音をさせて歩くのだ。ズボンはジーンズだが、特大の尻の部分が擦り切れている。しかもその擦り切れは左右がアンバランスで、まったく様《さま》になっていない。風船のような上半身には、Tシャツを窮屈そうにまとっている。吊《つ》りバンドをしているが、Tシャツが小さいため、脂肪でふっくらとした腰の部分の肌が露《あらわ》に出ている。  由佳はじっと尾行するかのように歩いた。なかなか声をかける気にならない。声をかければ、肩を並べて歩くことになる。たとえ義兄とはいえ、もっさりしたダサさの塊のような男とペアになることには、うら若き乙女としてのプライドが許しそうにない。 (だけど、あの背中、懐かしいわ)  幼稚園の頃、由佳は伸太の背に乗って、よく「お馬さんごっこ」をしたものだ。海亀《うみがめ》に連れられて竜宮城へ行く「浦島太郎」にもなった。 「ブーやん」  高い所から濁声《だみごえ》がした。豆腐屋の二階から、ハチマキをした中年男が窓越しに手を振っている。「こないだはえらい助かったで。ブーやんの知恵のお蔭《かげ》で、大家さんに追い出されんで済んで、襖絵描《ふすまえか》きの仕事が続けられるワ」 「さよか。そらよかった」  伸太はあるかないか分からないほどの猪首《いくび》を曲げて、柔和な笑顔を二階に向けた。「きばって、ナニワ随一の襖絵師になってや」 「ブーやん、ほんまにお礼の銭《ぜに》は払わんでも構へんのか?」 「要らんと言うたら要らんのや。もし一人前の襖絵師になってくれたら、わいとこの襖を修繕してんか。なんせ、昔のままにほったらかしてあるさかいに、あちこち破けてしもてベラベラや」 「分かった、まかしといてんか。何年先になるか分からへんけどな」  ハチマキ男は大きく頷《うなず》いた。「せやけど、ブーやんはあんだけの代書屋の腕を持っていて、なんで儲《もう》からへんのや? その気になったら、お好み焼き屋をせんでも、やっていけるんとちゃうか」 「人にはそれぞれ分相応いうもんがあるがな。わいには、小さなお好み焼き屋を兼業する売れへん代書屋が似合うんや」  先妻の連れ子ということで、父と伸太は血の繋《つな》がりはないのだが、その言い方や横顔は、由佳の胸に若い頃の父の姿を髣髴《ほうふつ》とさせる。 「ほなら、また」  二階のハチマキ男に軽く手を上げて、伸太は再びスタスタと歩き始めた。  その先に、「おでん いろいろあり|※[#桝記号、unicode303c]」の幟《のぼり》が見えた。生家の隣家に住む山中のおばちゃんがやっている店だ。店の屋号は、おでん屋とはおよそ似つかわしくない「カサブランカ」だ。山中のおばちゃんが若い頃にカサブランカという映画を見ていたく感動したそうで、店の中にはその映画のチラシや主演男優のハンフリー・ボガートの白黒ブロマイドが貼られてあった。  そしてその「カサブランカ」の横に、くすんだ白地に剥《は》げた黒ペンキで「代書屋(司法書士)石丸」とかろうじて読める文字が見えた。由佳の生まれた家だ。  伸太はガラス戸を軋《きし》ませながら、こじ開けた。買い出しに出かけたのに、鍵《かぎ》は掛けていないようだ。由佳が小さい頃も、近くに出かけるときには施錠などしなかった。このあたりは都会の中心部にありながら、田舎の村のような連帯感があり、不審な人間が空き巣にでも入ろうとすればたちまち近所の者が大声を張り上げてくれる。もっとも、空き巣に入っても、収穫になる物はほとんどないだろうが。  でっぷりとした体を半分ガラス戸の中に入れた伸太は「ん?」と言わんばかりに、由佳の方に頬骨《ほおぼね》の突き出た顔を向けた。そして細くて小さな眼をパチパチさせた。 「あんた、もしかして由佳ちゃんとちゃうか?」  伸太は低い鼻をピクピク動かした。 「ええ」  由佳はかすかに微笑《ほほえ》んだ。十三年も経つのに、伸太の風貌《ふうぼう》はそのままだ。いや、少し体重が増えたかもしれない。 「ほんまに由佳ちゃんやな」  伸太は念を押すかのように訊《き》いた。 「そうよ」 「よう来たな。おこしやす」  伸太はガラス戸を目一杯開けた。ガラス戸は悲鳴のような軋みを上げた。  こうして生家の前まで来ると、由佳の心には気恥ずかしさが湧き起こった。久しぶりに敷居を跨《また》ぐてらいからではない。生家のあまりの爺《じじ》むささに圧倒されての恥ずかしさである。ダサイのもここまでくれば極めつけだ。戦後の復興期に建てられたバラックに毛が生えたような木造家屋が、そのまま平成二年までタイムスリップしているのだ。この家で生まれました、と東京のおしゃれな知人たちに見せる気には絶対にならない。  由佳はルイ・ヴィトンのバッグから、レノマのハンカチを取り出して、額に滲《にじ》んだ気恥ずかしさの汗を拭《ぬぐ》った。  生家が変わった部分といえば、母が一階の表で縫製の仕事場にしていたところに、お好み焼き台が五台ほど置かれていることだ。〈味はやっぱり ブーやんのお好み焼き〉という短冊が軒下に掛かっている。 「由佳ちゃん。腹が減ってたら、お好み焼きでもどないや?」  伸太は、壁に貼られたお品書きを太くて短い指で差し示した。イカ三百円、ブタ三百二十円、えび入りは百円アップ、オールミックス五百円(いずれも消費税はなし!)——と金釘流《かなくぎりゆう》の下手な字でマジック書きされている。 「いえ、お腹はすいていないわ」  本当は少し空腹感はあるのだが、とてもこんな埃《ほこり》っぽいところで食べる気にはならない。せっかくのボディコンスーツが、古びた丸椅子に座っただけで汚れそうだ。 「ほなら、さっそくやけど、親父に会うか」  由佳は黙って頷《うなず》いた。そのためにわざわざこの大阪まで来たのだ。        3  二階の低い天井の部屋に寝込む父の周平は、由佳の記憶とはまるで別人の痩《や》せ衰えた老人であった。もう意識はほとんど戻らない昏睡《こんすい》状態であった。由佳が枕元に座っても、伸太が「由佳ちゃんが、来てくれたんやで」と布団を叩《たた》いても、閉じた眼を開けようとしない。  総|白髪《しらが》となった頭。顔全体に浮き出た老人性のしみ。窪《くぼ》み落ちた眼窩《がんか》。痩せこけた頬《ほお》。皺《しわ》だらけの首筋。かつて「王将」を口ずさんでいたときの元気は、ひとかけらも残っていない。 「こないだの手紙にも書いたように、癌《がん》があちこちに転移して、もはやどないしようもないんや。それで、天王寺の市民病院を退院させてもらうことにした。畳の上で死にたいという親父の意志やったさかいに」  伸太はしんみりとした口調でいった。  義兄の伸太は、由佳の住む東京のマンションまで速達をしたためてきた。父の容態が悪い。何とか暇を作って戻ってくれないか——。そう急に言われても、すぐに踏ん切りがつかなかった。母が最後まで父を許していなかった姿は瞼《まぶた》に焼きついていた。  またすぐに速達が届いた。父はもう間もなく他界することになると思う。せめて電話だけでも至急こちらにくれないか——。それでやむなく由佳が電話をすると、伸太は、ぜひ戻って来てくれと切々と訴えた。父の死に水を取るのは、養子である自分ではなく、血の繋《つな》がりのある実子である由佳であるべきだと。  由佳としても、どうしても死に目に会いたくないというまでの怨《うら》みがあるわけではなかった。母が先に他界した以上、もはや大阪行きに二の足を踏ませる存在はなく、仕事もフリーアルバイターという立場上、当分の間休むというのも可能であった。それともうひとつ、由佳の胸には遺産のことが気にかかっていた。新世界の家は長屋の一角で狭くて汚いながらも、周平の所有だと母から聞いていた。周平がわざわざ買ったものではなく祖父から相続したものであるが、いきさつはともかく大阪市内の土地ということになれば、この地価高騰の時代にはそれなりの財産的価値を持っていそうだ。母は離婚したが、由佳自身には相続権はあるはずだ。まとまった金が懐に入れば、今の自分にとっては貴重なサポートになってくれるかもしれない。  バレーボールの道を断たれたあと、由佳はしばらく明確な目標を失っていた。しかし、フリーアルバイターをする一方で、先月からデザイン学校の願書を取り寄せ始めた。もともと絵を描くのは得意だから、将来はできればデザイン関係の仕事がしたいと思うようになっていた。今もし相続で財産が入れば、アルバイトをすべて辞めてデザインの勉強ができるかもしれない。うまくいけばフランスあたりへ留学できる可能性だってある。日本高校代表チームの一員として訪れたパリの、シックでトラディショナルで、それでいてドレッシーな雰囲気はいまだに忘れることができない。 「病院の先生の話やと、あと一週間保つか保たんかやそうや。悪いけど、しばらくここに居たってんか」  伸太のガラガラ声に、由佳はローズピンク色のパリの思い出から急に現実に引き戻された。眼の前には、時折苦しげに咽《のど》を鳴らす醜い白髪の老人が寝ていた。 「義兄《にい》さんは、どうしてあたしの東京の住所が分かったの?」  由佳は、伸太にぜひとも訊《き》こうと思っていたことを質問した。意地っ張りな母は住所を教えていなかった。愛想をつかした周平の顔など二度と見たくないといっていたし、伸太は先妻の連れ子ということで母とは血の繋がりもない。ところが、伸太は知らないはずの由佳の住所を一字一句違わずに宛名《あてな》にしたためて、速達を送ってきた。しかも、由佳たちは東京での十三年間に二回転居をしているのに、である。 「そんなもん簡単なことやで。戸籍の附票《ふひよう》を調べたらええのや」  伸太はあっさりと答えた。 「戸籍のフヒョウ?」  由佳は聞いたことのない言葉に眉《まゆ》を寄せた。 「百聞は一見に如《し》かずや。由佳ちゃん自身の戸籍の附票を見たら、よう分かるワ」  伸太は隣の部屋の襖《ふすま》を開けた。そこの四畳半の間は、かつて由佳が母と一緒に寝ていた和室だ。由佳は母に連れられて閉店間際の風呂屋《ふろや》へ行き、あの部屋で添い寝をしてもらっていた。伸太の方は周平と一階で寝ていた。今にして思うと、母は血の繋がっていない伸太を疎《うと》んじていたような気がする。けれども、由佳は母を責める気にはなれない。自分だってもし母の立場になったなら、自分の血を引いた方の子供を可愛《かわい》がってしまうだろう。  その四畳半には、古い木机と黒い電話機が置かれている。電話機はいまだにダイヤル式だ。どうやら伸太が事務所としてそこを使っているようだ。いや事務所と表現するのは適切ではないかもしれない。スチールロッカーもファイルボックスもなく、ましてや応接机やソファの類《たぐい》は何もない。その代わりに、布団が捲《まく》れ上がったままの万年床が隅に敷かれ、その横に本が数冊横向きに積まれて白黒テレビの台となっている。汚い寝室の中に事務机コーナーがある、と言った方がむしろ当を得ているだろう。何しろ伸太は、一階でお好み焼き屋を兼業している司法書士なのだ。 「こいつが、戸籍の附票や」  伸太は机の引き出しからB4大の紙を取り出して、由佳の鼻先に突き出した。 [#挿絵(img/fig1.jpg、横156×縦406)] 「親族関係を現わす戸籍にくっついているという意味で、附票と呼ばれるんや。もっとも普通に戸籍謄本を請求しても、付いてはきいひんで。附票が欲しかったら、請求の際にその旨をはっきりと示さんとあかんのや」  伸太は、さらに説明を加えた。「この附票には住所の変遷が示されているんや。住民票では転居前の住所は一つしか出てへんけど、附票やったら全部いっぺんに分かるんやで」 「これはどこに置かれてあるの?」 「本籍地の役場や。由佳ちゃんの本籍地は東京都の東村山市やさかい、東村山の市役所に請求したんや。戸籍の附票は郵送でも取り寄せることがでけるんやで」 「あたしの本籍地の役場が東村山だって、どうして分かったの?」 「由佳ちゃんとお母さんは離婚するまで、わいらと同じ戸籍に入っていたんやで。離婚で籍を抜くと言うても、消しゴムできれいに白紙状態にされてしまうのと違《ちご》て、離婚により新しくどこどこの地に戸籍を定めて転籍したと書いてある。そやからそれを見たら、新本籍地は分かるんや」  伸太はのんびりとした風貌《ふうぼう》には似つかわしくないほどの、淀《よど》みのない口調でそう話した。  その夜、由佳は十三年ぶりに生家で泊まることになった。  由佳は一階に寝床を取った。お好み焼き台が並んだタタキの奥にある狭い部屋だ。二階には周平と伸太が寝ている。  堅い布団と慣れない枕のせいで、由佳はなかなか眠りに陥ることができなかった。きょう一日のことを、ぼんやりと脳裏に描いた。  十三年ぶりの大阪駅前の変容に驚いた。河合と偶然再会した。河合は小学校時代からは想像もできないほどの好青年になっていた。河合は、由佳が取材されたスポーツ特集番組を見ていたのだ。あらためてテレビの伝播性《でんぱせい》に感心した。しかしそのバレーボールは、由佳にとっては「今は昔」であった。  いろんなものが十三年のうちにどんどん変化していったのに、この生家の町並みは昔のままだった。その生家で、由佳はタイムスリップしたかのように、寝床を取っている。  由佳は寝返りをうちながら、ようやく眠りに入り始めた。  そのときの由佳は、�代書屋ブーやん�のところへ持ち込まれた事件に関わりを持ち、大阪府下のあちこちを駆け回ることになろうとは、知る由もなかったのだ。 [#改ページ]  第一章 地面師        1 「ブーやん、ねえ、ブーやんったら」  階下からキンキンした声が響いてきた。伸太は、毎朝の日課である周平の下《しも》の世話を終えたばかりだった。由佳は、半ば顔を背けながらその様子を見ていた。周平にはいっこうに意識が戻らないのに、生理現象だけはちゃんと続いている。そのことが、由佳には何となく不思議な気がした。 「山中のおばちゃんやな」  伸太は「どっこらしょ」と呟《つぶや》きながら、ろくに手も洗わずに、重そうな尻を上げた。 「ブーやん、何やってんのよ。聞こえへんのかぁ——」  ドカドカと階段を上がる音が聞こえた。山中のおばちゃんのあわて者でガラっぱちな性格は、まるで変わってない様子だった。もっとも山中のおばちゃんに限らず、この新世界という大阪市内屈指の下町にはこういうがさつな男女が多い。由佳がここに住んでいた頃は、人間はみんなこんなものかと思っていたのだが、東京に行ってそれが特殊だということを知った。よく言えば連帯感があり家族的な近隣つき合いをしているということになるが、悪く言えばプライバシー感覚に欠ける前近代的な無神経さが当たり前になっているということになる。 「あらぁ、うち、お邪魔虫だったかしらぁ」  ノックもなしにズカズカと部屋に入り込んできた山中のおばちゃんは、目をパチクリさせて由佳と伸太を等分に見た。 「おばちゃん、誤解せんといてや。ずっと以前にわいと一緒に住んどった由佳ちゃんやがな」  伸太は、山中のおばちゃんに向かって、手をせわしなく左右に振った。 「えっ、由佳ちゃんって、あの由佳ちゃんなの?」  山中のおばちゃんは薄い唇をまん丸に窄《すぼ》めた。「すっかりべっぴんさんになったよって、うち、分からへんかったわ。てっきりブーやんも、ついに好《い》い人でもこさえたんかと一瞬思たわ」  べっぴんさんと言われて、由佳は悪い気はしなかった。 「せやけど、外にもっとべっぴんさんのお客さんが来てはるわよ」  山中のおばちゃんは下を指差した。 「お好み焼きのお客さんか?」 「うううん、代書のお客さんやで」 「ほう、えらい珍しいな」  伸太は太鼓腹を抱えるようにしてゆっくりと腰を上げた。仕事に商売っけをまるで出さないのは、周平譲りだ。先妻の連れ子ということで、周平とは血の繋《つな》がりはないのだが、この点は実に良く似ている。だからこそ、旧態依然とした「代書屋」という古びた木看板を掲げているのだろう。それにしても、あんな看板を見て依頼をしようとする客がよくいるものだ、と由佳は思った。 「失礼いたします」  伸太の黒板のような背中のあとについて二階へ上がってきた依頼人は、由佳と同じくらいの年齢の女性だった。山中のおばちゃんの言葉にたがわず、「べっぴん」だった。弥勒菩薩《みろくぼさつ》という仏像を想起させる、清楚《せいそ》で細面《ほそおもて》の日本的美人だ。  二重瞼《ふたえまぶた》は関東女性に多く、一重瞼は関西女性に多いという話を由佳は雑誌で読んだことがあるが、それでいくと、この涼しげな切れ長の眼とスーッと通った鼻筋の持ち主である依頼人は、関西美人の典型と言えそうだ。服装も、薄緑のスカートに白のブラウスと年の割には地味である。 「えらい散らかってまっけど、どうぞ」  寝たきりの周平のいる部屋を通って、伸太の万年床の敷かれた四畳半の間へ彼女は足を運んでいく。まさしく掃《は》き溜《だ》めに舞い降りた鶴だ。 「どうもお邪魔いたします」  彼女は周平の寝床の横にいる由佳に軽く会釈《えしやく》を送った。 「本当にむさくるしいところで、ごめんなさい」  由佳は赤面しながら頭を下げた。こんな下町で代書屋をやっている伸太の神経が分からない。東京では、青山《あおやま》や麻布《あざぶ》あたりのしゃれたビルを借りて、不動産ブームの波にしっかりと乗っている司法書士事務所を見たことがある。それらの事務所のガレージには、ボルボやベンツといった高級外車が権威を示すかのように鎮座していた。 (義兄さんももっと要領良くやれば、こんな汚い家に住まなくてもいいはずなのに)  心の中で愚痴りながら、由佳は四畳半の襖《ふすま》を閉めた。一秒でも早く相手の視界から、寝たきり老人のいる見苦しい光景を消したかったからだ。 「まずお名前を伺いまひょか」  襖の向こうで、伸太がガラガラ声で訊《き》いている。 「岡崎美紀、と申します。登記をお願いしたいのです」  相手は透き通った声で答えている。これほど美醜の差がはっきりした声のやり取りも珍しい。 「どちらにお住まいでっか?」 「堺《さかい》です」 「堺から、なんでこちらまで?」 「ええ、ここなら何となく依頼料が安いようにお見受けしましたから」  美紀は遠慮がちにそう答えた。 「さよか」  伸太がボリボリと頭を掻《か》く音が伝わる。「ほいで、どないな登記でっか?」 「あたし、不便で狭いところですけど能勢《のせ》の方で、土地を買ったのです」  能勢というのは大阪府の最北端にある町である。兵庫県の川西《かわにし》市から能勢電鉄という小さな私鉄に乗ると、厄除《やくよ》けで名の知られた妙見山《みようけんさん》のある豊能町《とよのちよう》に着く。そこからさらに北へ数キロ進んだところに能勢町がある。能勢町までは電車は通っておらず、バスか車でないと行けない。行政的には大阪府下に入るが、地理的にはむしろ兵庫県の一部のような存在である。 「ほう、えらいお若いのに土地を買わはったんでっか」 「実は、去年のジャンボ宝クジで三十枚買ったうちの一枚が、前後賞の二千万円に当たったんです」  聞くとはなしに襖越しに聞こえてくる会話に、由佳は耳を立てた。二千万円が当選したということの羨《うらや》ましさもさることながら、それでしっかりと不動産を買い込むというしたたかさが、弥勒菩薩のような美紀の顔からは想像もできないからだった。これが由佳なら、まずはお祝いに最高級のフランス料理のフルコースを食べに行って、その足で大型MMC預金の口座を開きに銀行へ乗り込むのが関の山だ。あるいは半分は貯金して、残りはデザインの勉強に使うとか……。 「二千万円全部を?」 「ええ。二千万円ジャストで五十坪、という土地がちょうど売りに出ていたのです」  二千万円で五十坪といえば、坪単価は四十万円となる。能勢はお世辞にも都心への交通が便利とは言えない場所である。おそらくバス停の近くなどの一部を除いて、のどかな田畑が広がっていると思える。といって、別荘地に適しているような地域でもない。それでも一坪四十万円の価がついているのだ。日本の土地の値段はあまりにも高い。 「売りに出ていたというのは、新聞広告か何かでっか」 「いいえ。電柱に『能勢の土地、売ります』と、小端重夫という売主さんからの張り紙がしてあったのです。もし不動産業者を通じて土地を買ったなら、ずいぶんと手数料を取られますでしょう?」  彼女はまた、ちゃっかりした一面を露《あらわ》にした。 「そらまあ、不動産業者の手数料は売買価格の三パーセントプラス六万円でっさかいに、六十六万円もの手数料が直接取引やったら節約でけることになります。けど、業者を通じてでないときはニセ物を掴《つか》まされる恐れもおます。もっとも不動産業者にもいろいろえげつない奴がおりますよって、直接売買ばかりが危険とは言い切れまへんけど」 「ええ。それが不安で、登記の専門家の人にチェックをお願いしたいのです」 「なるほど、分かりました」  伸太は椅子を軋《きし》ませる音を出した。おそらく大きく頷《うなず》いた拍子に、古びた椅子が彼の体重の負荷に対する抗議の悲鳴を上げたのだろう。「ほいで、契約の方は?」 「一昨日に手付を済ませました。手付金として五十万円を支払いました。それで、登記に必要な権利証のコピーをもらってきました。もしちゃんと本契約をして大丈夫ということなら、代金を払ってそれと引換に、権利証の原本を受け取ることになっています」 「そうでっか。ほなら、ちょっと権利証のコピーを預からしてもろて、わいなりに調べてみます」 「あのう、だいぶん時間がかかりますでしょうか?」  彼女は不安の入り混じった声で訊いた。 「いやあ、それほどではおまへん。わいも急いで取りかかりますさかいに」  伸太は照れを含んだ張り切った口調で返事をした。もともと依頼人が来るのが珍しい事務所だが、こんなに若くて魅力的な女がやってくることは稀有《けう》中の稀有なことではないか。不動産の売買など、ヤングギャルにはまず縁がない。「ほなら、調査が済んだら連絡しますよって、住所と電話番号を教えといとくれやす」  引き出しを開けて、メモ用紙を取り出す音が伝わった。  ふと、伸太はこの岡崎美紀という女性の住所と電話番号を聞き出して交際のきっかけを作ろうとしているのではないかという想像が、由佳の脳裏をかすめた。二年ほど前だったかリハビリ入院中の病院で、大阪を特集した番組を見たことがある。ミナミとも呼ばれるナンバにある戎橋《えびすばし》が「引っかけ橋」として紹介されていた。橋を往《ゆ》くギャルに対して若い男どもが、「なあ、遊びに行こ行こ」「ねえちゃん、茶、どないや」と次々と声を掛けまくるのである。その仕草は露骨で、しつこくて、品がない。そして同じくナンバのフーゾク営業店が映った。電車をレイアウトした店内が取り上げられた。普通の電車と同じように吊革《つりかわ》もシルバーシートも作られている。そこへ入場料数千円也を払った客が、ミニスカートをはいたホステスと共に乗車(?)して、ホステスに対する痴漢行為を始めるのである。同室のリハビリ患者たちは、「大阪人ってスケベで厚かましいのね」と顔をしかめていた。大阪出身の由佳は、一人恥ずかしい思いをして俯《うつむ》いていた。 (でも、この義兄には、そんなことはできそうもないわ)  由佳は、一瞬かすめた思いを打ち消した。それは「うちの子に限って」という教育ママ的偏見によるものではない。あの風船のような体と突き出た頬骨《ほおぼね》であれだけきれいな娘をハントするということは、百メートルを八秒台で走るのと同じくらいに至難の業と言える。あまりにも分不相応の身のほど知らずだ。  いきなり襖《ふすま》が開いて、伸太がのっそりと姿を現わした。いつの間にか襖の方に耳を傾けていた由佳は、あわてて居ずまいを正した。 「どうも失礼いたします」  美紀は来たときと同じように、由佳と寝たきりの周平に礼儀正しく頭を下げてから、階段の方へ向かった。 「気いつけて、降りとくれやっしゃ」  伸太は、ご親切にも美紀のすぐあとから階段を降りていく。あれだけの体重を後ろから踏み段にかけていくことの方が、よっぽどアブナイと思うのだが……。 「いつ、調査をしていただけるのですか?」 「さっそく明日にでも、法務局へ行きまっせ」 「じゃあ、調査の結果を電話で教えてくださいますか」 「へえ、なんぼでも連絡しますで」  伸太は、軒先まで美紀を見送っていった。 「義兄《にい》さん、お好み焼きくらい奢《おご》ってあげたら良かったのに」  おそらく美紀の後ろ姿をゆっくりと見送っていたのであろう、伸太はしばらくしてから戻ってきた。 「何言うてんのや。彼女はあくまで代書の依頼人や」  伸太は、わざとらしく人差し指で低い鼻を擦《こす》った。 (無理しちゃって)  由佳は小さく肩をすくめた。大阪を離れたときは自分は小学生、伸太も高校生であったが、いつの間にか二人ともそれぞれに二十二歳、三十一歳と結婚適齢期を迎えていた。いや、伸太の方は、むしろ結婚適齢期を過ぎつつあると言うべきか……。 「さあ、仕事や、仕事」  伸太はその場を取り繕うように大きな声を上げて、四畳半部屋へ行き、机の上に置いたままのコピーを取った。 「それ、何のコピーなの?」 「今の依頼人が持ってきた権利証のコピーや」  権利証という言葉は、由佳も聞いたことがある。けれども、不動産を持っているという証明になる書類、というくらいしか知識がない。 「その権利証は所有証明書みたいなものでしょ?」 「うん、まあ一般的にはそう言われとる。そやから、権利証を持っている者が売買代金と引換に権利証を手渡しますという話やったら、普通はまず間違いのない確実な契約やと思てええ」  さっき襖越しに聞いた話では、依頼人・岡崎美紀は現在は手付を交わした段階だが、この先彼女が売買代金を支払えば、相手はそれと引換に権利証を譲渡してくれるということだった。 「義兄さんったら、それなのに、えらい慎重やったね」  調査しますからとひとまず回答しておいてもう一度あの美人と会おうとしたのではないか、という皮肉を込めたが、伸太には通じなかった。 「今わいが説明したんは、あくまで一般論や。権利証を持っている者イコール不動産の所有者、という常識はときには通用せんこともある」  伸太は真顔で説明した。「登記の制度は、なかなか奥が深《ふこ》うて複雑なんや」 「義兄さん、あたし登記っていうものが、よく分からないわ」  由佳は首を横に振った。法律のことは全く無知である。 「よっしゃ、ほなら身近な例で話したげるワ」  伸太は机の一番下の引き出しから封筒を取り出した。それから椅子の上に乗っていた座布団を小脇《こわき》に抱え、由佳の前まで太い足を運び、座布団を畳の上に置いてからどっかと腰を降ろした。 「ええか、こいつは、今わいらが居《お》るこの家の登記簿の謄本、すなわち写しや」  伸太は封筒からB5大の紙を取り出した。右端が二カ所ホッチキスで綴《と》じられ、二つ折りにされた外形を呈している。「人間なら、いつどこで生まれて、誰と結婚して、あるいは離婚して、ということは戸籍簿に書かれとるやろ。土地や建物に関しての、戸籍簿みたいなもんが登記簿や」  由佳は生まれて初めて、登記簿謄本というものを見た。 「まず表紙にあたる一枚目は表題部と呼ばれて、どないな不動産なのかという形状が書かれてあるんや」  伸太はこの家の謄本を由佳に手渡した。表題部には次のような記載があった。  登記簿は改ざんを防ぐために、一、二、三、十という通常の漢数字を使わずに、それぞれ壱、弐、参、拾という多角文字を使用する。 [#挿絵(img/fig2.jpg、横167×縦418)] 「これを見たらこのボロ家が、終戦直後の昭和二十年十月に建てられた居宅で、一階と二階を合わせて建坪十五坪ほどやということが分かるんや。これが表題部や。まあ人間で言うたら、姓名、住所、生年月日、身長、性別というところやな」  伸太は意識してか、体重という項目を言わなかった。「次のページを開けてみたら、所有権に関する事項が書かれとる」  由佳は謄本を繰った。  そこにはこの家の所有者が石丸周平である旨の記載があった。 「その次に、主に抵当権に関しての記載があるんや」  伸太は、この家の登記簿謄本の最後のページを開けて、由佳に見せた。 [#挿絵(img/fig3.jpg、横240×縦377)] 「抵当って、この家が借金の担保になっているということなの?」 「そうや。石丸周平は天王寺信用金庫から五十万円、そして銀星商事から十万円を借りた結果、抵当権がつけられたという登記や」  父の周平は、由佳たちが東京に行った後にこのような借金をしていたということになる。それにしても五十万、十万とは現在との貨幣価値の差を考えても、ずいぶんとみみっちい額だ。 「なにしろ、こんなボロ家が抵当の担保では、ろくに金を貸してくれへん。拝み倒して信用金庫からやっと五十万、そしてそのあとはおそらく信用金庫に再度借金を申し入れて断られたんやろ。銀星商事という町の金融業者から借りてるというわけや」 「その借金はまだ返せてないの?」 「返せたら、この抵当権は抹消ということになり、記載事項に大きく×印が掛けられる」 「消されてないということは、まだ借金はあるということね」 「くわしくは調べてへんけど、たぶん利息を返すだけで精一杯やったんとちがうやろか」  伸太はえらくあっさりとした口調で付け加えた。「登記簿というのは、建物と土地と別々に作られとるんやけど、ここの土地の方はもっとぎょうさん抵当権がついとるで」 (じゃあ、土地も建物も全部借金のカタということ……)  由佳は失望した。これでは期待していた遺産相続は画餅《がべい》に帰しそうだ。  母に離婚されて、内職の支えがなくなった周平はなおも将棋|三昧《ざんまい》の生活がしたくて、借金を重ねたということだろうか?  由佳は生まれたばかりの赤ん坊のように眠りこける周平を睨《にら》んだ。フランスへのデザイン留学の夢は、つかの間に消えてしまった。 「明日、わいは今依頼を受けた件で法務局まで行ってみようと思う。由佳ちゃん、えらいすまんけど、明日の午前中、お父さんを看《み》ていてくれるか?」  伸太は突然、由佳が予想もしていなかったことを口に出した。 「あたしが一人で……」 「嫌《いや》ならかまへんで。まだ当分の間、親父の容態に変化はないやろ」  伸太は、周平の方に小さな眼を向けた。 「嫌とは言っていないけど……」  由佳には、まだ心の整理が充分についてはいなかった。  周平の血を引くのは自分一人だ。養子である伸太よりも、自分の方が死に水を取らなくてはいけないとは思う。だからこそ、十三年ぶりに大阪に帰ってきたのだ。けれども、蛇蝎《だかつ》の如く周平を嫌っていた母のイメージは、この相変わらずの陋屋《ろうおく》に居ると、余計に強くなるようにも思える。 (こんな借金と抵当だらけの夫なら、あたしだって離婚しているかもしれないわ)  由佳は畳の上に置かれた登記簿謄本を見つめた。 「もし留守番をしてくれるのなら、お好み焼きの方の店番もあんじょう頼むで」  伸太は突き出た太鼓腹をポンポンと叩《たた》いた。彼にとって、本業はやはりお好み焼き屋で、代書屋という古びた看板を上げた司法書士業務は趣味の延長線上の副業のような印象を受ける。父の周平も、本業が将棋三昧で代書屋は片手間にやっている、という感じであった。産みの親より育ての親という言葉があるが、血の繋《つな》がりのない養子でありながら、伸太は周平に良く似ていた。 「そんな、お客さんに出すお好み焼きなんて作れっこないわ」 「かまへん、かまへん」  ラグビーボールを横にしたような顔を左右に振った。「あの値段で文句を言うてくる客なんておらへんで」  伸太はどうやら、本業の方にもたいした熱意を持っていないようだ。 (これじゃ、お嫁さんはまだまだ来てくれそうにないわ)  財産はなく、経済力は乏しい。そのうえ、このルックスだ。  大阪へ帰ってきて環状線の中で偶然出会った河合敏一のように背が高くてカッコ良ければ、男性ファッションモデルも務まるのだが、その河合は一流大学の大学院に進もうとする頭脳を持っている。 (天は二物を与えず、と言われるけれど、実際のところは二物を与えられた人間も二物とも与えられなかった者もいるのじゃないかしら)  由佳は小さく息を吐いた。由佳自身、二物とも与えられていない女だと思えるのだ。  バレーボールの道は頓挫《とんざ》し、身長だけは道行く人が振り返ることがあるほどのノッポだ。家には資産はなく、母は他界し、父も危篤だ。ひっくり返っても「良家のお嬢さん」とは言えっこない。 「どや。そないに心配なら、お好み焼きを作る練習をいっぺんしてみるか?」  伸太は、由佳の沈んだ思いなどまるで眼に入らぬ様子で、太鼓腹を再びポンポンと叩いた。        2  翌日、由佳は伸太に同行して法務局へ行くことにした。周平の容態は昏睡《こんすい》ながらも安定していたし、じっと狭いボロ家にくすぶっているのは気が進まなかった。  伸太は一階のお好み焼き「ブーやん」に、〈勝手ながら、午前中臨時休業〉の張り紙をした。けれども張り紙をしても、しなくても、客が来ないのは同じような気がした。 「車で行くの?」  由佳は春の青空を見上げた。 「まさか、わいは自転車しか持ってへんで」  伸太は鼻水を啜《すす》った。 「それじゃ自転車で行くわけ?」  やっぱり同行するのはよそうかと思った。 「今日は遠出やさかい、自転車は無理や」  伸太は新今宮《しんいまみや》駅に向かってスタスタと歩き出した。 「法務局って、どこにあるの?」 「能勢《のせ》や」  伸太はあっさりと答えた。ここから能勢までは四十キロほどはあるだろう。トライアスロンの選手でもないかぎり、自転車では無理だ。 「どうして法務局はそんな田舎にあるの?」 「法務局の本局は天満橋《てんまばし》の近くにある。せやけどその他に大阪府下に二十六の出張所があって、それぞれの管轄を持っている。まあいうてみたら、市役所の本庁舎は淀屋橋《よどやばし》にあるけれど、各区に区役所が置かれているようなもんや」 「つまり能勢の土地だから、そこを管轄する能勢の出張所に行くというわけ?」 「そうやで。不便なこっちゃけど、そこに行かんと登記簿があらへんのや」 「登記簿って、昨日あたしが見た所有権とか抵当権とかいうのが記載されているものね」  抵当だらけの生家のことは、できることならば思い出したくなかった。 「さいな。もっとも、あれは謄本、つまり写しや。その原簿は所在地管轄の法務局が保管してよる。戸籍謄本に対する戸籍簿を、本籍地管轄の役所が持っとるのと同じようなこっちゃ」 「登記簿は誰でも見たり、謄本を取ったりできるの?」 「手数料さえ払えば、誰だってでける。そこが戸籍と根本的に違うとこや」  戸籍がプライバシー保護の観点から、容易に閲覧できないのは知っている。しかし不動産を誰が持っているとか、抵当に入れて幾ら借金があるとかいうこともプライバシーの一種と言えなくないのに、どうしてこちらの方はオープンなのだ? 由佳はその疑問を訊《き》いてみた。 「登記は公示のためのものや。不動産に関する権利関係を明らかにして、所有者などと取引に入ろうとする人間に資料を提供することを目的とするから公開されるんや。たとえば昨日のうちの家の謄本を見れば、抵当権が信用金庫と町の金融業者の二つも入っていて、もはや建物には担保価値のないことが分かる。もし石丸周平から新たな借金を申し込まれた人物がいたら、登記簿を見てこれはちょっと貸し倒れになるかもしれへんな、という判断資料を得ることがでけるわけや」  伸太は相変わらず、自分の家が抵当だらけなのを全然気に止めていない様子だ。「登記簿というのはほんまに面白いで。よう眺めとったらいろんなことが分かってきよるし、推理もでける」  そう言って、伸太はにんまりとした笑いを肉の良く付いた頬《ほお》に浮かべた。  大阪環状線から阪急電車、能勢電鉄と乗り継ぎ、能勢電鉄山下駅からさらに一時間に一本あるかなしのバスに乗る。能勢街道と呼ばれるカーブの多い道を行くバスの中から見える光景は、次第に鄙《ひな》びた、のどかなものになっていく。やがて右手にダムが姿を現わし、人工池が淡青の水面を光らせている。ここが大阪府とはちょっと思えない。  由佳はこのバスを待つ間、所作なく駅前の地図を眺めていた。能勢街道は大阪府池田市から、いったん兵庫県川西市と川辺《かわべ》郡|猪名川町《いながわちよう》を縦断してから能勢町に続くのである。能勢町は言ってみれば、兵庫県内にある大阪府の飛び地のようなものだ。  車窓に拡がる色の七割以上が、緑である。野菜畑が耕され、木々が育ち、雑草が茂っている。〈府民牧場〉とか〈大阪ライフル射撃場〉と書かれた看板も見える。その合間に、ぽつんぽつんという感じで建物や家が見える。  大阪駅前を出て、一時間経つか経たないで、こんな自然の多いところへ出てこれるところがやはり大阪だと思う。近郊開発が狂ったように進む首都圏ではまず不可能な話だ。東北新幹線に乗って福島県に行ってバスに乗り継ぎでもしない限り、都心から一時間でこんな緑の多い風景は見れないのではないか。  それでもこののんびりした絵の中に、ときおり不釣り合いなくらいに洋風の家やマンションが登場する。そのかなりのものに、最近の建築流行と言われるドーマーが付いている。このあたりも、新しい建築物が雨後の筍《たけのこ》のように建ってきているようだ。  そして〈ニュータウン建設用地〉という大きな立て看板の設けられた造成地が見えた。看板に描かれた完成予想図は、多摩《たま》や八王子《はちおうじ》でよく見かける新興団地とさほど変わるところはない。 「関西ではここ二、三年の間に、えげつないほどの勢いで地価が上がっているんや。この三月に国土庁から発表された平成元年分の地価公示価格を見ると、近畿《きんき》の地価高騰は凄《すさ》まじい勢いやで。宅地分の地価上昇率前年比では、大阪府が五十八・六パーセント、京都府が六十一・八パーセント、そして奈良県が五十・二パーセントや。それで全国の都道府県別の宅地地価上昇率のベストスリーを独占しとる。以下、兵庫県が第四位、そして滋賀県が第五位で、関西の異様な地価狂騰ぶりが分かるというもんや。ちなみに首都圏の上昇率平均は六・六パーセントとなっとる。首都圏で上がるとこまで上がって、その頭を天井に打った勢いが、関西の方へ押し出されてきたという感じや。東京ではもちろんやが、大阪市内でも並の年収のサラリーマンが一生働いた金で、庭付き一戸建てが買えへんようになってきとる。世界有数の金持ち国と言いながら、けったいな現象やで。そのために、住宅地は衛星都市、さらにその周辺へと、どんどん郊外化していきよる」  伸太は〈ニュータウン建設用地〉の立て看板に目をやりながら、呟《つぶや》くようにいった。  東京都内では地価がべらぼうに高くなり、その分家賃も上がっている。由佳がトレンディさに憧《あこが》れて住みたいと思っている東京都港区では、ワンルームマンションでも月十万円を超える家賃が相場だと聞く。持ち家は無理でも、せめて賃貸住宅は都心のハイグレードなところにロケーションを置きたい。朝八時に起きても丸ノ内のオフィスに出社ができて、終電の時間など何も気にせずに六本木で遊べる。そんな青春が送りたい。  由佳はもしバレーボールを続けて、しばらく全日本選手として名が売れたなら、そこからスポーツ番組のレポーターかキャスターに転身したいという青写真を持っていた。マイクの前で物怖《ものお》じすることなど皆無だし、行動力には自信もある。もちろん有名志向も強い。——しかし、その青写真は、膝《ひざ》と腰を痛めたことで無残に破られた。  それでも由佳はデザインという新たな夢を考えつつある。普通のOLなんかになりたくはないのだ。上司や同僚に気を遣いながら、二十万円足らずの月給しかもらえないのではワリが合わないと思う。ましてや土地家屋を抵当に取られながら、たいして儲《もう》からぬお好み焼き屋を細々とやるなんて、まるで肌に合わない。 「法務局出張所は、町役場前というバス停が近いんやけど、その一つ手前の大里《おおさと》という停留所で降りるで」  伸太は、そんな由佳の心の中の動きなど全く気づかぬ表情で、昨日の権利証のコピーを取り出した。 「なぜ、法務局出張所の一つ手前の停留所で降りるの?」 「昨日の依頼人である岡崎美紀はんが買おうとしている相手である小端重夫という人間の、もう一つ前の所有者がそこに居るんや」 「もう一つ前の所有者って、現在の所有者である小端重夫さんに土地を売った人のことね」 「さいな。その人に会《お》うて、小端重夫への売却を確認しときたいんや。なんでかと言うと、日本では形式的審査主義という、書類さえ整っていれば登記申請が受け付けられる方式が採用されとるんや。その結果、たとえ実際は偽造の書類であっても、外形的に見て分からへんかったら、それで登記がなされてしまうことがたまにある。せやから実際の売買関係を、ひとつ以前に戻って調べとく必要があるんや」 「実際と違う登記が受け付けられちゃうの?」  由佳は軽い抵抗を覚えた。そんな偽造の書類という不正が認められるのは条理に反する……。 「登記とは別のことやけど、婚姻届かてそうやで。例えば山中のおばちゃんは未亡人で独身やけど、わいが婚姻届に山中のおばちゃんの署名を偽造して印鑑を押して本籍地の区役所に出したら、それで婚姻届は受理されてしまうんや」  例として山中のおばちゃんが出てきたことに由佳は吹き出しかけた。山中のおばちゃんの花嫁姿だけは、絶対に想像することさえできない。 「でも、そんな一方的意志の婚姻届なんて無効でしょ」 「あたりまえや。そんなことが有効なら、わいはとっくに宮沢りえとの婚姻届を出してるわい」  宮沢りえの名前が出たことに、相手が山中のおばちゃん以上のショックを由佳は受けた。いったいどれだけ年齢が違うのだ。いや年齢だけではなく、体重もルックスも収入も。 「登記の世界でも、形式的審査主義によって受理はされても、実体がなければ、その内容は無効や。ところがその無効の登記をしたあと、それを誰かに転売するとなると関係はややこしくなってきよる。虚偽の婚姻の場合は、それが誰か第三者の手に渡ってという問題はあらへん。けど、不動産というのは字は『動かざる』と書くけど、実際はどんどん取引の対象となってコロコロと動きよるんや」  伸太はそう説明した。「せやから、前所有者の服部安太郎という人に会《お》うて、小端重夫という男への売買を確認しとくんや」 「どうして、前所有者の名前が分かったの?」  伸太は、依頼人の岡崎美紀からそんなことまでは聞いていなかったはずだ。美紀自身が、前所有者の名前なんて知らないのではないか? 「昨日、権利証のコピーを預かったけど、それを見たら分かるんや」  伸太は〈登記済証〉と記されたコピーをポンと叩《たた》いた。「俗に世間では『権利証』と呼ばれており、わいもそう言っているけど、正式には『権利証』は『登記済証』という名称や。この登記済証をもらうには、登記申請の際に、原則として契約書の添付が必要なんや。法務局としてはその契約書を書面審査したうえで、その契約書に法務局印を押して登記済証として交付するというシステムになってる。せやから、この権利証を見れば、岡崎はんが買おうとしている相手のみならず、その一つ前の所有者の住所も氏名も分かるというわけや」  伸太は権利証のコピーを由佳の膝《ひざ》の上に拡げた。 [#挿絵(img/fig4.jpg、横110×縦357)]  という文字が末尾に綴《つづ》られてある。 「この小端重夫という人物が岡崎美紀さんに土地を売ろうとしとる現所有者で、服部安太郎という人物が前所有者や。服部安太郎の住所は能勢町大里……となっとるさかいに、大里というバス停で降りるんや」  服部安太郎は、名前から想像していたよりずっと若く三十代半ばというところであった。  契約書に記載された住所に、岐阜の白川郷《しらかわごう》を連想させる高い切り妻屋根に、一本松の家紋が入った家を持っている。一階の約半分が民芸品を作り上げる仕事場となっている。 「ええ、確かに小端重夫という人に、あの土地を千九百七十万円で売りましたよ。もともとあそこは、私の父が持っていた小さな土地ですよ。狭い変形地のうえにここからは少し離れていて、ずっと遊休地にしていたのですけど、父が死んでこの自宅と仕事場を相続するときに、相続税を支払う必要ができましてね。ほんと相続税っていうのは腹が立ちますよ。農業をやっていて農地を相続するならばうんと安いのに、そうでない土地の相続ならそんなわけにはいかないというわけでしょ。矛盾ですよね」  服部は憤懣《ふんまん》やるかたないといった表情を見せた。「それで、その遊休地を小端重夫さんに売って、相続税の支払に充当することにしたんですよ」 「小端重夫はんとは、知り合いでっか?」 「いいえ」 「ほなら、なんで、小端重夫はんに売ることにしはったのでっか?」 「電柱に『この近くで手頃な土地を探しています 直接売買ですから、不動産屋さんへの手数料は不要です』という張り紙がしてあって、小端さんの名前と電話番号が書かれてありました。税金を支払うための処分に不動産屋を通して高い手数料を支払うのはバカらしいなと思っていたところだったので、電話をしてみたのです」  あの岡崎美紀も、服部と同じように手数料のことを言った。大阪人はやはりみみっちいと由佳は思う。もっとも三パーセントプラス六万円という手数料は確かに高過ぎる気もする。二千万円なら六十六万円、もし三億三千万円の物件売買なら、手数料だけで何と約一千万円になってしまう。 「小端さんは結構紳士的な物腰のうえ、『現地を見て、気に入ったならキャッシュで支払う』ということだったので、信用することにしました。そして現地を案内し、こちらの言い値の二千万円を三十万円だけ下げることで合意しました。もちろん即金でお金はもらいましたよ」 「それは、今年の一月のことでんな」  伸太は権利証(服部・小端間の契約書)のコピーの日付に目を落としながら、確かめるように訊《き》いた。 「ええ、そうですよ。なんぞ不審なことでもありますのか?」  服部は怪訝《けげん》そうに尋ねた。 「いや、そやおませんね。ただ、小端さんからこの土地を買いたいという人がおりまして、その人の依頼でいろいろ調査をしとるんですワ」  伸太は正直に事情を説明して、服部に礼を言って別れた。  約一時間後に来るバスまで待つ気は、由佳にも伸太にもなかった。  二人は能勢街道を肩を並べて次のバス停まで歩いた。三月にしては強い日差しが、痩《や》せたノッポの女と、ドラムカンをさらに潰《つぶ》したような肥った男という対照的な二つの影を路面に落としている。 「うーん、どうも引っ掛かりよるで」  伸太は珍しく低く唸《うな》るような声を出した。 「どこが引っ掛かるの?」 「小端重夫という男は今年の一月に服部から土地を買《こ》うている。そのときの値段は二千万円から三十万円値切っただけの、即ち千九百七十万円や。電柱に張り紙をして現地まで見て苦労して手に入れたのに、わずか三十万円の儲《もう》けだけで、岡崎美紀はんに売ろうとしておる。手間をかけた割に、えらいアッサリし過ぎとらんか」  なるほど、言われてみればそんな気もする。 「義兄《にい》さん、ちょっと権利証のコピーを見せて」  由佳は契約書の金額が千九百七十万円になっているかを確認しようとしたのだ。ところが、どこを見ても金額は記されていない。 「権利証にするために法務局に出す契約書には、全部といってもええほど金額は記載されとらん。それはこいつのためや」  伸太は契約書の右隅にコピーされた収入印紙を指し示した。「契約書に貼る印紙は、契約金額によって違うんや。もし千九百七十万円やったら、二万円の印紙が要る。けど契約金額の記載をせんかったら、わずか二百円で済むんや。ちょっと矛盾するようやけど、印紙税法という法律がそうなっとるし、法務局もこの印紙二百円・契約金額なしの契約書を権利証とすることに何も文句は言わへん」 「そうすると、岡崎さんは、小端重夫さんが千九百七十万円で手に入れたことを知らないわけね」 「そないなるなあ。わいが疑問に思う点は、他にもある。この小端という男の住所は堺《さかい》市や。堺というたらわいのおる浪速《なにわ》区よりもずっと南やで。そこに住む男が、何でまたここまで電柱に張り紙をするエリアを伸ばすんや。そら、能勢《のせ》が大阪府でありながらまだ住宅地としては開拓途上の地域であることは分かる。せやけど大阪府南部にも、和歌山との県境部あたりに行けば、これに近い地域はあるはずや」 「義兄さん、この小端重夫さんって何者なんでしょうね。まさか普通のサラリーマンが副業で不動産売買をするってことはないでしょうね」 「それも調べとく必要があるな」  いつの間にか由佳と伸太は縦に並ぶ恰好《かつこう》で歩いていた。能勢街道を行き交う生コン車やダンプカーが黒い排気ガスを二人にぶちかけるようにしてスピードを出して走るためである。どうやらこの先のあちこちで、新たな住宅建設工事がなされているらしい。 「東京じゃ、都心から一時間圏内でこんな場所はもうとっくに残っていないわ。でも、大阪もやがては、そんな東京に似た都市になりそうね」  由佳は、東海道線の中でベレー帽の男たちが、大阪は個性を失くして東京の後ろを追いかけているだけだと話していたことを思い出した。大阪があまり好きではない由佳だが、大阪で生まれた人間としては、東京の縮小コピーのような都市になってしまうのは、一抹の淋《さび》しさを感じる。     能勢町役場に着いた。役場の前を通り過ぎて、その隣にある小学校の横の信号を左に曲がったところに、法務局の能勢出張所があった。コンクリート製平屋建ての小さな建物だ。 「例の土地の登記原簿を見ることにするワな」  登記簿の謄本は誰でも取れるし、その原簿自体も誰でも見れるということは、先ほど伸太から教わっていた。 「原簿を見るのはタダやあらへん。一通につき二百円の手数料が要るんや」  法務局の中はそれほど広くなく、数名の職員がタイプを打ったりコピーを取ったりして働いている。カウンターで仕切られたホールには数人の来訪市民が自分の名前が呼ばれるのを待っている。その光景は小さな役所の市民課窓口のそれと変わりがない。  伸太はホールの隅に置かれているテーブルのところに行き、そのテーブルにうずたかく積まれてある紙の一枚を手慣れた動作で取った。 「謄本請求をしたり、閲覧請求をするときには、この用紙を使うんや」  その用紙にはまず□謄本、□抄本、□全部証明、□閲覧、と印刷された欄がある。伸太はその中の閲覧の□の中に>印のチェックを入れた。そして自分の住所と氏名、そして押印をして、調べたい土地の所在地を書き入れた。  それから財布の中から、登記印紙200円と印刷された切手大の印紙を取り出し、ぶ厚い唇を開けて牛タンのようなだらりとした舌で唾《つば》を付けてから、大きな手のひらでバンと張りつける。テーブルの上に水を含ませたスポンジが置かれてあるのに、まるで視界に入らないかのようにそれを使おうとしない。 「これ、頼んまっさ」  伸太は受付カウンターへ閲覧申請書を両手でまるで賞状を手渡すかのように恭《うやうや》しく差し出した。どうやらここらへんは、伸太独自の仕草のようだ。とにかく癖の多い男だ。 「少々、待って下さい」  丸い眼鏡を掛けた朴訥《ぼくとつ》そうな職員は奥へ歩を運んだ。奥の棚にはずらりと古い百科事典のようなものが並んでいる。眼鏡の職員はその中の一冊を背伸びして取り出した。 「あれが登記簿の原簿や。四、五十の不動産を一冊のバインダーに纏《まと》めてある。このへんの地価でも、あれ一冊で億を超える土地が入っている。東京の都心なら、一冊で兆をオーバーする土地が綴《と》じられとるんやろな」  伸太はぼんやりと呟《つぶや》くようにいった。今の日本で、土地ほど高いものはないと言えるだろう。もともと土地は埋立でもしないかぎり増えない、という供給量に限りがあるものだ。それなのにみんなが土地を欲しがるため、需要・供給の関係で当然値段は上がってしまう。日本のように国土が狭くて、都市への人口集中度が高い国ではなおさらだろう。  もっとも同じように国土が狭いヨーロッパでは、日本ほど土地が高くないという話を由佳はバレーボールの遠征で訪れた際のレセプションで聞いたことがある。ヨーロッパでは土地は公共財産という意識が定着し、そう簡単に取引の対象にできないという話だったと記憶している。ところが日本では、土地は格好の取引と投機の対象になってしまっている。  丸眼鏡の事務職員は一冊一億円以上の簿冊を無造作に抱えながら、つかつかと伸太たちの方へ歩いてきた。 「石丸さん。あなたが閲覧請求なさった土地の登記簿は、ただ今調整中なんですよ」  何も表情を変えることなく、彼は極めて事務的な口調でそう言った。 「調整中? なんぞ新たな登記申請でも出ているのでっか?」 「ええ、そうですな。昨日その申請が出ています」  丸眼鏡は簿冊に挟みこまれた附箋《ふせん》のようなものを見ながら答えた。 「ほなら、その新たな登記申請の申請書を閲覧させとくれやす。わいはこれでも一応司法書士でんねん、利害関係はおます」 「じゃあ、付属書類の閲覧を請求して下さい」 「へえ、分かりました」  眼鏡の事務職員と伸太のやり取りは、由佳にはさっぱり理解できなかった。  伸太は再びテーブルのところへ行き、鞄《かばん》の中から用紙を取り出したかと思うと、普段ののっそりとした行動からは想像もできないほどのスピードで、さらさらとボールペンを走らせた。由佳はこの義兄が持つ不思議な一面を垣間見《かいまみ》た気がした。お好み焼きを生業にしている片手間の代書屋にしては、先程の丸眼鏡とのやり取りは鋭く、書類をしたためる手つきは早い……。伸太は二分たらずで書き上げた閲覧申請書を丸眼鏡の職員に突き出した。丸眼鏡は、金釘流《かなくぎりゆう》の字で殴り書かれたその紙をしげしげと眺めたあと、奥に入った。 「義兄《にい》さん、どういうことなの?」  由佳はやっと問いの声をかける隙間《すきま》を伸太の広い背中に見つけることができた。 「岡崎美紀はんが買おうとしている土地に、何らかの新たな登記が昨日なされたんや」  伸太は振り返って、説明した。その表情には、普段の柔和さが半分以上戻っていた。「新たな登記の申請がなされたときは、登記簿の原簿にタイプでその申請内容を打ち込まれるまでの二、三日ほどは調整中ということで、すんなりとは閲覧はでけへんのや」 「新たな登記の申請がなされた、っていう意味がよく分からないわ」  由佳は小首をかしげた。新たな登記は買主である岡崎美紀がこれからしようとしているのではないのか? 「たとえ岡崎美紀はんが、小端重夫から土地を買う話を進めている途中であっても、別の人間の登記がそこに割り込むことは可能なんや」 「割り込む?」 「一つの土地を別々の二人の人間に売ることは、違法やけど可能なんや。そのときは別人の登記が割り込むことになる」 「石丸さん」  丸眼鏡の職員が声をかけた。 「はいな」  待ってましたとばかりに、伸太は巨体を跳びはねさせて、カウンターに向かった。まるで急上昇する熱気球のような印象さえ受ける。 「これが昨日出された新たな登記申請書です。仮登記ですな」  ワープロで打ち込まれた厚手のB4紙を丸眼鏡はカウンターに拡げた。 「やっぱり、せやったんか」  伸太はそれを食い入るように覗《のぞ》き込んだ。 「分かりました、えらいすんまへん」  伸太は丸眼鏡に礼を述べて、あっさりと引き下がった。 「ねえ、義兄さん、どういうこと?」  法務局のドアを押す伸太を、由佳はあわてて追いかけた。 「やっぱり別の人間の登記が割り込んどる。小端重夫から酒間和史という人物へ所有権移転の仮登記がなされていたんや」 「仮登記?」  またもや聞き慣れない言葉が出てきた。 「仮登記というのは、簡単に言うてみたら、予約のための登記や。この予約の登記をしておけば、そのあとから登記をしようとする人に優先するんや」  伸太はメモ帳を取り出した。新聞に折込み広告として入っているチラシの中から裏が白紙のものを集め、それを切って、紐《ひも》で綴《と》じた独特のメモ帳だ。  伸太はそれに金釘流の字で、次のような図を描いた。 [#挿絵(img/fig5.jpg、横105×縦423)] 「小端重夫から岡崎美紀へ土地の売買契約の話があったのが三月十七日や。この登記簿によると、そのあと、二重売買として酒間和史という者にも同じ土地が三月十八日に売買契約がされとる。すなわち同じ土地が二重に売買契約されたわけや。このようなときは、たとえ契約があとでも、『先に登記を備えた方が勝ち』という法律の定めがある。その早い者勝ちの効果は仮登記でも変わらへんのや」 「じゃあ、昨日仮登記の申請を済ませてしまった酒間和史という人に、岡崎美紀さんは遅れて登記をすることになり、勝つことができない、ということなの?」  美紀は伸太に依頼して、これから登記を申請しようとしている段階だ。 「そういうことや、この先彼女がちゃんと代金を払っても、もはや土地を手に入れることはでけへんわけや」  伸太は軽く頷《うなず》いた。「地面師がちょくちょく使うやり口や。おそらく小端は、この仮登記のことを伏せたまま彼女から代金の二千万円を巻き上げて、どこかへトンズラするつもりやったんやろ」 「美紀さん、危なかったのね」  幸い美紀はまだ手付しか支払っていない段階だが、仮登記がすでになされていることを知らずにこのまま契約を進めていったら、代金は取られたものの土地は手に入らず、せっかく宝クジで当たった二千万円をドブに捨てると同じ結果になるところだった。 「巧妙な手口やで。この仮登記の申請というのは、小端の持っている権利証は付けんでもええんや」 「どういうこと?」 「普通の移転登記のときは権利証を付けて法務局に出さねばならず、その権利証には使用済みのゴム印が押される。せやけど仮登記のときは、権利証を出す必要がないよって、使用済みのゴム印も何も押されないきれいなままや」 「じゃあ、小端重夫の持っている権利証を見ただけでは、仮登記が付けられているかどうかは分かりっこないのね」 「そういうことや。ここに美紀さんが小端重夫からもらった権利証のコピーがあるけど、きれいなままや」  伸太は先ほど由佳に見せたコピーを拡げた。確かに使用済みの印はない。これでは、まさかあとで二重売買の形で覆《くつがえ》されるとは素人《しろうと》には分かるはずもない。 「ひどい。悪質だわ」  怒りながらも、由佳は背筋に軽い震えを覚えた。自分だって美紀の立場なら、簡単に引っ掛かっていただろう。 「まったく、こんなふうに登記制度を悪用する輩《やから》は許せんわい」  伸太は細い目を精一杯に吊《つ》り上げながら、突然歩き出した。 「義兄さん、どこへ行くの?」 「まずは美紀さんに電話で連絡や。小端重夫から催促を受けて今日にでも代金を支払うことにでもなったら、目も当てられんがな」  登記所の前の電話ボックスへ、伸太は太くて短い足を急がせた。 「えっ、そんなことになっていたのですか……」  美紀は心底びっくりしたような声を上げた。「やっぱり、だめですわね。電柱の広告なんか信用しちゃ」  それ以上、美紀は二の句が継げないでいた。 「電柱広告のすべてが眉唾《まゆつば》というわけやあらしまへんけど、新聞広告よりは危険性が高いのは確かですワな」  伸太はつぎのように説明した。  一流新聞の広告ですら、中には詐欺に使われるものがある。それに、詐欺になるというほどではないのかもしれないが、�囮《おとり》物件�という代物《しろもの》だってある。格安で出にくい物件を広告に載せて、それを見た客が電話をしてきたら「タッチの差であれは売れました。でもそれに劣らぬ好物件がありますよ」と勧める釣り方である。 「その小端重夫という男の連絡先を教えとくれやす。わいが行って、手付金を取り戻してきてあげまひょ」  伸太は受話器を持つ手をぐいと握り締めた。 「ありがとうございます。でも、あたしのことで、そこまでしていただくのは少し気が引けますわ」  受話器の向こうで、美紀は遠慮がちにそう言った。 「なあに、こっちはそんな奴らの扱いには慣れてますよって」 「それじゃ、お願いできますかしら。小端重夫さんの電話番号を言います」  伸太は、メモを取った。 「本当にいろいろとありがとうございました。石丸さんのお蔭《かげ》で、二千万円の大損をするところを助けられましたわ」 「なあに、不動産登記に携《たずさ》わる代書屋として、当然の仕事をしたまでですがな。へへへ」  鼻の下を伸ばしながら、伸太は満足そうに受話器を置いた。 「さて、今度は敵さんとこへ電話や」  メモを持ったまま、伸太は隣の番号を一緒に押してしまいそうな太い指でプッシュした。 「こちら、小端です。あいにくただいま出かけております。恐れ入りますが、要件と電話番号をお伝えください——」  予想したよりずっと丁重で若い声の留守番テープが流れてきた。 「岡崎美紀さんの登記代理人の石丸というもんや。今、法務局能勢出張所の前から電話をしとる。あんたのえげつないやり口は、こっちはすべて把握したで。もう観念せい。とりあえず、岡崎さんに手付を返すんや。それから……」  そこまで責めるような口調で続けたあと、伸太はチッと軽く舌打ちした。 「どうしたの?」  一緒に電話ボックスに入っていた由佳が、伸太の丸い顔を覗《のぞ》き込んだ。 「留守番電話の録音時間が終わってしもた。せっかくこれから、大見得を切るええとこやったのに」  伸太は、ひいきの野球チームの猛攻撃が放送時間終了で尻切れトンボにされてひどく不満な少年のような表情を見せた。        3  由佳と伸太は、とりあえず新世界の家へ帰ることにした。 「告訴状を書いてみよと思うんや。あの小端という男は、余罪がありそうやで」  伸太は珍しく、眉《まゆ》をぴんと跳ね上げた。  伸太がこんな厳しい表情をしたのを、ずっと以前にも一度見たような気が由佳にはする。当時中学生であった彼が、広い顔面を血だらけにして帰ってきたときだ。級友が番長格の上級生にいじめられているところを助けて、殴り合いになったということだった。父の周平はしきりに「でかした、でかした」と伸太の頭を撫《な》でて、隣のカサブランカへ連れていって酒を飲ませたと記憶している。母は「ケンカをして何が偉いのよ」と、中学生に酒を飲ませる父に抗議していたものだった。 (もしかして、若い頃の父は、この義兄そっくりだったのでは)  由佳は帰りのバスの中でふとそう思った。由佳の頭の中には、将棋ばかり指して、母に愚痴られてばかりいる周平の姿しかない。けれども、母や由佳の知らないところで、今の伸太のような庶民派代書屋としての活動をこっそりとしていたのではないだろうか……。  その周平は相変わらず昏睡《こんすい》状態のまま、寝込んでいた。  伸太は湯を沸かし、周平の衣類を脱がせたうえで、湯を含ませたタオルで老人性|紫斑《しはん》の浮き出た周平の体をゆっくりと拭《ぬぐ》った。ずいぶん慣れた手つきだ。おそらく毎日の日課にしているのだろう。タオルを当てられても、周平はほとんど表情を変えない。もはや生気は感じられない。由佳は思わず顔を俯《うつむ》けてしまった。 (本来なら、実の娘であるあたしの仕事かもしれない)  由佳は頬《ほお》の火照《ほて》りを感じた。  ベルが鳴った電話に救われるように、由佳は席を立った。 「もしもし、岡崎美紀と申しますが」 「ああ、美紀さんね。こんにちは」  昨日ここへ訪れた彼女とほとんど言葉を交わしていないにもかかわらず、由佳は友達に対するような口の利き方をした。それは今日、能勢まで足を運んで美紀が買おうとする土地をめぐって、伸太との会話で盛んに「美紀さん」「美紀さん」と口に出していたからだろう。  由佳は受話器を伸太に渡した。 「はい。どないしはりました」  伸太はむんずと受話器を掴《つか》んだ。 「今、小端さんのところへ電話を入れて厳重に抗議をしたばかりです」  先ほどは留守番コールであったが、能勢からこちらまで戻り周平の下の世話をしている三時間ほどの間に小端は帰ってきたようであった。 「あたし、すごく腹が立ったから、かなり厳しく詰問したのです。そうしたら、手付金を倍返しして契約を解除するから、警察への告訴をやめて欲しいと詫《わ》びるのです。あたし、手付を倍返しするということの意味も分からないし、どうしたらいいか判断がつかなくて、いったん小端さんとの電話を切ったのです」 「手付の倍返しでっか」  伸太は、その意味を美紀に説明した。  手付というのは、売買や請負などの契約を結ぶ際に、その実行の保証として相手方に金額の一部を渡すことをいう。今回の件では買主である美紀が、売主である小端へ五十万円の手付金を交付していた。この手付は相手方が契約の履行に着手するまでは、買主の美紀は交付した手付を放棄する形で、そして売主である小端はいったん受け取った手付にプラス同額金銭を付ける形で、解約できるという民法の定めがある。小端はその規定にのっとり、手付を倍額にして返すと言ってきているのである。  しかし、手付を倍返しして契約を解約したとしても、それで小端が詐欺的行為をしたという事実はなくなるわけではない。一般に、民事上の責任と刑事上の責任というのは分けて考えられる。例えば自分のミスによって交通事故を起こして通行人を負傷させたドライバーが、民事上の損害賠償を完全に履行したからといって、刑事上の責任である業務上過失致傷が直ちに無罪となるわけではない。したがって、手付の倍返しにより契約内容の履行という民事上の責務が消えても、小端は詐欺的行為をなしたという刑事上の問責から逃れられるわけではないのだ。 「あたし、お金が返ってくるのは何よりですけど、でも騙《だま》されかかって危うくせっかくの二千万円を取られかかったことは許したくはありませんわ」  美紀は端正な顔立ちからは想像できないほどの、強い口調でそう言った。 「わいも同感ですのや。今回の事件でいきなりあんな手の込んだやり口を使ったとは思えまへん。今まで似たような違法行為をやっておったやろし、この先も繰り返す恐れは充分あります。ここらで一発懲らしめをやっとかんとあかんと思いますのや」  伸太は、ぶ厚い脂肪のためにさながらボクシングのグローブのように見える真ん丸い拳《こぶし》を作った。 「じゃあ、やはり警察に告訴を?」 「ええ、その前に明日にでも奴のところへ行ってきて、ちょいとどやしてやろと思てます。わいは不動産を食いもんにしようとする輩《やから》は許せまへん。明日行った際に、ちゃんと手付の倍返し金はもろてきまひょ」 「よろしくお願いします。本当に何から何まですみません」  受話器の向こうで頭を下げている姿が容易に思い描ける美紀の丁寧な言い方だった。 「義兄《にい》さんって、結構コワイ顔をするときもあるのね」  由佳は感心した表情で言った。 「そら、わいかて怒るときは怒るがな」  そう答えた伸太の顔は、もはやいつものユーモラスな蟹《かに》の甲羅《こうら》を連想させるそれに変わっていた。 「でも、義兄さん。それだけ登記に関するいろんな知識を持っているのに、少し勿体《もつたい》ないんじゃない?」  由佳は思ったままを口にした。実力社会、資格社会と言われる今の世の中で、専門知識を有する者は強い。これだけ土地の価格が高騰している情勢のもとで、司法書士なら相当の社会的地位と収入を得られそうにも思える。お好み焼き屋の二階で、古びた「代書屋」などという看板を上げていては宝の持ち腐れではないか。 「わいは銭《ぜに》を儲《もう》けるのは苦手や」  伸太は苦笑した。「商人《あきんど》の町に住んどりながら、大阪人失格かもしれへんなあ。けど大阪の人間はようドケチやと言われるけど、必ずしもそやあらへんで。例えば浪速《なにわ》のシンボルともいうべき大阪城を復興しようという話が持ち上がったときには、市民はぎょうさん寄付を持ち寄ったんやで。通天閣《つうてんかく》にしても、戦後の復活に際しては多くの市民が浄財を出した」  由佳はちょっと肩をすくめた。ドケチというのはお金を出す出さないのレベルの問題である。由佳の言いたいのは、お金を稼ぐ次元で積極性がないということなのだ。自分の能力をそれ以下にしか発揮できない人間は、由佳からすれば勿体ない生き方をしているということになる。稼ぎを何に使うか、というのとはまた別問題だ。 「おっと、親父のケツを出したままやった」  伸太はあわてて周平の寝床の脇《わき》に戻った。体を拭《ふ》くのに使われた途中のタオルが淋《さび》しそうに周平の痩《や》せ衰えた腹の上にぽつんと乗っていた。  由佳はそれ以上言葉を続けるのをやめた。伸太の衝立のような背中には、大阪駅前のビル街に事務所を持つ自由業の人間が着ていそうな、さっそうとしたフォーマルスーツはとても似合いそうもない。  また電話が鳴った。由佳は受話器を取った。 「はい、ええーっと、石丸ですけど」  由佳は十三年ぶりに、かつての姓で電話口に答えた。 「せ、先生いるかい。し、司法書士の先生……」  吃《ども》った、若い男の、ひび割れたような声が聞こえてきた。 「はい、あのう、どちら様ですか?」 「小端っていうもんだよ」  半ば跳ねつけるような慌てた返答だった。 「義兄さん、小端重夫よ」  由佳は受話器を手のひらで押さえて、胸騒ぎを覚えながら伸太の方を向いた。それほど小端の口調は尋常でない何かを由佳に感じさせた。 「さ、さっき留守番電話のテープを聞いた。そして、岡崎美紀さんから、抗議の電話を受けた。ほ、本当に悪いことをしてしまった」  吃りながら、小端は詫《わ》びを述べた。 「悪いと思うくらいやったら、初めからそないなことはせんこっちゃで」  伸太は少し諭《さと》すような口調で答えた。 「も、申し訳ない。どうか、け、警察への通告だけはやめてほしい」 「世の中、そないにうまくは行きませんやろ。人をボカンと殴っといて、謝ったらすべてが水に流されるという道理はおまへんがな」 「そ、そこんとこをなんとかひとつ。もちろん、あなたにもそれなりの謝罪金を支払います」 「あほたれ!」  伸太はいきなり怒鳴りつけた。「何でもかんでも銭《ぜに》で解決がつくもんやあらへんわい。男らしく自分がやったことの責任をちゃんと取らんかい」 「ま、待ってくれ。おれは今鶴見区の方で、開発のプロジェクトをやっている。プロジェクトはまだ半分くらいしか進んでいない。ここで警察に捕まってしまったら、元も子もなくなる。どうか、勘弁してほしい……」 「そんな都合のええ話は聞けしまへんな。わいは、登記を利用した不正を見逃したことは、これまで一度もおまへん」  伸太は受話器を耳に当てながら、かぶりを振った。 「ど、どうしても、だめか」 「あきまへん。私腹を肥やすことしか考えとらん奴は大嫌いや」 「…………」  小端はしばらく黙った。 「わいは、あんたには余罪があると睨《にら》んどる。あまりにも、手慣れたやり方や。ここでわいがうやむやにしたのでは、あんたはまた同じようなやり方で善良な市民を苦しめるのと違うか。何しろ、あんたは銭を積んで窮地を逃れようとする男やさかいにな」  伸太は決して手綱を弛《ゆる》めようとしなかった。「わいはこれまでにも、あんたのような不動産詐取を働く輩《やから》と何度か出会ってきた。わいは、あんたらのような人種にひどく腹が立つ。他人の無知につけこみ、大事な財産を毟《むし》り取り、自分の懐《ふところ》を増やすことだけを考えとる」 「も、もう一度考え直してくれ。あの能勢《のせ》の件はちょっとした出来心だ。誰にでもそんな誘惑に駆られることはあるはずだ。さ、さっきも言ったように、鶴見区でのプロジェクトが途中のままなんだ。このままでは、依頼してきた阪南開発という不動産会社に顔向けできない。い、いや顔向けどころか、おれは阪南開発との約束ができなくて、詰め腹を切らされることになる……」 「自分の都合ばかり、ほざくんやあらへんで」  伸太がそこまで言ったところで、突然電話が切れた。 「何ちゅうやっちゃ」  伸太は頬《ほお》を紅潮させて怒りを現わした。「こうなったら、早《は》よ警察に通報したるわい」  伸太は府警本部の万藤巡査部長を電話で呼び出した。別の不動産をめぐる詐取事件を通じて、顔見知りになった詐欺犯担当の刑事だということだ。  伸太はこれまでの経緯《いきさつ》を万藤に掻《か》い摘《つま》んで話した。 「分かった。詐欺罪で調査することにしよう。資料を書類の形にまとめて出してくれないか」 「よっしゃ。うんと、とっちめたっとくなはれ」  伸太はそう付け加えてから受話器を置いた。  その途端に、また電話が鳴った。 「も、もしもし、こ、小端です……」  まるで消え入りそうな小さな声だ。「な、何とかもう一度考え直してくれませんか? 金は出します。み、見逃してもらえないと、お、おれはどうしようもなくなる……」 「くどいでんな」  伸太はガラガラ声を高ぶらせた。「自分のやったことの責任を取れ、わいはそう言うてまんのや」 「そ、そこを何とか。お、おれは強がっていますが、本当は気の弱い神経質な人間なのです。警察に通報されたら破滅です。期限までに鶴見での開発プロジェクトを片付けられなかったら、死ぬしかありません」  小端の声はさらに小さくなった。 「あんた、いくら泣き言をいってもあかへんで。たった今、わいは知り合いの詐欺犯担当刑事に知らせたとこや」 「あ、あぁぁ——」  嘆声とも悲鳴ともつかぬ声が返ってきた。「も、もうだめだ」  再び小端は一方的に電話を切った。 「何や、こいつ」  伸太は、プププププと短く鳴り続ける受話器をぼんやりと見つめた。 「義兄《にい》さん……」  由佳は、ホラー映画のファーストシーンが写し出される直前にも似た不安感が胸の中に湧《わ》き上がるのを覚えた。 「もう少し待ってみるワ。また電話が鳴るかもしれへん」  伸太は長い中断をしたままの周平の下着替えに取りかかった。  十分経ち、二十分が経った。昔ながらの黒いダイヤル式電話機は、まるでイミテーションのように沈黙を保ったままだった。 「ちょっと、小端のところへ行ってみるか」  周平の世話を終え、手持ちぶさたになった伸太はそう言った。「あの様子では、国外逃亡ということも考えられるしな」 「もしも罠《わな》が張られていたら、どうするの? 相手は狡猾《こうかつ》な詐欺師よ」 「そないな勢いのある声やなかったけどなあ」  伸太は板の剥《は》がれかかった天井を仰いだ。「まあ、でも、万藤刑事に連絡して同行してもらうか。どうせ告発の資料を彼に渡さないかんよってな」 「あたしも連れてって」  由佳は、この部屋でじっと周平と共に待つ気にはならなかった。  それから三十分後、万藤刑事が最近では滅多にお目にかかれない、軽自動車のスバルを乗りつけてやってきた。刑事というイメージからはほど遠く、万藤はストロー級のボクシング選手のように背が低くきゃしゃであった。年齢は三十を少し過ぎたところだと思えるのに、頭の中央部はドーナツ状に禿《は》げている。そして、顔立ちは日本猿に似ていた。  もしも小端から電話がかかったときのことを考えて、山中のおばちゃんに留守番役を頼むことにした。 「ブーやんたちは、まるで孫悟空の大冒険だね」  山中のおばちゃんはクスクス笑いながら、年代物のスバルを見送った。ブーやんこと伸太が猪八戒、猿顔の万藤が孫悟空、そして長身で色の白い由佳が沙悟浄という意味なのだろう。 「小端は、電話で鶴見での開発がどうのこうのと言っていたという話やな」  運転席の万藤は後部座席の伸太を振り返った。軽自動車の古典的名作ともいうべきスバルはシートが狭い。横幅のある伸太が一人で後部座席を乗り占め、由佳は助手席に座った。禿げ頭の孫悟空の横に座るのは不本意だが、伸太の横の十センチあるかなしかの狭間《はざま》に腰を降ろすよりはずっとマシだ。 「そうや。阪南開発という不動産業者から依頼を受けて、プロジェクトを進めとると言うとったワ」 「今、鶴見の方の地上げはものすごいらしい。花の万博は開幕目前だし、何よりもそれに合わせて地下鉄が開通する。あの連中の開発プロジェクトというのは、既存の古い住宅を立ち退かせて、ビル用地の更地《さらち》を作ることを意味する。要するに地上げ行為だ」  東京で暮らしている由佳はもちろん地上げ屋という言葉を知っている。古いアパートや借家などを立ち退かせて、そこに新しいビルやマンションを建てて儲《もう》ける。立ち退きに際しては、ときにはダンプカーを突っ込ませて家を壊したり、放火の強行手段に訴えることもあると聞く。  地価の高騰を背景に暗躍する地上げ屋は、成功すればまたたく間に巨万の利益を手にできるようだ。たとえば古いアパートの建っている土地を地主から一億円で買取り、借家人たちを追い立て、更地のマンション用地にしてそれを二億円で売れば、都合一億円の儲けが短期間で手に入るのだ。真面目なサラリーマンが毎日残業残業で働き続けても、一生かかって一億円という貯金を残すことはまず不可能なのに。 「最近では、単純で強引な地上げというのは下火になっている。われわれ警察はこれまで守ってきた�個人間のもめごとには権力を介入させない�という民事不介入の原則を離れ、そこに暴力を伴うものは取り締まる方針を打ち出している。行政の方も、超短期重課税制度や監視区域制度などのいろんな規制を強めている。その結果、従来の暴力型地上げ行為は減少している。しかし最近では、違うタイプの地上げ屋が出てきよった」  万藤はハンドルを切りながら、説明を続けた。「暴力型地上げ屋に対して、詐欺型地上げ屋と言ってもいいと思う。われわれの警察組織になぞると、捜査一課的不動産犯罪から捜査二課的不動産犯罪の増加と評していいだろう。あるいはその小端という男はその手合いのものかもしれない。もっとも今出がけに、前科者リストで調べたところ、小端重夫には暴行罪の前科《マエ》があった。詳しく調べとる余裕はなかったけれど、どうやら不動産絡みの暴力行為らしい」 「いくら表面的な規制をしても、肝心の地価が値下がりをせんかぎり、どないしても不動産にまつわるあくどい連中はなくならんわいナ」  半ば諦《あきら》めたかのような口調で、伸太は後部座席で軽くあくびをした。  岡崎美紀から預かっている小端の権利証の写しには、彼の住所は堺《さかい》市|今池《いまいけ》西町十六番地とあった。 「今池というのは、少年鑑別所のあるところだ」  万藤は警察に身を置く人間だけあって、堺市今池町の少年鑑別所までは、容易にスバルを走らせることができた。そのあとは住居表示板を頼りに、小端の自宅を探した。  一階がガレージ、二階が居室という建坪二十坪ほどの鉄骨住宅に小さく〈不動産全般 小端重夫〉という金看板が出ている。地上げ屋というイメージからすると、結構慎ましやかで地味な一戸建てである。それでも若いサラリーマンや公務員では、副業でシャブの売人でもやらないかぎり、これだけの家を建てることはまず難しいだろう。 「おや、ガレージのシャッターが少し開いたままだな」  万藤が目敏《めざと》く見つけながら、運転席からひょいと降りた。前の道路は三メートル五十の幅はなく、こんな場所に車を停《と》めたら駐車禁止に引っ掛かるはずだが、捜査となれば別なのだろうと由佳は思った。  万藤は小柄な体を折り曲げるようにして、シャッターの隙間《すきま》から中を覗《のぞ》き込んだ。 「どうも様子が変だ」  続いてスバルを降りた伸太と由佳に向かって、万藤は小声で告げた。「中に車が一台あるが、エンジンがかけっぱなしになっている」  由佳はフレアースカートがアスファルトの地面に付くことを少し気にしながら、中の様子を窺《うかが》った。  薄暗いガレージの中で、一台の車がライトを消した状態で、停まっている。外車か国産車かまではよく分からないが、スバルよりは確実に値の張る高級車だ。エンジン音が規則的にカタカタと聞こえてくる。けれども、まさかガレージのシャッターを少し開けただけの状態で、発進するわけがない。  由佳は目を凝らした。運転席のシートに深く身を持たせ掛けた人影のようなものが見える。いやしかし、ギターケースのような荷物かもしれない。全く動きがないのだ。 「おい、あの蛇みたいなんは何やねん?」  由佳の後ろから、伸太がガラガラ声を出した。彼の体格では膝《ひざ》を落とす程度ではガレージを覗き込むことができず、道路にべったりと這《は》いつくばっている。  由佳は伸太の太い指先の差す方を追った。確かに、車の後部座席のガラスに、一匹の動かぬ蛇がじっとまとわり付いているかのように見える。その動かぬ蛇は蛍光灯管《けいこうとうかん》ほどの太さで、車の最後尾からぬるりと長い体をくねらせて後部座席のガラスにくっつき、さらにそのガラスを貫いて車内に入っている。 「蛇ではない。あれは、排気ガスを車の中に引き込んでいるホースだ」  万藤は敏捷《びんしよう》に跳ね上がった。そして、ガレージのシャッターの隙間から腕を突っ込んでぐいと引き上げた。薄暗いガレージに陽が差し込み、万藤の言ったとおり、蛇の正体が排気口から車内に引き込まれたホースであることがはっきりした。 「一酸化炭素が車の中に充満しているから、気をつけるんだ」  万藤にそう注意を受けながら、伸太と由佳はガレージの中に入った。  車はBMWだった。運転席には三十前の若い短髪の男が凍りついたかのようにシートでぐったりとしている。青い顔色には生気がない。 「おい、返事をしろっ」  万藤がフロントガラスを激しく叩《たた》いたが、男は微動だにしない。車のドアに手をやったが、しっかりとロックされている。  BMWの車内の窓という窓は、すべて内側からガムテープで隙間なく目張りされている。排気口から伸びたホースは後部座席のガラスをわずかに下げられて中に突っ込まれているが、その隙間もやはりガムテープで蟻《あり》一匹入れないくらいにきっちりと封印されている。 「あんたのところへ電話をかけてきたのは、どのくらい前だ?」  万藤は伸太の方を振り返った。 「一時間くらい前や」  小端から元気のない声で二度にわたる電話があり、万藤に連絡を取って、ここに来るまでに約一時間が経過している。 「それならまだ間に合うかもしれんな。燃料がまだ使い切っておらず、エンジンも切れていない。排ガスを引き入れてそう多くの時間が経ったとは思えない」  万藤はガレージの中を見回した。そして壁にかかった小型消火器を手にした。「多少手荒いが、やむをえんな」  万藤は細い腕で消火器を振り上げたかと思うと、後部座席の窓ガラスに力一杯ぶつけた。ガラスに蜘蛛《くも》の巣状のヒビが入った。二回、三回と万藤は消火器を振り降ろした。しかしガラスはまだ砕けるまではいかない。 「ちょっと貸しなはれ」  伸太が万藤から消火器を受け取って、半ば投げつけるようにガラスに激突させた。それで野球ボール大の穴が開いた。万藤はそこから腕を突っ込み、ロックを外してドアを開けた。とたんにムッとする排ガス臭が鼻をつく。万藤はそれに構わず、運転席から小端を引きずり出した。小端の体はまるで人形のようにぐったりとしたまま、ガレージの床に転がった。 「こりゃ、だめだな。もう死んでいる」  小端の鼻先と胸に手をあてがった万藤は、虚《むな》しく首を左右に振った。  由佳は思わずハンカチで口を押さえた。死体をこんなにまのあたりに見たのは、母のとき以来である。小端の表情は決して安らかとは言えない。両眼をカッと見開き、眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せている。手の指は引きつったかのように天を向き、爪《つめ》の何枚かは剥《は》がれかかって血が滲《にじ》んでいる。  万藤は車内を覗《のぞ》き込み、ダッシュボードから免許証を見つけた。 「小端重夫に間違いない」  免許証の写真と死体の顔とを、万藤は落ち着いて照合した。 「自殺でっか?」  伸太は眼を何度もしばたたかせながら、訊《き》いた。 「一応検死をすることになるが、自殺と断定していいだろう。きっちりと内側からガムテープで目張りがなされ、隙間は全くない」  万藤は車内を覗き込んでいた体勢を起こした。「車の中から目張りをしてエンジンをかけるということは、この小端重夫本人にしかできない行為だろう」  唇をハンカチで押さえたまま、由佳はなるほどと思った。誰か第三者が車の内部からすべての窓に目張りのガムテープをきっちりと張り付け、エンジンをONにしてから、車外に脱出することなど不可能だ。 「さよか、この車の中は一種の密室というわけでんな」  伸太はそう呟《つぶや》きながら、車の後部に回った。「それにしても、えらくご丁寧なほど排気口にガムテープを巻いてまんな」  排気口とホースの繋《つな》ぎ目は、膝《ひざ》を痛めたバレーボール選手がテーピングをするときのようにぐるぐると巻かれている。  伸太はそのホースに顔を近づけた。ジャバラ状の凹凸が横に何本も入っている。 「これは洗濯機用の排水ホースやな。確かに頑丈で、曲がりかたも自在で、排ガスを引き入れるにはもってこいかもしれへん。そやけど、BMWと洗濯機のホースというのは何となくけったいな取り合わせやな」  伸太はホースに手を触れようとした。 「あ、だめ、触らないように」  万藤は注意した。「民間人に現場を触られたことが分かったら、私は上司に怒られる」  由佳は、万藤の「民間人」という言い草に軽い抵抗を覚えた。警察官を一般市民と分け隔てする意識は、国民の公僕としてのものではなくむしろ自分たちを一種の特別視するところから出ているのではないだろうか。 「お嬢さん、そこらへんの公衆電話で府警本部まで連絡を取って下さいな。あ、そのときには万藤が現場に立ち会っているとかならず付け加えてくださいよ」  万藤はポケットから十円玉を取り出して、まるで賽銭箱《さいせんばこ》を狙《ねら》うかのように由佳に向かって放り投げた。  お嬢さんとは言われたけれど、由佳はあまりこの万藤という刑事が好きになれそうにないなと思った。 「由佳ちゃん、ついでに岡崎美紀さんにも連絡しといてんか」  伸太が声を掛けた。由佳は頷《うなず》いた。小端が死んだということは、美紀にぜひ連絡しておく必要があると言えた。そもそも自分たちが小端と関わりを持つようになったのは、美紀の不動産登記依頼からである。  赤電話を見つけた由佳は、府警本部より先に美紀に連絡を取ることで、ささやかな万藤への抵抗をした。 「えっ、本当ですか? あの小端さんが——」  美紀は心底驚いた様子で絶句した。無理もない。彼女は宝クジの当せん金を有効な形で残そうとしたばかりに、すんでのところで不動産詐欺に遭《あ》いそうになり、さらにその取引相手の排ガス死を突然聞かされることになったのだ。 「本当なんですか?」  美紀はもう一度、信じられないと言いたげに訊き返してきた。  それから約一時間にわたって、由佳と伸太は現場検証と事情聴取に付き合わされた。美紀も一応関係者ということで呼び出されて、小端の顔の確認をさせられていた。美紀は死体をまのあたりにして、弥勒菩薩《みろくぼさつ》のような端正な顔立ちを泣き出さんばかりに歪めていた。     万藤という現役刑事が死体発見当初から同行していて、これだけの根掘り葉掘りのしつこさである。もしも由佳と伸太という二人の「民間人」だけが発見者だったら、その尋問の粘っこさは恐らく倍加されていたのではないだろうか。        4  翌々日になってやっと、由佳たちは万藤刑事の来訪を受け、警察が小端重夫は自殺だという見解を出したことを知らされた。 「あんたたちも居合わせていたからよう分かるやろけど、小端は中からガムテープでバカ丁寧なほど密閉された車の中で死んでいた。これは明らかに自殺の根拠となる。他殺や事故死ではこうはいかない。もちろん、われわれは遺体を解剖に処した。死因は排気ガス吸引による一酸化炭素中毒死だ。これといった外傷はなく、毒物の類《たぐい》も検出されなかった」  万藤は手帳を取り出しながら、報告調に続けた。「それと車内の目張りにつかったガムテープからは小端の指紋がいくつも発見された。さらに小端は死ぬ直前にあんたのところへ二度も、悲痛な声で電話をかけている。『警察に通報されたら破滅だ』とか、『死ぬしかありません』とかいう言葉があったそうだが、これは電話による一種の遺書と考えられる」 「電話による遺書……そうでっか。ほな、自殺の原因というのは何ですのや?」  伸太は、完全には納得できないと言いたげな表情で訊いた。 「そりゃあ、あんたが一番よう知っとるやろがな。あんたは自分が取り扱った登記受託について、小端の詐取《さしゆ》を見破り、激しく追及したじゃないか」  万藤は、何をつまらんことをくどくどと尋ねるのだとばかりに、不満そうな皺《しわ》を額に寄せた。「あのとき小端は、『鶴見の方でやっているプロジェクトはまだ半分くらいしか進んでいない。ここで警察に捕まってしまったら元も子もなくなる』と話していたということだったな。われわれが調査したところ、確かに彼は鶴見の方で阪南開発の依託を受けて土地の買い占めをやっていた。それが中途半端の状態で難航していたことも事実のようだ。小端は、前に話したことがある捜査二課的地上げ屋の一匹狼《いつぴきおおかみ》的存在だ。不動産ディベロッパーの下請けとして、詐欺的手段を弄して地上げにあたり、成功すれば大きな報酬を得るが、失敗すれば地上げや土地の買い占めに要した費用の回収すらおぼつかない一《いち》か八《ばち》か的な仕事だ。その彼を手先に使っている阪南開発というのは、表立っては派手に振る舞わず自らの手を汚さないが、実際のところは阿漕《あこぎ》なことでその道では有名なのだ。そんな阪南開発相手に中途で地上げを中断するわけにもいかず、かといってあんたに能勢《のせ》の件の登記詐欺を許してもらえるべくもなく、もう自暴自棄になったんだ。これまでやってきた悪事のツケが回ってきたと言うべきだな」  万藤はそう説明した。 「なんとのう、わいが自殺に追い込んだみたいで気分が悪いでんな」  伸太はボサボサの頭を掻《か》いた。その思いは由佳も同じだった。いくら悪質な不動産詐欺師であっても、自殺させるつもりで能勢の土地を調査したのではない。 「まあ、そう気にしなさんな。あんな奴はむしろ死んでくれたほうがありがたいわいな。たとえ詐欺罪で逮捕しても、出所してきたならまた何かやらかしたように思えるからな」  万藤は、さして気にかけていない様子だった。 「わいの依頼人である岡崎美紀はんの手付金はどないなりますねん?」  伸太は訊いた。小端は手付を倍返しすると言っていたはずだ。 「小端はまだ独身なので、実姉の酒間朋子という女が相続人となる」 「酒間? あの能勢の土地は二重売買されとったけど、先に仮登記を得ていたものが酒間和史という名前やった。その酒間和史と関係あるんか?」  伸太は口を挟《はさ》んだ。 「そのとおりだ。さすが司法書士さんやな。酒間朋子の夫が酒間和史や。わしは、昨日酒間夫婦に会ってきた。酒間和史はキタでバーテンをやっていて、善良な小市民とまではいかんかもしれんが、あくどい男ではない。義理の弟である小端重夫に頼まれて、詐欺に使われるとは知らずに名前を貸しとっただけのようや。姉の朋子も不動産のことは何も知らず、弟に乞《こ》われるまま、和史に『協力してあげて』と頼んどったようや。二人とも『ご迷惑をかけたかたには、できるだけのことをします』と言うとるから、まあ何とか手付金は返ってくるのとちゃうか」  万藤は、警察の仕事に民事上の被害救済までは入っていないと仄《ほの》めかしたげであった。  三日後、ワゴン車を乗りつけて、酒間和史が伸太のところへやってきた。彼は何度も頭を下げて詫《わ》びながら、岡崎美紀が支払った手付金の倍額に当たる百万円を置いていった。伸太はさっそく美紀に連絡を取って、その百万円を手渡した。 「あたし、先生へのお礼として五十万円をお渡しします。だって、あたしは支払った手付の五十万円が返ってきたらそれでいいのですから」  伸太は、「先生」と言われてキョロキョロあたりを見回した。横には由佳と寝たきりの周平がいるだけだ。 「先生って、わいのことのようでんな」  伸太は照れくさそうに舌を出した。「そやけど、五十万円ももろたらバチが当たりますワ。わいは能勢まで行っただけでっさかいに」 「あたし、今回のことで、素人《しろうと》考えで不動産に手を出してはいけないということが分かって、その授業料を支払わなくてはいけないと思っているくらいですわ。それに、先生のお力がなければ、あたしは二千万円を失っていたかもしれないのですわ」  美紀は爽《さわ》やかな笑顔を見せた。女の由佳から見ても、とても魅力的だ。 「そやけど、こないなことで五十万円はいくら何でも……」  伸太はなおも固辞した。  その夜、周平の容態が悪化した。癌《がん》の末期患者らしく、激しい苦悶を見せた。医者を呼んだが、医者は小声で、「お気の毒ですが」と言っただけであった。由佳は初めて、痩《や》せ衰えた父の手を取った。十三年前に、母と共に家を出たまま何の連絡もよこさなかった非礼を詫《わ》びたかったが、もはや風前の灯の周平には言葉を理解するだけの能力は残されているべくもなかった。 「親父、わいはあんたの跡をしっかりと継ぐで」  突然、伸太が大声を張り上げた。「まかしといてや。ナニワ男の心意気をしっかりと胸に秘めてきばるさかいになぁ」  伸太はオイオイとしゃくりあげた。  由佳は、幼い頃には分からなかった「ナニワ」の気《き》っ風《ぷ》を感じ始めていた。  この通天閣界隈《つうてんかくかいわい》は、汚くて、がさつで、臭い。けれどもそれでいて、庶民的な暖かさと触れ合いが残っているのだ。  ここは、大阪駅前のようなビジネスタウンでもなく、ナンバのような歓楽とショッピングの街でもなく、「ナニワ」の民衆の生活の場なのだ。この地では、財産がなくても、引け目を感じる必要は全くない。日雇い労働者たちが道路でゴロ寝をしていても、昼間っから酒を飲み過ぎてゲロを吐いていても、立ち小便をしていても、誰も顔をしかめない。定住する家のない者が道路で暮らす以上、生理現象をするのはしごく当然と受け止めている。     よそから訪れた人間どもが恥と感じるようなことを、むしろ自分たちの誇りとしている懐の深さが、「ナニワ」の気っ風が残る通天閣界隈には健在なのだ。  翌朝、周平は息を引き取った。  周平は、最後まで苦痛に顔を歪めていた。周平に意識があるはずもないが、伸太の差し出す太い腕をぐいぐい掴《つか》んで離さなかった。瀕死《ひんし》の病床にあってもほんの少しずつ伸びたと思われる周平の長い爪《つめ》が、伸太のボンレスハムのような腕に深く食い込み血を滲《にじ》ませたが、伸太は決して腕を引っ込めようとはしなかった。  由佳が驚かされたのは、周平の通夜と葬儀だった。  狭い家が弔問客で溢《あふ》れ返ったのだ。もちろん、名のある人が訪れたわけではなく、樒《しきみ》も町内会と大阪司法書士会から出されただけである。けれども、ろくに喪服すら身につけていない人たちが、心の底から搾《しぼ》り出すような涙を浮かべながら次々と駆けつけたのだ。その大半は、故人とさほど年齢の変わらぬ高齢層だった。 「わしゃあ、周平さんには、本当に世話になったぞえ。周平さんがいなけりゃ、危うく先祖代々の畑を掠《かす》め取られるところじゃった」 「周平さんは恩人です。あくどい周旋屋に騙《だま》されるところを助けてもらったです」 「ずいぶんとお世話になりました。家主さんとの間に入ってもろたり、交渉の立会人になってもろたりしました」  口々に感謝の言葉が、周平の遺影に向かって投げかけられた。  由佳は、クラシックのコンサート会場でいきなりハードロックが演奏されたような思いがけない衝動を受けた。自分が今まで抱いていた将棋狂いの父親像は見せかけの虚像であって、本当のところは下町の代書屋としてこっそりと蔭《かげ》で人助けをしていたのが周平の実像ではないだろうか? 「本当に、ええおかたじゃったよ」  通夜にも葬儀にも、一番に馳《は》せ参じて来た老婆がしみじみと言った。 「縁もゆかりもなく、ただ藁《わら》をも掴むつもりでやってきたわてに対して、何度も借金までして助けてくれはった」  老婆は出棺の際に泣き崩れてへたり込んだ。山中のおばちゃんが老婆を抱えるようにして立ち上がらせた。 「周平さんはナニワの桃太郎侍のような人なのよ。義を見て助けざるは勇なきなり、を地で行く人なんよ。そのために自分がいくら貧乏をしても、厭《いと》わないのね」  山中のおばちゃんは、その老婆と抱き合いながら、声を上げて泣いていた。まさに慟哭《どうこく》という表現がぴったりだった。 (石丸周平の血を引くたった一人の身内であるあたしが、本当は父のことを何も知らなかったのじゃないかしら……)  もらい泣きをしながら、由佳は、小学校三年生で生別してしまった父のことをもっとよく知りたいと思った。 「義兄《にい》さん、前にうちの家の登記簿を見せてもらったとき、借金があってその抵当がついていたけれど、あれはお父さんが自分の生活のためにお金を借りたのじゃないのね?」  斎場に向かう車の中で、由佳は伸太にそっと訊《き》いた。出棺の最後まで泣きじゃくっていた老婆の、「縁もゆかりもないわてのために何度も借金をしてくれて」という言葉が強く印象に残っていた。 「大阪に昔、大塩平八郎《おおしおへいはちろう》という学者さんがいた。反乱を起こしたことで名が残っているようだが、あの人は大切にしていた蔵書を売ってまで、飢えに苦しむ庶民を助けようとしたんや。とかくシブチンと言われる大阪人にもそんな人物もおるんやで」  伸太は由佳の問いに直接には答えなかった。 「あたしの母は、父のそんな面を知っていたの?」 「あたりまえや。小学校三年生の女の子とは違うで。そやけど、あんたのお母さんは、まず自分たちの生活がちゃんとできてから人助けをすべきやと、えらく親父のやり方に反対やった」  縫製の手内職をやっていた母の姿が由佳の瞼《まぶた》に浮かんだ。確かに母の言うことも一理あると思う。自分の妻に苦労させておいて他人を助ける、というのでは道楽と言われてもしかたがないのではないか。 「司法書士というのは、同業者間での貧富差の大きい職業なんや。一方では何人もの事務員を雇い、マンション建設会社などと結びついて大量の登記申請をしてどんどん利益を上げている企業家のような司法書士もいれば、かつての代書屋のイメージを引きずったまま地味に一件また一件というふうに細々とやっている者もいるんや」  伸太はゆっくりとそう説明した。周平や伸太は後者の典型、いやそれよりもさらに稼ぎの少ない下町の代書屋であった。 「悪徳不動産屋は、土地を転がしたり、買《こ》うたり、売り付けたりするに際して、登記と無縁ではいられへん。登記は現行制度のもとでは司法書士を通さんでもでけるんやけど、一応専門知識を要するさかいに、どうしても司法書士を使うことになる。そんなとき、ヤバイ仕事の登記を大きな事務所を構える司法書士のところへ持ち込むと思うか?」 「さあ、よく分からないけど、大きな組織のしっかりしたところへは、持ち込みにくいんじゃないかしら」  腰と膝を痛め、いろんな医療機関を回った由佳は、小さな町医者のところで「傷病保険の関係で、診断書の要治癒期間をもう少し長く書いてもらえませんかね」と頼み込んでいる患者を二度ほど見かけたことがある。診断書と登記では全然異質のものではあるが、大きなところほど融通が利かないという点では同じような気がする。 「そういうことや。悪徳不動産屋は、開業したての経験の浅い司法書士や仕事がなくて困ってそうな司法書士のところへ、ヤバイものを持ち込んできよる。大きなところでは、調査スタッフもしっかりしているし、危険と分かったら依頼を断る。一件ぐらい断っても、他にどんどん仕事がある事務所では、何も困らへんのや。そやけど、小さいところはそうはいかへん。狡猾《こうかつ》な連中は、そこらへんの事情をよう知っていて、仕事の無さに付け込んでくるんや」  伸太の小さな眼に、針先を連想させる光がキラリと走った。「けど、世の中の小さな司法書士がそんな形でどんどん悪徳不動産屋に利用されてみいな。結局は、何も知らん一般市民が、騙《だま》されてしまうだけや。司法書士が、そんな登記詐欺のお先棒を担いではいかんのや」  由佳は、伸太が詐欺犯担当の万藤刑事と懇意であることを思い起こした。そして山中のおばちゃんがさっき「ナニワの桃太郎侍」と言っていたことを反芻《はんすう》した。あるいは伸太も、そして前を走る霊柩車《れいきゆうしや》に眠る周平も、そのような悪徳不動産屋がやってくるのを捕えて懲らしめるためにわざと、貧乏長屋に古びた〈代書屋〉の看板を掛け、将棋に入り浸ったり、お好み焼き屋を兼業しているのではあるまいか。チョウチンアンコウという深海魚が、ぶざまな口を開けながら他の魚を誘《おび》き寄せるためにぼんやりと明かりを灯し、いざとなると敏捷に獲物を捕える姿が、由佳の眼底にふいに浮かんだ。 「義兄さん、じゃあ、父さんの将棋打ちはフェイントということなの?」  ついついバレーボール用語が出てしまう。 「世の中には、一般に知られている以上に不動産をめぐる犯罪が多いんや。法制度の不備もあるし、民事不介入の立場を守らなくてはいけない警察はどうしても後手後手に回ってしまう。少しでもそれを未然に防ぎ、善良な市民を救うことができたら、それこそ代書屋|冥利《みようり》やないか」  伸太は、直接的には肯定しなかった。けれども由佳には自分の想像が的を射ているという気がした。 「ところで由佳ちゃん。あの岡崎美紀という女性、どない思う」 「どない思うって?」  由佳には、伸太の問いかけの意味がよく理解できなかった。美紀こそ、伸太に救われた善良な市民の一人ではないのか。 「彼女は、お好み焼き屋の二階に掛かった古びた代書屋の看板を見てやってきたはずや。悪徳不動産屋は、たいてい司法書士事務所の外観を観察したうえで飛び込みでやってくる。ところが一般市民の方は、ほとんどが口コミか紹介や。例えば、親父がこの家に担保を設定してまで銭《ぜに》を貸してあげたさっきの婆さんは、山中のおばちゃんの友だちや」  なるほど、そう言われてみると、一般市民がいきなり司法書士事務所に依頼に入るときは、むしろ外観のしっかりしたところか、紹介者に教えてもらったところにするだろう。外側から見て貧相な医院では、ヤブ医者じゃないかと懸念する心理と同じだ。 「それやのに、あの美紀さんは、飛び込みでうちの二階へやってきたんやで。彼女の住所は堺市や。新世界とは十キロほど離れとる。堺市にもいくらでも司法書士事務所はあるはずなのに、それを素通りする恰好《かつこう》でわざわざお好み焼き屋の二階まで来とるんや」  伸太は鼻水を啜《すす》った。「宝クジで二千万円が当たったという話も、どことなく胡散臭《うさんくさ》い気がせえへんか。二千万円が当選する確率など、そうそうあるもんやない。それにいくら財テクがブームやというても、二十歳過ぎの女の子が電柱の張り紙を見て不動産を買おうとするやろか。由佳ちゃんがもし二千万円に当たったとしたら、どないする?」 「そうね、土地は買わないわ」  不動産への投資は、どうも怖い気がする。大手の銀行に預ける方がずっと堅実に思える。たとえ不動産を買うとしても、あんな能勢《のせ》のようなこれから値上がりしそうな土地ではなく、分譲マンションを公団か公社あたりから買うぐらいだろう。  確かに同世代の女性という眼から見てみると、美紀の行動には不可解なところがありそうだ。 「じゃあ義兄さんは、あの美紀さんは実は悪徳不動産屋の手先だったとでも言うの?」 「まさか」  伸太は並びの悪い歯を見せて失笑した。「そこまで言う気はあらへん。けど、何か背後に隠された事情があるような気がするんや。現にあの能勢の土地絡みで、小端重夫という男が死んでいるんや」  先頭を行く霊柩車が道を曲がった。斎場の高い煙突が見える。 「親父の葬儀が終わって落ち着いたら、ちょっとこのことを考えてみる必要がありそうやな」  伸太は着馴れないネクタイの胸元を締め整えた。        5 「この傷がいつでけたか、分かるか?」  葬儀の翌日、伸太は太い腕を捲《まく》って、由佳に見せた。猫に引っかかれたような擦り傷の跡が三本平行に走っている。 「お父さんが死に際に、苦し紛れに掴《つか》んだときのものかしら?」  断末魔の周平は、伸太のボンレスハムのような腕に激しく爪《つめ》を立てていた。 「そのとおりや。わいの腕に縋《すが》った親父の爪も、血が滲《にじ》まんばかりに剥《は》がれかかっていたもんやった。あのとき痛みを堪《こら》えながら、小端重夫の爪も捲《めく》れ上がって血が出ていたことを思い出したんや」  確かにBMWの中で死んでいた小端の爪はそうだった。 「小端はあの車内の限られたスペースでいったい何を掴んで、爪を捲れ上がらせたんやと思う?」 「車の中なら、ハンドルを握ろうとしたからかしら……」  由佳は、小端が運転席のシートにもたれかかるようにして死んでいたことを思い出していた。 「爪が傷つくほどハンドルを握っていたのなら、ハンドルを抱え込んだ状態で前屈《まえかが》みに死ぬのが普通やないかな。それにハンドルは、わいの腕と違《ちご》て細くて握りやすくできているのやで。いくら拳《こぶし》を締めても、爪が捲れ上がることはないのやないか」 「じゃあ、ダッシュボード? でもそれは少しおかしいわね」  ダッシュボードのような堅くて平面のものを掴もうとすれば確かに爪はあんなふうに剥がれるかもしれないが、ハンドルがあるのにあえてその先のダッシュボードに手を伸ばそうとするのは不自然だろう。 「わいには自殺の経験はない。そやからあくまで推測やけど、自ら命を絶つ者はそれなりの覚悟をしているはずや。一酸化炭素中毒というのは確かに苦しいやろけど、あないに爪を立てたり、苦痛に顔を歪めることはないのとちゃうやろか」  小端重夫の死に顔は、決して安らかとは言えなかった。 「じゃあ、義兄《にい》さんは、小端さんは誰かに殺されたのだと考えているの?」  万藤刑事が、自殺の根拠として示した点は、たくさんあった。BMWには内部からガムテープで目張りがしてあったこと。そのガムテープには小端の指紋が付着していたこと。電話を通じて「破滅だ」など自殺を匂《にお》わせる意味の言葉を口にしていたこと。不動産詐取を見破られたうえに鶴見での買い占めも巧く運んでおらず自暴自棄気味になっていたこと。——ざっと挙げただけでもこれだけあるのだ。 「他殺やと断定できるだけの自信はとてもあらへん。せやけど、さいぜん言うたような不審点があるんや。それに岡崎美紀はんが、なんでわざわざわいのオンボロ事務所へ来たかという謎《なぞ》もある」 「確かに、そうね。でも、警察は自殺と判断したわ」 「いや、あれは万藤刑事一流のハッタリかもしれへんと、わいは睨んどるのや。以前にわいが関わった事件で、あの刑事は密かに捜査を進めとることを隠しとったことがある」 「どうして隠す必要があるの?」 「わいら民間人に鼻を明かされたりしたら、刑事としてはえらい恥やと考えとるんとちゃうか」 「そんなものかしら……」  勘繰ってみると、万藤がわざわざ「小端は自殺だった」と由佳たちに説明しに来たのは、親切過ぎるかもしれない。 「小端の爪の傷をうっかり見落とすほど、警察の眼は節穴やないやろ」  能勢を舞台にした不動産売買代金詐取事件は、伸太の体つきに似合わぬ機敏な行動で決着したかと思えたが、実はそうではなさそうだ。 「わいはとりあえず、美紀さんともう一度会おうと思うんや。ほんまに、電柱で『格安の土地を売ります』という張り紙を見たのかどうかを確かめたいんや。能勢の法務局出張所に行くときにも言うたように、小端が能勢の土地をあえて堺で売ると広告したことが少し納得がいかへんし、鶴見での下請け開発に苦戦しておる状態で能勢の土地まで手を拡げたという点もおかしいと言えばおかしいやないか」  伸太は掻《か》き傷跡の残る腕を伸ばして受話器を取った。  岡崎美紀へのダイヤルを回す音が静かに響く。今までいつも部屋の端に敷き詰められていた周平の万年床は上げられ、小さな膳の上にポツリと遺骨が乗っている姿は侘《わび》しさを誘う。 「おい、ちょっと聞いてみいや」  伸太は受話器を由佳の耳に当てた。 「……こちらは電話局です。あなたがおかけになった電話番号は現在使われておりません。……こちらは電話局です。あなたがおかけになった電話番号は現在使われておりません。……」  乾いた声のエンドレスのテープが応対するだけだった。 「どういうことなの? どうしてなの?」  由佳は、岡崎美紀という同年代の美しい女性に対する疑惑が湧き起こることを禁じ得なかった。  能勢の土地に仮登記が付けられていることが分かったときも、小端が死んでいたことを連絡したときも、美紀への電話はちゃんと繋《つな》がった。それが今は「現在使われておりません」ということは、彼女がごく最近に電話を引き払ったという可能性が強いのだ。なぜ美紀は、事件が落着した途端に、そんなことをしたのだ?  電話機のフックをいったん下げた伸太は、電話局に照会の電話をかけた。そして、エンドレステープが応対するだけの電話番号を告げ、この電話番号はいつ何という人物が付け、何日後に廃棄されたのか知りたいと訊《き》いた。  いったんはプライバシーの保護を理由に断られかかったが、自分は司法書士であり、受託した登記申請にかかる処理上どうしても調査の必要があるのだと伸太は粘った。  設置者は岡崎美紀であり、三月七日に付けられている。電話局では、虚無人名義の電話開設を防ぐために住民票の提出を求めており、岡崎美紀もちゃんと住民票を出した。その住所は堺市|桜《さくら》ケ丘《おか》二番四の十六である。そして廃棄は、三月二十六日になされている、ということであった。 「三月二十六日といったら、お父さんが死んだ日ね」  その一日前の三月二十五日に、美紀は小端の遺族から渡された手付金を取りに来ている。彼女はその翌日に電話を引き払ったことになる。 「堺市桜ケ丘二番四の十六というたら、わいが連絡先として聞いた住所のとおりや」  岡崎美紀が最初に伸太たちの前に姿を見せたときに、彼女は伸太に電話番号と共に住所を教えていた。 「美紀さん、まだそこに住んでいるかしら?」 「まあ、住んでへんやろな。電話番号を変えて住所はそのままやったら、頭隠して尻隠さずやで」 「でも、一応行ってみる価値はあると思うわ。たとえ引っ越していたとしても、あるいは転居先を誰かに教えているかもしれないわよ」  伸太はしばらくぼんやりと考え込んでいたが、短く「せやな」と言って腰を上げた。  桜ケ丘というのは堺市の南部、履中《りちゆう》天皇陵のすぐ西側にあった。三十分以上も歩き回って、伸太と由佳は、桜ケ丘二番四という住居表示板が貼られたアパートを探し当てた。その二階の十六号室はやはり空き室になっていた。  隣室の専門学校生が在室していたので二、三尋ねた。「彼女は今月初めに入居してきたが、数日前に引っ越していきました。引っ越しといってもボストンバッグに収まるほどの荷物しかなく、少し怪訝《けげん》に思いましたよ」と専門学校生は話してくれた。引っ越し先は聞いていない、ということである。  伸太は、広告ビラの裏を使ったメモ用紙を一枚引きちぎり、美紀の似顔絵を描くように由佳に言った。  由佳は急いで鉛筆を走らせた。絵の特技がこんなところで役立つとは思わなかった。 「ええ、この人です」  専門学校生は深く頷《うなず》いた。「外階段で擦れ違っても、ろくに挨拶《あいさつ》もせずに不愛想な人でした」 「堺市役所へ行ってみよや。今の時刻ならまだ間に合うで」  伸太は由佳の袖を引くように急《せ》かせた。 「何のために、市役所へ?」 「彼女の住民票を取るんや。あのまま小端との登記が進んどったら、彼女の住民票を手に入れていたんやが、登記が頓挫《とんざ》した形となったさかいに住民票は見ずじまいや」  伸太は説明しながら、歩を速めた。  所有権を得た者は、その登記申請をするにあたって、住民票を提出しなければならない。したがって、本件の場合も能勢の土地の登記が順調に進んでいったなら、伸太は美紀の住民票の交付を求めていた。けれども、能勢の土地は所有権移転登記に至らなかったために、結局岡崎美紀の住民票を伸太は見ずじまいということになった。  閉庁の五時前ぎりぎりに飛び込んで、伸太は美紀の住民票謄本を請求した。 「岡崎美紀さんなら、桜ケ丘から転居していますが……」  受付の市役所職員はいったん奥に引っ込んだあと、伸太の出した請求書を手にしながらカウンターに出てきた。 「ほなら、その住民票の除票を請求しますワ」  伸太は、そう答えた。 「除票って何?」  由佳は尋ねた。 「転居をしたら、新しい住民票が作られることになるやろ。その代わりに、従前の住民票は消されることになる。そういう消除扱いされた住民票を除票と言うて、消去から五年間は役所に保存されるんや」  市役所職員が、二百五十円也の手数料と引換えに差し出した除票には次のように記載されていた。 [#挿絵(img/fig6.jpg、横179×縦397)] 「えらい、ややこしいことになってきよったで。岡崎美紀はこの三月二日に関根《せきね》町七十番地の五から、桜ケ丘二番四の十六に転居して、また三月二十七日に元の関根町に戻っておるがな」  伸太はメモ用紙に、次のように整理して書きつけた。  ㈰3月2日 関根町七十番地の五→桜ケ丘二番四の十六に転居  ㈪3月19日 「登記をお願いします」と訪れてくる  ㈫3月25日 手付の返金を受け取りにくる  ㈬3月26日 電話を引き払う  ㈭3月27日 桜ケ丘二番四の十六→関根町七十番地の五へ逆戻りの転居 「さあこれから、この関根町というところへ行くで。わいの勘に間違いなかったら、岡崎美紀はんに会えるで」  伸太はまたもや由佳の腕を引いた。 「えっ、美紀さんはアパートを出て、元の住所へ戻っただけなの?」  あまりにもあっけない気がした。 「いや、そやないんや。まあ行ってみたら分かる」  南海電車とバスを乗り継いだあと、十分近く歩き回って関根町七十番地の五に辿《たど》り着いた。さっきの桜ケ丘のアパートと同じような感じのワンルームアパートが建っていた。ただ前のときは側《そば》に履中天皇陵があったが、今度は浪速《なにわ》大学の学舎がすぐ近くにあった。 「あの一階の端の部屋の表札を見てみいや」  伸太が言うのとほぼ同時に、由佳の眼は釘付《くぎづ》けになっていた。暗くなり、廊下灯が点《つ》いた部屋の前の表札には確かに〈岡崎美紀〉と書かれてある。  伸太はチャイムを押した。 「どちらさんですか?」  若い女の声が聞こえた。 「司法書士の石丸伸太と言います。夕方にえらいすんまへんけど、あんたの住民票のことでお聞きしたいことがありますんや」  伸太は、由佳には奇異に思える訊《き》き方をした。まるで初対面の相手に問いかけるような物言いだ。  中からロックが外され、ドアが開いた。  あの岡崎美紀とは似ても似つかぬショートカットに眼鏡の女性が、伸太と由佳を等分に見た。ソバカスだらけの頬《ほお》、小さな眼、低い団子鼻。外交辞令にも美人とは言えない……。 「あんたが、岡崎美紀はんやね」 「はい、そうですけど……」 「まちがいなく、岡崎美紀はんやね」 「ええ……」  ソバカス女性は警戒の色を見せながら、首を縦に動かした。 [#改ページ]  第二章 隠された悪意        1 「義兄《にい》さん、警察には通告しないの? 他人の住民票を勝手に動かすことって、やっぱり何らかの法律に引っかかるのでしょ」  さっきから考え込んだままの伸太に、由佳はしびれを切らしたように訊いた。 「ああ、公正証書原本不実記載罪というやつになるはずや。そやけど、万藤はんに知らせるのはもう少しあとや」  伸太は小さく息をついた。「何らかの事情があるはずや。わいには、岡崎美紀の名前をかたったあのべっぴんさんが、根っからの悪人にはとても思えへんのや」 「ええ」  それは由佳も同感だった。手付の倍返し金・百万円を受け取りに来た彼女は、半額の五十万円を伸太への謝礼として置いていこうとした。あのときの彼女の仕草と美しい微笑には、人柄の良さが滲《にじ》み出ているように由佳には思えた。  けれども、住民票を手がかりに旧住所を当たったところ、全く別人の岡崎美紀というソバカス女性が住んでいたのだ。住民票の写しを見せると彼女はキョトンとしていた。「あたしはいったん桜ケ丘というところに引っ越したことになっているのですって? そんな。あたしは浪速大学に入学して以来ずっと、このアパートに住んでいます。桜ケ丘なんて、行ったことすらありませんわ」と本物の岡崎美紀は唖然《あぜん》としていた。  伸太の説明によると、次のようなことをすればこの状態になるという。  住民登録というのは、住民異動届というものを出すことによって動かすことができる。その届け出は認め印だけでよく、実印の押印は不要である。もちろん、そこへ転居したということを証明する書類(例えば、アパートの賃貸借契約書など)の提出も不要である。したがって極言すれば、誰だって自由に、他人の住所を好きな場所に移動させることができることになる。逆の言い方をすれば、誰もがこの住民票移動の標的になる可能性を持っているのである。住民登録を元に就学通知書が発布されたり、選挙人名簿が作られるので、就学齢期の子供がいたり、選挙の時期になって、その工作の対象になったことにようやく気がつくことになる。今回の岡崎美紀のように、本物が独身の大学生で、選挙もしばらく行われていない状態なら、とても一カ月や二カ月、住民票が動かされていても分かりっこない。しかも、本件の場合は、四週間たらずの間に元へ戻されているのだ。 「あたし、住民票って、本人確認の確かな証拠だと思っていたわ」  パスポートの申請や運転免許証の交付や、かつてのマル優|枠《わく》の確認には、住民票が証明手段として使われている。それがこんな簡単に移動させられるのだ。先だって伸太が電話局に問い合わせたとき、虚無人名義での電話設置を防ぐために、電話局では住民票の提示を求めているということであった。しかしその住民票自体が、こんなに危ういのだ。 「勝手に他人の住民票を動かせないように、歯止めは一つあることにはあるんや」  伸太は机の引き出しからクリアーファイルを取り出した。「これが住民異動届のサンプルや」  B5大の横書きのノーカーボンの用紙に、異動年月日、新・旧の住所、氏名、生年月日、本籍地、筆頭者氏名を書くことになっている。 「ここで本籍地と筆頭者氏名、そして生年月日を書くことを要求していることが、その歯止めや」 「そうか、本人じゃなければ、そんなことは分かんないものね」 「ところがこいつも、少しの手間をかければ、結構容易に分かるんや」  伸太はファイルの次のページを繰った。〈住民票の写し交付申請書〉とある。B5サイズの紙に「住民票請求人(窓口に来られたあなた)」「誰のものがいりますか」という丁寧過ぎるきらいさえある言葉で書かれた二つの欄が作られている。 「この用紙の二つの欄を見ても分かるように、住民票の写しは比較的簡単に第三者でも取れるようになっているんや。例えば債権の取り立てとか、貸金の督促状発送のためとか、ときには同窓生の現住所調査という理由でも通ることさえある。もっとも、住民票の写しには原則として、本籍地や筆頭者の記載は省略される。プライバシー侵害などの目的で取ることを防ぐためや。そやけど生年月日は省略されへん。そやからまずこの手を使えば、生年月日を調べられる」 「じゃあ、あたしが、あのソバカスお嬢さんの美紀さんの住民票を動かそうとすれば、まず第一段階として彼女のアパートの所在地をこの〈住民票の写し交付申請書〉に書いて、あたしの名前で住民票の写しを取ればいいのね」  それで美紀の生年月日が分かる。これで第一段階突破だ。 「さいな。そしてそのときに由佳ちゃんの名前を正直に〈住民票の写し交付申請書〉に示す必要はあらへん。たとえ虚無人の氏名で請求しても、役所の窓口ではチェックのしようがないんや」  なるほど、偽名での請求も可能だ。偽名を使えば、自分が住民票の写しを請求したという証拠が役所の方には残らない。 「ほいで、その次は本籍地を知るために、由佳ちゃんが岡崎美紀本人の振りをして窓口で、再び住民票の写しを交付請求するんや」 「え、どういうこと?」 「今度は岡崎美紀の生年月日は分かっているんやから、彼女の名義で住民票を請求することがでける。役所の窓口としては、〈住民票の写し交付請求書〉に本人の生年月日が書かれていることと、訪れた者の年格好しか、本人かどうかの判断をする手立てを持っとらんのや」  なるほど、岡崎美紀とほぼ同年齢の由佳が出向いたなら、役所の窓口で疑われることはまずなさそうだ。 「そしてそんときは、本籍地の書かれた住民票の写しを求めるんや。さいぜん言うたように、住民票の写しには原則として本籍地や戸籍筆頭者の名前が記載されへん。けど、それはあくまで原則や。それらの記載が必要な場合は請求でける。例えば、贈与税や相続税に関する申告の中には、本籍地や筆頭者の書かれた住民票の写しを提出せんならん場合がある。その目的のためやと言うたら、役所としては発行せざるをえんのや」 「じゃあ、その手を使って、あたしは岡崎美紀さんの本籍と筆頭者を知ることができるのね。これで第二段階も突破ね」 「そして第三段階の仕上げとして、さいぜんの住民異動届に、生年月日、本籍地、筆頭者の欄を埋めて、提出すれば、それで本物の岡崎美紀の住民票を動かすことは可能や。そやから、この三段階の手数さえ踏めば、他人の住所を勝手に持って行けるんや」 「でも、三度も役所の窓口へ訪れて、怪しまれないかしら」 「よっぽど小さな村役場でない限り、まず怪しまれることはあらへん。毎日何百人という来庁者がおるんや。どうしても慎重にしたければ、職員は食事などで適当に交代するさかいに、違う職員に受け付けてもらうようにしたらええんや。役所には銀行のような案内嬢や警備員はおらへんさかい、その頃合をロビーのベンチで待っていたりしても別段怪しまれることはあらへん」  伸太はそう言って、クリアーファイルを閉じた。 「それじゃあ、もし虚無人名義で、今の三段階の手続きがなされたなら、住民票を勝手に移動させられていても、いったい何者の犯行か手がかりはないわけね」 「あらへんな。強いて言えば、住民異動届から指紋を検出するくらいしかないけど、これも前科がなければお手上げや」 「じゃあ、岡崎美紀さんの名前をかたってあたしたちの前に姿を見せた、あの美人の女性は正体不明のままね」 「そういうことや。けど、まったく手がかりがないかと言うと、せやないようにも思えるんや」 「その手がかりって何なの?」 「それをさいぜんから天井|睨《にら》んで考えとんのや。もうちょっとで喉元《のどもと》まで出かかっとる。ちょっと、ヤイヤイ言わんといてんか」  伸太は下へ降りていったかと思うと、エビ入りイカ入りの特大のお好み焼きを作って持ってきた。そしてそれを旨《うま》そうに食い始める。普通の人間なら、腹にものを入れないほうが頭の回転が良いと言われるが、この大食漢のブーやんは別のようである。  優に三人前はあるUFOのようなお好み焼きをたちまち平らげたあと、伸太は十八番《オハコ》のチラシの裏を利用したメモ用紙を取り出しながら、やおら立ち上がった。 「さあ、これから能勢《のせ》の法務局出張所まで遠征や」 「えっ、またあの一時間に一本のバスに乗るの?」 「わいは代書屋や。そやさかいに、登記の世界で勝負するしかあらへん。確かめたいことがあったら、たとえ北方領土でも行くがな」  伸太はそう見得を切りながら、お好み焼きのソースの付いた口を手で拭《ぬぐ》った。        2 「義兄《にい》さん、もしかして、小端重夫は他殺で、その犯人はあの謎《なぞ》のA子さんだと考えているの?」  能勢電鉄山下駅前でなかなか来ないバスを待ちながら、由佳は訊《き》いた。由佳たちの前に姿を見せたニセ者の岡崎美紀の本名は分からない。A子とでも呼ぶしかない。 「小端重夫がたとえ他殺だったとしても、A子はんの犯行は不可能やろ。よう思い出してんか。わいらが小端のところへ行くときに、何度かA子はんと電話で連絡を取ったやないか」  そう言えば、小端の家へ出かける直前にも電話で喋《しやべ》ったし、小端の死体を発見したときも、由佳自身が警察に連絡を取るより先に彼女へのダイヤルを回している。いつ電話がかかってくるか分からない状態で、A子は電話機の前を離れられなかったはずだ。 「A子はんが借りていたアパートのある履中《りちゆう》天皇陵のそばの桜ケ丘と、少年鑑別所の前にある小端の家の所在地である今池《いまいけ》西町とは、地図の上の直線距離でもざっと四キロは離れとる。たとえリニアモーターカーが通っていたとしても、わいらの電話がいつかかってくるか分からへんという状態のもとで犯行をすることは不可能やで」 「前の夜に殺しておいて、というのは……ありえないわね」  由佳は言いかけて、自分で否定した。あのとき小端のBMWのエンジンはまだかかった途中の状態だった。時間が経過していれば、ガソリンがなくなり、エンストになっていたはずだ。 「でも、義兄さんは、 A子さんが小端重夫の死に無関係だとは思っていないんでしょう?」 「何しろ、彼女が誰の紹介もなしにわいのとこへやって来たことから、今回の事件はそもそも始まったんやからな」 「A子さんは直接の犯人ではないとしても、何らかの関わりがあるかもしれないということね」 「主犯はどこか別にいて、彼女は幇助役《ほうじよやく》という可能性かて、あり得んことではなさそうや」  伸太は共犯者の存在を口にした。主犯が別にいれば、A子が電話の前にいたとしても、同時刻に小端を殺害することは不可能ではない。 「だけど、小端重夫の死が自殺ではない、という根拠は何もあがっていないのよ」 「そういうこっちゃ。そやさかいに、こうして能勢まで行くことで少しずつそれを突き崩そうとしとるんや」  この能勢行きがどうして小端自殺説の否定に繋《つな》がっていくのか、由佳には理解ができない。 「由佳ちゃん、今の暇を利用して、小端重夫の似顔絵をちょっと描いてほしいんや」  伸太はチラシを綴《と》じたメモ用紙を一枚取って手渡した。わけの分からぬままに、由佳は法務局出張所に着くまでの間に、自分ではまあまあのできと思える似顔絵を描き上げた。  法務局能勢出張所に足を踏み入れると、伸太は用意してきた閲覧申請書を出した。  それに応じて、受付の職員は機械的に、請求された書類|綴《つづ》りをカウンターに差し出した。 「どや、こいつを前にここで見たことがあるやろ」  そう言われても即座に記憶が蘇《よみがえ》ってこない。 「ほら、わいらが前にここまで来て、これを閲覧して二重登記に気がついたんやがな」  伸太はメモ用紙に、さっと次のように図を書いた。 [#挿絵(img/fig7.jpg、横108×縦309)] 「あ、思い出したわ。美紀さん、じゃなかったA子さんとは別に、酒間和史に二重に登記をしてしまっていたという申請書だわね」 「そういうこっちゃ」  伸太は、養豚所の豚のようにお好み焼きを貪《むさぼ》り食いながら、この申請書の存在に思い至っていたのだ。由佳には、まだこの義兄の脳の構造が理解できていない。 「この登記申請は、本人申請と言うて司法書士を通さずにやっているんや。わいはこの申請書を見たとき、てっきり小端自身が作ったものと思ていた。せやけど、そうとは言い切れんと思うんや。登記や法律に関する知識がそこそこある者やったら、これくらいは作れる。書店に行けば『自分でできる登記申請』というような、本も売られているんや」  本物の岡崎美紀の住民票を動かした謎《なぞ》のA子なら、それくらいの知識は持っていそうだ。 「死んだ小端重夫自身が作成した申請書かどうかは、この書面からでは分からないのね?」 「ワープロ書きやよって、筆跡からは判定でけへんしな」  伸太は太い指で、登記申請書をトントンと叩《たた》いた。「法務局に提出される登記申請書は司法書士を通すものも本人申請のものも、現在ではほとんどがワープロ書きや」 「それなら、こんな仮登記申請とか移転登記申請とかは、誰でも他人名義で全く好き勝手に出せちゃうの?」  由佳は危惧《きぐ》を覚えながら訊《き》いた。こんな形で容易に所有権の登記が動かされたのではたまったものではない。 「全く好き勝手に、というわけやない。法律がそれを防ぐための歯止めとして要求しとるんが、ここにある『印鑑証明書』というやつや」  伸太は、申請書に書かれてある〈印鑑証明書〉の上に太い指をシフトした。「所有権を売り渡す者は、その移転登記をするにあたって実印を押さんといかん。そしてその実印についての、市町村発行の印鑑証明書を添付書類として出さなあかんのや。法務局としては、実印の印影と印鑑証明書のそれとを照合して、完全に合致したときに初めて、その登記申請を肯認するんや」 「それじゃ、その歯止めがあるから、第三者が好き勝手な登記申請をすることはできないわけね」  由佳はホッとした。そんな安易に、所有権の登記が散歩したのでは困る。 「ところが、その歯止めを突破する方法があるんや」  伸太は猪首《いくび》を横に振った。 「どうして? 実印の押印が必要なんでしょ。それに印鑑証明書が要るのよ。印鑑証明書なんて、第三者が自由に取ることができないでしょ」  由佳自身、母が公団住宅に入居するときに印鑑証明書が要るからといって区役所へ手続きをしていたのを知っている。手彫りの印鑑を用意し、それを区役所に持って行く。それだけでは直ちに印鑑証明書は交付されない。本人であることを確認するために、区役所から照会書が送られて来て、それに実印を押印してもう一度区役所に足を運んで初めて、印鑑登録カードがもらえるというシステムだった。その登録カードがなければ、印鑑証明書は交付されないのだ。したがってこの場合で言えば、小端重夫の印鑑登録カードがなければ、彼の実印に対する印鑑証明書は揚げられないはずだ。 「確かに印鑑証明書は、本人の意思に基づかないと取れないように工夫とチェックがされている。けど、この印鑑証明書制度にも弱点があるんや。本人確認のための照会書は、その住所|宛《あ》てに役所から郵送されてくるわけやろ。ところが、その住所が例のソバカスの美紀はんのケースのように勝手に動かされとったとしたら、どないや。すなわち、Bという人物がさいぜんの手口で小端の住民票を動かす。住民票が動いたら、印鑑登録をしていてもそれは同時に消除扱いされるんや。なんでや言うたら、印鑑証明書にはその者の住所が記載されるさかいに、転出届を出したら印鑑証明書の住所と新しい住所が食い違《ちご》てしまいよる。それでは証明書としてはふさわしくないということで、転出届を出したら黙っていても登録した印鑑は消除されるんや」  伸太はまたメモに書きつけた。 [#挿絵(img/fig8.jpg、横59×縦348)] 「これで小端重夫は印鑑登録をしていない白紙状態となる。そこで、Bという人物が小端重夫の新しい住所地を管轄する役所の窓口で小端重夫になりすまして『新たに印鑑を登録したい』と言うたら、どないなる」 「役所は、新しい住所に照会書を郵送するわ」 「そういうことや。そこで、Bという人物がその照会書を持って行けば、小端重夫名義の印鑑登録カードが交付され、それによって新たな小端重夫の印鑑証明書が揚げられることになる」  伸太はメモに書き加えた。 [#挿絵(img/fig9.jpg、横99×縦418)] 「本物の岡崎美紀さんがA子さんになりすまされてしまったと同じように、小端重夫もこの人物Bに化けられてしまったという可能性があるということね」 「いや、単なる可能性やのうて、化けられたことは確実と思うてええ。ここにその証拠がある」  伸太は、閲覧している申請書の一行を指差した。小端重夫の横に書かれた住所は堺市今池西町三十七番地の六となっている。しかし、由佳たちが訪れて小端の死体を発見した彼の家の住所は堺市今池西町十六番地だった。住居表示板を頼りに、探し当てたのだから間違いはない。  小端重夫の本来の住所は十六番地であるのに、この申請書の小端重夫の住所は、三十七番地の六となっている。この食い違いは小端の住民票が動かされた結果だと考えれば辻褄《つじつま》が合う。 「つまり、あたしたちは、本物の小端重夫がこの仮登記をしたものだとばかり思っていたけれど、これはむしろ小端重夫の意思に基づかずに勝手に氏名を使われて作られたものなのね」  由佳は、この申請書のワープロ文字をしげしげと眺めた。 「わいは一度この申請書を閲覧していながら、そこまで気がつかなんだ」  伸太は自らの頭を軽くコツンと叩《たた》いた。「言いわけめくけど、あんときは酒間和史への仮登記がなされていたことで小端を詐欺師やと思い込んでしもた」  伸太は、法務局能勢出張所を出たところにある公衆電話を使って、堺市役所まで電話をかけ、小端の住民票が動いているかどうかを確認した。三月十七日、即ちこの仮登記申請がなされた二日前に、彼の住民票は動かされていた。そしてその三日後に、小端は死んだのだ。 「結局、あたしたちが加害者だとばかり思い込んでいた小端重夫は、Bという人物によって勝手に住所を移転させられ、印鑑証明書を揚げられ、知らないうちに仮登記までさせられていた被害者だったということなのね……」  由佳は、悪徳地上げ屋という小端のレッテルに引きずられていた自分に気づいた。 「そういうことやな。わいかて、騙《だま》されていたんや」 「岡崎美紀さんになりすましたA子と、小端に化けたBは別人かしら?」 「そら別人やろ。さいぜん説明したように、小端の住民票を動かし、印鑑証明書を揚げるには何度か役所に出頭せんならん。役所の窓口で本人に成りきるのに、女が男の振りをするのは大変なことやで」  伸太はいきなりスタスタと歩き出した。 「じゃあ、さっき話していた主犯格の人間が、小端重夫に化けたBという男ということね」  由佳はあわてて肩を並べた。春の日差しが、道路にズングリとノッポの対照的な人影を写し出している。 「そう即断するのは危険や。あるいは第三の人物がおるかもしれへんがな」  しばらく歩いて、伸太は見覚えのある家の前で足を止めた。白川郷《しらかわごう》を連想させる高い切り妻屋根に、一本松の家紋が入れられている。 「ここ、小端重夫に土地を売った服部さんの家ね。前に確かめに来たわ」 「さいな。小端の似顔絵を出してんか」  登記簿上、小端重夫という男に千九百七十万円で五十坪の土地を売ったことになっている服部安太郎が出てきた。  彼は由佳たちの顔を憶《おぼ》えていた。 「おや、また何かありますのかいのう?」 「ちょっとこの似顔絵を見てもろて、あんたが土地を売らはった相手の小端重夫はんかどうか確認していただきたいのですのや」  彼はしばらく似顔絵を手にしたあと、 「いや、こんな感じの男じゃなかったです」  と答えた。「もしかして、わしの売った土地がなんぞややこしいことになったんですかいのう」  人の良さそうな服部は心配げに、再度訪れた由佳たちを見た。 「いや、たいしたことやおません。あんたには、落度はあらしまへん」  伸太は、服部を安心させた。「今回の件で、あんたが得た売却代金を返せ云々というようなトラブルは起きひんと思います」 「そうですか」  服部はホッとした顔つきになった。「しかしまあ、土地を持っているというのも、なかなか難儀《なんぎ》なことですのう。相続しようとすれば税金がかかってくるし、その税金を払うためにやむなく遊休地を売ったら、その売却金にもまた税金がかかりよる。そのうえに売った土地が、けったいなことになったら、堪《たま》りませんですがな。不動産というのは、罪作りなもんですのう」 「いや、あんたが持ってはった土地には、何の罪もあらしまへんのや」  伸太は、グローブのような肉付きのいい手のひらを服部の方に向けた。「今回のことに限らず、不動産自体には何らの責められるべきことはあらしまへん。ただそれをめぐる人間たちがあまりにも浅ましくて、欲深くて、ドロドロしているために、さも不動産が罪作りなものと受け取られがちなだけですのや」 「さっきの服部さんから土地を買った人は、本物の小端重夫じゃなかったのね」  帰りのバスの中で由佳は、小端の似顔絵を畳んだ。  頭の中が、少し混乱している。由佳は、これまでのことを整理してみようと思った。  小端重夫の名前を初めて知ったのは、�岡崎美紀こと A子�が登記の依頼をしてきたときに彼女が持っていた権利証のコピーからだ。 「A子があたしたちに示した権利証のコピーには、小端重夫の住所はどう記されていたのかしら?」 「本物の、今池西町十六番地や」  伸太はジーンズのポケットから、皺くちゃになった権利証のコピーを取り出した。 [#挿絵(img/fig10.jpg、横112×縦364)] 「この場合、売主である服部安太郎の方は、※[#「○に印」、unicode329e]として実印を押して、印鑑証明書を付けなあかん。けど、買主である小端重夫の方は、認印でええし、印鑑証明書の添付も要求されへん。せやから、この段階では、本物の小端重夫の住所を移動させる必要はあらへんのや」  今年一月になされた、服部→小端への所有権移転登記に関しては、小端の実印も印鑑証明書も要らない。したがって、Bは本物の小端重夫の住所と氏名をかたって、土地購入の契約も、その登記もできるわけだ。 「つまり、A子があたしたちの前に現われた時点で既に、この権利証は真実を反映していなかったのね」  伸太は、それに気づかず、小端の〈仮登記を利用した不正〉を暴き、小端に迫った。 「義兄《にい》さんが、電話をかけて小端重夫を責めたときの、小端重夫も本物じゃなかったのね」  少しややこしい訊《き》き方になった。 「そういうことやな。わいは岡崎美紀ことA子に小端の電話番号を訊いて、そこへかけただけや。『小端ですが、ただいま外出してます』というような留守番電話のテープが流されたこともあって、わいは完全に騙《だま》されとった」  そのあと小端は二度ばかり伸太のところへ電話をかけてきて、「金を払うから見逃してほしい」とか「もう破滅だ」とか言ってきた。あの小端もニセ者の小端ということになる。それから、彼の家へ駆けつけると、BMWの中で小端が排ガス死していた。 「じゃあ、死んだ小端重夫もニセ者ということ?」 「それはないやろ。姉の酒間朋子もその夫の酒間和史も遺体を確認しとる。それに万藤刑事が免許証で顔写真と照合しとったやないか」  確かにBMWのダッシュボードには、小端の免許証があった。 「でも、免許証も偽造できるのじゃないかしら。免許証の交付には住民票が要るけど、その住民票自体がさっきのようなやり方で偽造できるのでしょう」  由佳は今や、住民票というものに対する信頼をすっかりなくしていた。 「住民票は動かせても、酒間夫婦の眼をごまかすことはでけへんやろ」 「死んだ小端重夫がニセ者なら酒間夫婦と血のつながりはないわ。それなのに、酒間夫婦はあえて弟だと確認した。酒間夫婦は、ニセ者の小端重夫を殺したかったのじゃないかしら。すなわち、酒間夫婦が犯人ということだわ。そしてA子は共犯者ということね」  これまでA子さんと呼んでいたのに、いつの間にかA子になっていた。 「そこまで手の込んだことをして、ニセ者の小端を殺そうとする動機は?」 「何かわけがあって、本物の小端重夫をこの世からいなくなったとする必要があったのよ。そして、同時にニセ者の小端重夫を殺したかったのよ」  由佳は自分の考えに自信を持った。もともと、こういう推理は好きである。  殺したい相手を別人にすり替えることにより、殺された人間を生きているふうに見せかけ、逆に逃げ回る必要がある者を死んだことにする。これぞ一石二鳥ではないか。 「由佳ちゃんの推理で行くと、酒間和史という男を叩《たた》けば、A子との繋《つな》がりが出てくるということになるな」 「そうなるわね。だから小端重夫に成り済ましたBが、酒間和史じゃないかしら」  バスは能勢電鉄山下駅に到着した。 「ほなら、これから由佳ちゃんの慧眼《けいがん》推理の検証と行きまっか」  伸太はそう言いながら乗車券を買った。その口ぶりは、自分はどうも賛成できないがという意味合いが含まれているように思えた。 「軽い眼の軽眼推理と言いたそうね」 「いやむしろ刑罰の刑眼と表記したいな。由佳ちゃんは、A子はんのことを良く思っておらへんやろ。引っ捕えてしかるべきペナルティを与えてやりたいと考えとるんとちゃうか」 「そりゃあそうでしょ。あたしたち、彼女のためにいろいろ苦心したのに、結局バカみたいに利用されていただけじゃない」 「いや、わいには必ずしもそうは思えんのや。彼女には何らかの事情があったという気がしてならないんや。死んだ小端重夫は、捜査二課的地上げをやる札つきの一匹狼《いつぴきおおかみ》やった、と万藤刑事が言うとったやないか」  伸太は買った乗車券の一枚を人指し指と中指の間に挟《はさ》んで差し出した。 「でもそれは、死んだ小端重夫が本物だという前提のもとでしょ。あたしの直感では、死んだのは本当の小端重夫ではなくて、別のCという人物なのよ」  由佳は、伸太の指の間から乗車券を抜き取った。「義兄さんは、A子が美人だから、甘過ぎるんじゃない」 「いやあ、わいは食欲は旺盛《おうせい》やけど、そっちの方はなあ……」  トボケたような口調で伸太は改札口に向かった。        3  大阪駅前から、二人は地下鉄に乗り換えた。夕刻が近づき、車内は結構混雑し始めていた。普通のヒップサイズの人間なら二人並んで腰掛けられそうなスペースのシートが空いていたが、それでは伸太一人だけでも座りきれるかどうか怪しい。由佳たちは仕方なく、吊革を持った。 「もしも死んだのが、本物の小端重夫やのうて、ニセ者の小端重夫すなわちCという男やったとしようや」  伸太は、まるで体操の吊り輪競技のように両手で吊革を持ち、体重を支えている。「それやったら、なんで本物の小端重夫の住所を移転させる必要があったんや?」  伸太はさっき法務局能勢出張所前の公衆電話から堺市役所に電話をして、小端の住民票が動かされているのを確認している。 「もしCを小端重夫に見せかけたいのなら、わざわざ住所を動かす必要はあらへんのとちゃうか」  そんな小細工をしない方が、Cイコール小端という図式がより受け入れられやすいというのが、伸太の言い分だ。 「それは、ニセの運転免許証を取るためじゃないかしら」  BMWのダッシュボードにあった免許証は、Cの顔写真の入った小端重夫名義の免許証だったのではないか、というのが由佳の推理だ。「住所を変更しましたと言って、Cが自分の写真と小端重夫の住民票を携えて新たな免許証の交付を求めたのよ」 「けど、そんときは、旧住所の免許証の方も一緒に持ってこいと言われるはずやで」 「旧住所の免許証の方はなくしてしまったと、弁解できないかしら?」 「住所変更と免許証の紛失を同時に申し出るというわけか。それやったら、免許証の紛失だけを言うた方が早いで。あえて住所を移転させる意味はないやろ?」 「でも……」  確かに住所を移転しても、ほとんど意味はない。いや、何の意味もないかもしれない。 「由佳ちゃんの考えやと、殺されたCすなわちニセ者の小端としては、本物の小端重夫の免許証に自分の写真を貼って再交付申請を受けろと命じられたことになるのやろ。そのうえで、Cは誰かに殺されたという由佳ちゃんの推測やけど、それではCはあまりにもお人好し過ぎひんか? 小端に扮《ふん》しろと言われた相手に、あっさりと殺されとることになるんやんか」 「だから、Cとしては何らかの目的のために小端重夫になりすます必要があると騙されて、承諾したところを殺されてしまったのよ」 「殺される理由は……」 「仲間割れじゃないかしら」  そう由佳は反論してみたが、旗色が悪いことは自分でも分かった。  二人は天満橋《てんまばし》駅で降りて、府警本部に向かった。 「ほんまは万藤刑事に事件のことをあれこれ訊《き》くことは本意やないんやけど、彼に会わんと分からへんこともあるよってな」  伸太は気が進まなそうに、猪首《いくび》をぐるりと回した。  その万藤刑事は、ちょうど出かけようとするところだった。 「京阪奈《けいはんな》丘陵の学研都市で、土地売買代金の詐取事件が起きたんだ。ほんまに地価高騰のお蔭《かげ》で、こちらは寧日なしの事件続きや」  万藤は鳥打ち帽をかぶり直した。土地をネタに泡銭《あぶくぜに》を得ようとたくらむ連中は、ボウフラのように次から次へと湧き上がってくる様子である。これだけ地価が値上がりし、宝石や美術品を上回る価値を土地が持つという社会状況がある以上、それも頷《うなず》ける。 「死んだ小端重夫のことについて、簡単に訊きたいんや」  伸太は、太い腕を出すようにして万藤を引き止めた。 「どういうことを訊きたいのだ?」  万藤の小さな眼が一瞬、鋭くキラリと光った。 「あんたは、小端には暴行の前科があると言うとったけど、それはどこでのことや?」 「三年ほど前に、泉佐野の方で地上げのトラブルをめぐって、暴行容疑で現行犯逮捕されている。二、三発殴っただけで傷を負わせなかったんで、起訴までには至らんかったが」 「現行犯逮捕したということは、そのとき小端の指紋を採ったのやな」 「もちろんだ」  万藤は、訝しげに伸太を見た。 「その指紋とBMWの中の死体のそれとは、照合したのですか?」  由佳が、割り込むように尋ねた。 「あたりまえや。死者の身元確認は、警察の仕事のイロハだ」  そっけないほどの万藤の返答に、由佳は愕然とした。暴行の前科があることは確かに聞いていた。前科があれば、指紋も採られ、顔写真も写されている。それと死体が照合されていたということは、暴行で逮捕された三年前からCが小端重夫の名前をかたっていたという前提を取らないかぎり、由佳の〈死んだ小端重夫は別人のC〉という推論は成り立たなくなるのだ。  由佳には、曲がりなりにも積み上げた推理の煉瓦がバラバラと崩れる思いがした。 「BMWの中から検出した小端の指紋は、どこらへんに付いとったんや」  落ち込みそうな由佳の気持ちにお構いなしに、伸太は問いを続けた。 「ハンドルとか、サイドブレーキとか、窓の目張りに使ったガムテープの繋ぎ目や。ガムテープを素手で千切ったら、当然その繋ぎ目に指紋が付くやないか」  万藤は前に説明したはずじゃないか、と言いたげな表情でぶっきらぼうに答えた。「君ら、いったい何のつもりや。素人探偵でも始める気か」  万藤の口調は、次第に厳しいものになっていた。 「素人探偵なんて、めっそうもあらへん。わいがちょっと記録を残しておきたいよってや。将来、自分史とかいうのを、わいも書こと思てるんでな」  伸太が無理して嘘をついていることが、由佳には分かった。 「民間人はヒマでええのう」  万藤は揶揄するように言った。 「もう一つだけ、教えとくなはれ。小端の姉の夫である酒間和史の連絡先を知りたいんや」 「今頃になって何や。あの事件に新しい進展でもあったんか?」  万藤は足を前に踏み出した。「それなら、こちらに情報を提供してもらわないと困るな」 「せやない。手付金のことでもういっぺん、酒間はんと連絡を取っておきたいんや」 「酒間の住所は刑事部屋へ行かんと分からん。しかし彼がバーテンとして勤めとるところは、キタの梅田新道《うめだしんみち》のメヌエット・ラブというパブだということは憶えてるがな」 「おおきに、えらい出がけにすまなんだ」  伸太は額の汗を拭いながら、真ん丸い身体を折るようにして、丁寧に礼を述べた。        4  二人はその足で、梅田新道のメヌエット・ラブへ向かった。  メヌエット・ラブは、お初・徳兵衛の悲恋物語「曾根崎心中《そねざきしんじゆう》」で知られるお初天神に近い雑居ビルの六階にあった。  ここから少し北東のところに、キタ新地と呼ばれる大阪一の高級バー街がある。東京で言えば銀座に相当するとされている。しかしキタ新地を通り抜けてきた由佳には、銀座と比肩させるのはおかしいような気がした。銀座にはしっとりと落ち着いた大人の雰囲気があり、全体がモノトーンの色で描けるように思える。けれども、キタ新地は、ちょっと路地を曲がれば、昔ながらの屋台が出ていたり、大衆ラーメン屋が構えていたりする。さらにはテレホンクラブがビルの一角に陣取っていたり、同伴喫茶の看板が掲げられていたりする。由佳の感覚からすると、銀座だけでなく、新宿や浅草の要素も入っている。  そういった混じり合いを受け入れる大阪の土地柄は、食べ物にも反映しているように由佳には思える。同じ「寿司」でも東京では単品の江戸前にぎりが伝統なのに対して、大阪では散らしずしが古くから好まれている。散らしずしは卵、魚肉、野菜、といろんなものを混ぜる。伸太が商売にしているお好み焼きだって、大阪名物のタコ焼きだって、やはり混合の食べ物だ。  どうやら大阪人は、きれいに整えられた外観よりも、実質的な中身の豊かさの方に重きを置いてきたようだ。 「このメヌエット・ラブのあるビルだけで、ざっと二十ほどのテナントが入ってるんやないか」  暮れなずみ始めた空を背景に、色とりどりの明かりが点《とも》ったビルの袖看板を伸太は見上げた。「一軒のテナントの賃貸料が仮りに月に十万円としても、このビルのオーナーは月収で二百万、年収で二千四百万円となるわけや。額に汗して働くのがアホらしなる気持ちも、分からんでもないな」  そう呟《つぶや》きながら、伸太はエレベーターの昇りボタンを押した。  開店時刻になったばかりだというのに、既にカウンター席には二人の男性客が陣取り、酒間と相対していた。 「どないしょ、あとで出直そか……」  伸太はとまどった。酒を飲みに来たのが目的ではない。酒間に話を聞くためだ。その酒間が先客の相手をしていたのでは、仕方がない。  酒間はカウンター越しに伸太の姿に気づいて、色黒の頬《ほお》をかすかに弛《ゆる》め、ギョロリとした眼に会釈《えしやく》を込めた。伸太もそれに応じて黙礼した。  そのやりとりにカウンター席の、中年男と初老男が振り返った。そしてその先客は二言三言、酒間と話をしたかとおもうと、やおら立ち上がった。 「本当に、いろいろとすみません。よろしくお願いします」  酒間は二人の客の背中に丁寧に礼を述べている。  伝票も持たず、料金も支払わないまま、席を立ち、店の出口に向かう二人の客を伸太は見つめた。 「席を譲ってもろたみたいで、えらいすんまへんな」  すれ違ったとき、伸太は声をかけた。 「いや」  がっちりとした体格の中年男の方が、野太い声で短く答えた。白髪の初老男の方は黙ったままだ。  由佳は、カウンターに水割りのグラスやツマミの品が並んでいるのを認めた。それなのに、料金を支払わないというのは、ツケの効く客なのだろうか?  二人の男は、手荒くドアを開けて出て行った。 「どうぞ、こちらへ」  グラス類を手早く片付けながら、酒間は頭を少し下げた。伸太と由佳は、カウンター席に進んだ。 「手付金を返しに、うちのボロ事務所まで足を運んでいただいて以来でんな」  伸太は、スツールからはみ出しそうな尻をゆっくりと降ろした。 「もしかして、手付金のことで、まだ何かあるのですか?」  酒間は、大きな眼に愛想笑いを浮かべた。 「いえいえ、そやないですのや。お初天神まで来たものでちょっと知らないパブを開拓しよとして寄ってみたら、偶然あんたがここにいはったのですワ」  伸太はここでも下手な嘘《うそ》をついた。 「そりゃあ奇遇ですね。どうぞこれを縁にご贔屓《ひいき》に」  酒間は再度頭を下げた。「で、ご注文は?」 「せやな。サラミベーコン、チーズクラッカー、それと板わさをもらいまひょか」  メニューを見ながら、伸太は答えた。 「あのう、お飲物は?」 「わいは要らんワ。あんましアルコールは好きやおへんのや」  酒間は少し面食らった顔を見せた。「知らないパブを開拓したい」と言った途端に「アルコールは好きやおへんのや」と申し開きをするのは小さな矛盾である。由佳はあわててメロンフィズを注文した。 「もう小端はんの忌明けは、すみましたんかいな」  伸太はおしぼりで、広い顔をゴシゴシと拭《ふ》いた。 「いえ、まだです」  酒間は、慣れた手つきでメロンフィズを用意する。落ち着かない素振りや困惑した様子は窺《うかが》えない。 「義弟《おとうと》さんが亡くなってどないでっか?」 「と申されますと?」 「義弟さんのことで迷惑したこと、あるんとちゃいますか。わいが登記申請で関わっとった能勢《のせ》の件でも、あんた、名前を使われとりましたやないか」  伸太は、かなり突っ込んだ訊《き》き方をした。 「ええ、まあ、迷惑と言えば迷惑でした」  酒間はメロンフィズをカウンターの上に差し出した。「だいぶん前のことになりますが、義弟は『義兄《にい》さんの印鑑登録カードを貸してほしい、決して金銭的な迷惑はかけないから』と頼み込んできました。私は沖縄の中学を出て大阪へ集団就職した人間で、法律のことは何も知りません。恥ずかしながら、印鑑登録カードも持っていませんでした。だって、公団住宅を申し込んだり、住宅金融公庫を借りるときぐらいしか要りませんでしょう。義弟は、それじゃあ自分が作って預かっておきましょうと言いました。私は、義弟を信じて、任せることにしました」  由佳は、メロンフィズを飲もうとして伸ばした手を止めた。由佳が推論したようにもしも酒間がBで、犯罪に関わっていたとしたら、このフィズの中に毒が盛られていることだってありえないことではない。そう懸念し始めると、飲む気にはならないのだ。  酒間は色黒の顔を俯《うつむ》かせた。 「しかし結果的にはそのことで私の名義が使われたりして、他人様《ひとさま》にいろいろと負担をかけてしまったようですね。申し訳ないと思っています」  伸太の方は、出されたチーズクラッカーやサラミベーコンをムシャムシャと食べている。 「たった今も、義弟がお世話になっていた阪南開発の社長さんと会長さんがおいでになっていたのです。鶴見の方でやりかけの仕事があったまま、中断して死を選んだために、あの方たちにもずいぶん負担をかけたようです」  由佳は思わず、店の出入り口扉の方を振り向いた。さっき出て行った二人の男が、阪南開発の社長と会長だったのだ。万藤刑事の話によると、小端はその阪南開発の下請けとして詐欺的手段を弄して地上げにあたり、成功すれば大きな報酬を得るが、失敗すれば地上げや土地の買い占めに要した費用の回収すら覚束《おぼつか》ない一《いち》か八《ばち》か的な仕事をしていた。 「そのやりかけの仕事について、義弟さんから、何か話を聞いてはらしまへんか?」 「いいえ」  酒間は色黒の顔を力なく横に振った。「私も妻も、義弟のやっていたことはよく知らなかったのです。まともな不動産販売を営んでいると思い込んでいたのです。私の妻と彼とは、姉弟とはいえ腹違いなのです。家庭も別々に育っただけに、それほど親密に行き来するという仲ではなかったのですよ」  酒間の言葉を聞きながら、由佳はストローでメロンフィズをぐるぐると掻《か》き回した。由佳自身、この血の繋《つな》がらない伸太と十三年間も会っていなかった。周平の死がなければ、依然として何の交渉もなく別々に暮らしていただろう。  メヌエット・ラブを出た二人は、JRを使って堺に向かった。 「もし由佳ちゃんが言うように、あの酒間和史が何らかの形でBMWの中の男の死に関わっていたとしたら、奴は恐ろしく大胆やで。堂々と仕事を続け、わいらに会《お》うても妙な素振りはまるで見せとらん。一方のA子が、完全に雲隠れしたのと対照的や」  伸太に指摘されるまでもなく、由佳の自信は完全にぐらついていた。  万藤刑事の「前科者リストの指紋と死体のそれとを照合した」との言葉から、BMWの中で死んだのはCなどという男ではなくてやはり本物の小端重夫であることをほぼ認めざるを得なくなった。そして酒間和史に会って、酒間は知らないままに小端に利用されていただけで、犯罪には無関係ではないか、という感触を持った。  A子、B、と来たが、Cというのはどうやら不要の人物のようであった。  堺に着いた由佳は、さらに駄目を押されることになった。  能勢の法務局出張所で閲覧した仮登記申請書に書かれていた小端重夫名義の「堺市今池西町三十七番地の六」の住所を、二人は訪ねたのだ。あの申請書は、もともと、堺市今池西町十六番地であった本物の小端の住民票をBが移転して、印鑑証明書を作り上げて実印を押したものだった。  今池西町三十七番地の六には、賃貸の二階建マンションが建っていた。一番端の部屋に管理人の中年女が住んでいた。 「小端重夫さんなら、たった一週間ほどで出ていったよ。けったいな人だったね。権利金が丸損じゃないのよ」  この管理人が言う「小端重夫」は、本物ではなくて、印鑑証明書を得るために一週間の転居を試みたBに違いない。  由佳は、折り畳んでバッグの中に入れていた本物の小端重夫の似顔絵を彼女に見せた。 「いえいえ、こんな男じゃないよ」  彼女はとんでもないと言わんばかりに、かぶりを振った。  そのあと、由佳は、伸太に言われて酒間和史の似顔絵を描いて見せた。ポリネシアン系のような黒い肌とギョロリとした眼が特徴の酒間の顔は、ほとんど完璧《かんぺき》に書けた。もし酒間イコールBという由佳説が正しいなら、この中年女は頷《うなず》いてくれるはずだ。 「これじゃ、もっと違うわね。あたしの知っている小端さんは、こんな相撲取《すもうと》りの小錦みたいな顔じゃないよ。力士で言えば、寺尾タイプのもっとカッコいい若者よ」  彼女は即座に否定した。 (そう言えば、今月十一日から、ナンバの府立体育会館で大阪場所が開かれていたわ)  自説をすっかり放棄した由佳の脳細胞は、事件とはまるで無関係の、大阪場所七日目に千代の富士が前人未到の通算千勝を達成したことに思い至っていた。 [#改ページ]  第三章 砂上の登記        1 「どや、ブーやんの特製お好み焼き、イケるやろ」  エビのたっぷり入ったホットケーキ並みのぶ厚さのお好み焼きを、伸太は朝っぱらからほおばっていた。「下手な考え休むににたり、と昔から言うやろ。腹が減っては戦《いくさ》がでけへんちゅう諺《ことわざ》もあるがな。まずは、たっぷりと休養と栄養を取るこっちゃ」  休養は充分だった。昨夜、家に帰ってきた由佳は、敗北感に打ちのめされながら、ブーやんの営業用ビールを一本空けてから、ぐいと寝てしまった。  そのまま朝まで寝ていたのだから、睡眠は十二分だ。そしてこの特製お好み焼きで、栄養分の補給に努める。 (このまま引き下がるのは口惜しいわ)  バレーボールに必死で打ち込んでいたころの負けん気が、ムラムラと起こっていた。〈BMWの中で死んでいたのは小端重夫ではなくて、別人の Cだった〉という自説の誤りは認めよう。しかしそれだからといって、真相へのアプローチを諦《あきら》める気にはならない。乗りかかった船だ。一度や二度の航路変更で、下船する気にはならない。  口の中に広がる焼きソース独特のとろけるような甘味と粉海苔《こなのり》の持つ馨《かぐわ》しさのブレンドを味わいながら、由佳は事件をもう一度最初から整理してみることにした。  そもそも岡崎美紀を名乗るA子が、依頼に訪れたことが第一幕の始まりだった。電柱の張り紙という広告に危惧《きぐ》を抱いた伸太が、能勢の法務局出張所で登記簿を閲覧し、「小端」の登記詐欺を見抜いた。しかしその「小端」は実は、本物の小端重夫ではなくBという別人が氏名を勝手に借用していたのだった。  伸太はそうとは知らずに、「小端」を問い詰める。A子から教えられた電話番号にかけた結果、受話器の向こうに出た留守番テープの「小端」も、そのあと伸太のところへ電話をしてきた「小端」も、Bであったと考えるべきだろう。そのBは、「破滅だ」と呻《うめ》いたあと、電話を一方的に切る。逃亡を懸念した伸太が、万藤刑事のスバルで小端の家へ向かう。そしてガレージに停《と》めたBMWの中で、若い男が排ガス死しているのを発見する。このBMWの中で死んでいたのが、本物の小端重夫である。  これで第一幕は終わる。本物の小端重夫は自殺したと誰もが受け止めたなら、行方《ゆくえ》をくらましたA子の目的は完全に達せられたはずであった。  ところが、伸太が不審を抱き、事件を洗い出す。これが第二幕の始まりである。本物の岡崎美紀がA子とは全然別人のソバカス女子大生であることを知り、千九百七十万円で能勢の服部から土地を買ってA子に転売した「小端」が、実はBであったことを突き止める。  もしも小端重夫が殺されたのだとすると、A子やBが絡んでいる可能性はかなり高いと言える。けれども本物の小端重夫のBMWの中での死は、他殺だと断定できるにはまだとても至っていない。ここまでが第二幕である。  第二幕の最後で、由佳はBMWの中で死んでいた男は別人のCではないかと考えた。そして小端の姉の夫・酒間和史がBではないかと踏んだ。けれどもそれは由佳の勇み足で、BMWの中で排ガス死したのは本物の小端重夫であり、酒間は直接事件には関係ないらしいことが分かる。  以上がここまでの概略である。 (さあ、これから第三幕の幕開けだわ)  コップ一杯の水を一気に飲み干して、由佳はソースの染み込んだ口の中をきれいにした。 (でも、第三幕のファーストシーンをどうしたらいいのかなあ?)  力んでみたものの、由佳には取っ掛かりが掴《つか》めない。行方が分からなくなったA子やBの行方を捜し出せればいいのだが、この広い大阪でそう簡単に見つかるとは思えない。いや、もう大阪にはいないかもしれない。  せめて由佳が描くA子とBの似顔絵を警察に持って行き、事情を説明して公開捜査にでもしてもらえれば、何とかなるかもしれない。ところが、伸太はなぜか、警察を絡ませることにひどく反対なのだ。 「由佳ちゃん、何やえらい思案したはりますな」  コテでお好み焼き台を掃除しながら、伸太が由佳の顔を覗《のぞ》き込む。 「だって、次の取っ掛かりが掴めないのよ」  由佳は水を飲もうとしてコップが空であることに気づき、軽く息をついた。 「確かに難事件でんな」  伸太は巨体を軽やかに動かし、コップに水を充たして由佳の前に置いた。 「義兄《にい》さん、何かヒントを掴んでいるの?」  由佳は両手で頬杖《ほおづえ》をついた。 「わいかて、新しいヒントや取っ掛かりはあらへんわいな。映画の名探偵とは違うんやさかいに」  伸太はコテの端にくっついたソースの残り滓《かす》を長い舌でペロリと嘗《な》めた。「そやけど、次の行動はもう決めとるんや」 「何をするの?」 「わいは登記を扱う代書屋や。あくまで登記という土俵で勝負するしかあらへん。そやさかい、これから法務局へ行くんや」 「エー、また一時間に一本のバスに乗って、能勢まで行くのぉ」  由佳は軽い悲鳴を上げた。これでもう三度目になる。 「いや、今度は谷町《たにまち》にある大阪法務局の本局や」 「本局?」 「本局と言うても、管理統括部門へ行くのと違《ちご》て、こないだの能勢みたいな不動産登記を扱こうとる課へ行くんや。そこで鶴見区の不動産登記簿を閲覧するんや。鶴見区にある土地や建物は本局の管轄やよってな」 「鶴見区?」  前にどこかで聞いた地名だ。横浜にある鶴見区と同じ名前だ。そしてあと二日後に、オープンが迫った花の万博の開催地でもある……。「あ、もしかしてあの小端重夫が開発を手がけていたというのは、鶴見だったかしら」 「さいな」  万藤刑事が、小端重夫は鶴見で阪南開発からの依託を受けて、用地買収のプロジェクトを進めていたと話していた。そのプロジェクトは思うように進んでおらず、それが小端の自殺の動機の一因かもしれない、ということだった。ところが伸太は逆に、鶴見の方で地上げの仕事に腐心しているときに、わざわざ能勢くんだりまで行って土地を服部から買いつけているのは不自然ではないか? と小端自殺説に疑問を挟んだのだった。 「小端が地上げを進めていた鶴見のことを調べておきたいんや」  伸太は、その理由を説明した。  伸太が、小端重夫の名をかたったBから「もう破滅だ」という電話を受けたとき、Bは「鶴見でのプロジェクトが巧く進んでいない」という趣旨のことを口走っていた。その内容は、あとで万藤刑事から聞いた話と合致していた。それだけに伸太は、その電話の声の主が、小端本人だと思い込むことになってしまった。しかしこうして考えてみると、小端に扮《ふん》したは何らかの事情で、小端が鶴見で地上げを進めていたことを知っていたことになる。 「それと、能勢の法務局出張所に出されていた、小端重夫名義から酒間和史名義への仮登記の申請を思い出してほしいんや」 「A子さんから依頼を受けた義兄さんが最初に能勢の法務局出張所を訪れたときに、小端が登記詐欺をしていると思ったきっかけになったものね」 「そうや。実はあれはまったく小端本人が与《あずか》り知らないところで作られた偽造の申請やったんやけど、わいはてっきり小端が登記詐欺を働いとるものやと思い込まされたで。あの申請書はA子やBたちの手によって、ワープロで打たれ、住所移転によって得た小端の印鑑証明書を付けて出されたものやと推測でけるけど、そのことからA子やBの像がある程度、浮かんできよる。一つは登記制度についての知識を持っとるということや。登記申請は意外と簡単なもんなんやけど、法律にまったく無知ではやりにくいもんや。二つめに注目すべきは、この申請書に酒間和史の名前が使われとることや」  そうだった。申請書の仮登記権利者として酒間和史の名があった。由佳が、酒間和史が怪しいのではないかと睨《にら》んだのは、あるいはあの申請書を見たことに引きずられたからかもしれなかった。 「梅田新道《うめだしんみち》のメヌエット・ラブという店で酒間和史が話していたことを覚えとるやろ。彼は義弟に乞《こ》われるままに印鑑カードなどを貸してしまい、悪用されて他人様《ひとさま》に迷惑をかけてしまっていたようだ、と言うとったやないか。万藤刑事の、小端重夫は捜査二課的な地上げ屋やという言葉と合わせて、本物の小端重夫が登記詐欺をするときに、その小道具として酒間和史の名前を使っていた可能性は高いと言えるんやないか」 「その手口が、本物の小端重夫が捜査二課的地上げとして開発に取り組んでいた鶴見で使われていたということもあり得るわけね」  いつの間にか由佳は頬杖を完全に外していた。 「そう単純に行くかどうかは分からへんけど、鶴見のことを調べる値打ちはあるということや」  由佳の気負いをかわすように、伸太はのんびりとした口調で言った。  二人は法務局に先立って、鶴見の方に足を伸ばすことにした。 「だいたいの見当をつけとかんと、漫然と鶴見の登記簿を閲覧しとったら、日が暮れるワ。一筆につき二百円の閲覧料も要ることやしな」  と伸太が意見を出したからだ。  十日前の、三月二十日には大阪市内で第七番目の地下鉄路線である鶴見緑地線が開通していた。鶴見緑地線はあと二日後のオープンに迫った花の万博に合わせて敷設されたものだ。これまで市バスでは京橋・鶴見緑地間は三十分以上かかっていたものが、この地下鉄の開通でわずか九分の所要時間で済むことになる。  二人は京橋駅から、真新しい清潔感の漂う車両に乗り込んだ。鮮やかなオレンジ色のシートが、花の万博開催地に向かうのだという気分を盛り上げる。ホームにはアマチュアカメラマンたちが三脚を立てながら、開通したばかりの車両が発進するシーンを捉《とら》えようとしている。 「賑《にぎ》やかなもんやな」  伸太は猪首《いくび》を回してホームを見つめている。「花の万博のような新しいプロジェクトができるときはそれに付随してこうした交通網の整備がなされる。交通手段が便利で快適になること自体はええこっちゃ。せやけど、そうなると決まって土地の値段がつり上がり、その利益を狙《ねら》っての黒い魔手が伸びてきよる。それは社会的害悪と言うてもええかもしれへん。それまで平凡で慎ましやかに暮らしていた庶民が、突如暴力的手段で追い立てられたり、法律知識のなさと善良さにつけ込まれて騙《だま》されてしまう。あってはいかんことが、現実には横行しとる。日本はほんまに法治国家かいなと疑いとうなるワな」  ホームにベルが鳴り渡り、真新しい地下鉄車両がゆっくりと発車する。車体のスムーズな動きが、普段なら痛めた腰のために振動を気にする由佳にも心地良く感じられる。滑らかに車輪は回転し、騒音はほとんどない。 「一方では科学の力でこんなにええもんを作り上げるのに、他方では守銭奴《しゆせんど》のような本能むき出しの欲望を顕《あらわ》にして、他人を食い物にする。人間て、ほんまに二重人格の複雑な動物やで」        2  鶴見緑地線は、花の万博のために作られた路線だけに、総路線距離は五・二キロと比較的短い。その間に設けられた駅は、京橋、蒲生《がもう》四丁目、今福鶴見《いまふくつるみ》、横堤《よこづつみ》、鶴見緑地の五つだけである。今福鶴見駅までは、府道大阪|生駒《いこま》線(阪奈《はんな》道路)の地下を東へと進み、そのあと鶴見区役所の前を北進して鶴見緑地駅に達する。 「横堤駅で降りて鶴見区役所から北へ行く道を歩いてみよか。阪奈道路はもともと相当の道路交通量があり、開発のでける余地は少ないように思えるんや。わいがもしもディベロッパーやったら、鶴見区役所から北へ進む道の沿道やその周辺を狙うで」  二人は横堤駅で降りて、昇降口を上がった。  開幕まであと二日に迫った花の万博会場には、まだ未完成の部分があるようだ。資材や植木を積んだトラックがひっきりなしに道路を往復している。 「こんなトタン塀で囲んである土地はたいてい、追い立てや地上げにあって更地《さらち》になったもんや。周辺部とはいえ大阪市内で、こんな広い空き地が元から残っていたとは思えへん」  伸太は歩きながら、トタン塀を軽く叩《たた》いた。五百坪くらいの広さの土地が、三メートルほどの高さのトタン塀で厳重に囲まれている。トタン塀の外面には、花の万博に合わせたつもりなのか、バラやタンポポの花が描かれている。一見、幼稚園の園舎の壁画を想起させるたわいのない絵の下地には、これだけの更地が造り上げられるまでの、ここに住んでいた人たちの涙と哀切と、他人の生活を奪ってでも濡れ手に粟《あわ》の利益を上げようとする者たちの汗と欲望が幾重《いくえ》にも擦り込まれているのかもしれないのだ。 「ほら、あっちにもフェンスに囲まれた空き地があるで」  伸太は、道路の向こう側を指差した。その金網フェンスには〈この土地は売り物件ではありません——鶴見ニューハウジング所有地〉という看板が立てられている。 「ああやって売りませんと書いているけど、不動産屋さんが持っている以上は、結局はどこかに売るんでしょう?」 「あたりまえや。しばらく持っていて値上がりを待つつもりか、あるいは『売りません』と言った方が逆に価格がつり上がることもあるんや。ほんまにけったいなこっちゃで」 「どうして、不動産屋さんの所有地ということがわざわざ書いてあるの?」 「それだけ地上げ開発の激戦地やということやろな。素人《しろうと》が持っている土地やったら、たちまち狙《ねら》われてしまうんや。せやから、獲物をあさる猛者《もさ》たちに対して、『ここはもうウチの手が付いた敷地でっせ』とアピールしとるんやろ」 「なんか、戦国時代の領土の奪い合いみたい」  由佳は肩をすくめた。 「あそこもおそらく、ちょっと前まではトタンで囲まれていたんやろ」  伸太は歩きながら、斜め前方を顎《あご》でしゃくった。  角地の更地《さらち》の四隅に笹が立てられ、地鎮祭がごく最近行われたことを教えている。イラストの入った看板が、笹の横に杭打ちされている。〈東洋銀行鶴見支店八月オープン、オリエントマンション好評賃貸受付中——お問い合わせはオリエント興産大阪事業部へ〉と書かれた下に、五階建ての瀟洒《しようしや》なマンションのイラストが描かれている。一階が東洋銀行になっており、二階以上が赤レンガ造りのマンションだ。イラストでは、前の歩道を行き交う人はみんな八頭身のおしゃれな紳士淑女になっている。街路樹もまるでウィーンの森のように青々しい。 「地上げの行き着くところは、だいたいこんなもんや」  伸太は少し足を停《と》めてそのイラストに見入った。 「行き着くところって?」 「ダンプカーを突っ込ませたり、火をつけたりする、壊し屋とか火つけ屋とか言われる連中は、たいがいは小さな不動産業者の手先や。社員というよりは、依託を受けて請け負うといった形が多いと聞いとる」 「例の小端重夫が阪南開発というディベロッパーから、開発の依託を受けていたというようなパターンね」 「そういうことや。その不動産屋は、壊し屋や火つけ屋を使って手に入れた更地を自分のところより大きい不動産会社に転売するんや。そこからさらに利益を上乗せして、よその不動産会社へ売られる。いわゆる土地転がしというやっちゃ。そして行き着くところは、この東洋銀行といった銀行やオリエント興産などの最大手の不動産会社となる。俗に『一に銀行、二に大手不動産会社、三、四がなくて、五が壊し屋と火つけ屋』という言葉があるんや。土地の乱開発と地上げの本当の仕掛け人は、銀行と大手不動産会社という意味や」  由佳はこの夏にオープンするという銀行の姿を想像した。開店の当日は、クス玉が割られテープカットがされて、来客には記念品が配られ、子供たちにはゴム風船が手渡されるだろう。女子行員がにこやかな笑顔でこの道路に立ち、ティッシュペーパーやタオルを通行人に配ることだろう。華やかでなごやかな開店の風景である。けれどもその蔭《かげ》に、生活の場を追われて毎日泣き暮らしている弱者が何十人もいるかもしれないのだ。  もっとひどいのは銀行の上に作られるマンションかもしれない。このイラストに描かれた瀟洒な高級マンションの賃料が、月額二万円とか三万円とかであるわけがない。今までもし長屋がここに建っていたとして、古くてさして交通の便が良くないということで安い家賃が保たれそこに貧しい人々が住居を持てていたのに、急激な地価高騰にともない追い出されてしまったとしたら、どうだろう? 金を持った強い者が快適な暮らしを独占し、金のない弱い者が生活の場から放擲《ほうてき》される。その弱肉強食に、不動産会社や火つけ屋・壊し屋が手を貸す——。 (そんな弱い者いじめ、許したくないわ)  由佳は、伸太がお好み焼き屋を兼業しながらくすんだような代書屋を開き、そんな不正と自分なりに戦おうとしている姿勢に共感を覚え始めていた。由佳の父・周平もきっと同じことをやっていたのだ。そうでなければ、あれだけ多くの人が通夜や葬儀に来てくれるわけがない。出棺の際に、泣き崩れて動かなかった老婆の姿は、いまだに由佳の瞼《まぶた》に焼きついている。 (あたし、大阪へ来て、少し物の見方が変わってしまった)  これまでの由佳は、こんな瀟洒なマンションのイラストを見たら、ハイセンスでリリカルな日々が送れるかもしれないわ、と羨《うらや》ましがりそしてそれを目指そうと考えたものだ。爺《じじ》むさくて埃《ほこり》にまみれた生活は嫌だった。とにかくトレンディな都会的生活に憧《あこが》れていた。そのトレンディさの蔭に、犠牲になり虐《しいた》げられた人たちがいるかもしれないということなど、ひとかけらも思いやらずに……。  東京にいた頃の由佳は、生まれ育った通天閣界隈《つうてんかくかいわい》の汚さが嫌だった。あちこちにゴミが散乱し、残飯が捨てられ、しかもその残飯を漁っている浮浪者がいたりする。狭い道路の両側に終戦直後に建てられた古びた木造家屋が立ち並び、夕方近くになると、あちこちからサンマを焼く匂《にお》いがしたり、ニラレバを炒《いた》める臭さが漂ってくる。けれども、その汚さは表面的なものでしかないことに、由佳は気づき出していた。  いくら塵《ちり》一つ落ちていない広い道路に、華やかなブティックや真新しい宝飾店や最高級のレストランがつんと澄まして立ち並んでいても、その麗々たる街角が造られるまでに、暴力的な追い立てや詐欺的な地上げが横行していたとしたなら、それは�本質の汚い�街角と言えるのではなかろうか。どれだけ外見が美しくても、心や性格の荒《すさ》んだ人間には、結局魅力を感じないのに、それは似ている。 (ごちゃ混ぜの散らしずしでもいいわ。大阪の街は、大阪らしさを失わないでほしい)  由佳は、瀟洒《しようしや》なマンションのイラストから眼をそらした。 「由佳ちゃん、次行くで。あそこにもフェンスがあるがな」  東洋銀行鶴見支店用地の角を曲がった道路の先にも、金網フェンスが見える。よくもまあこれだけ、更地《さらち》を作るものだ。もともと土地というのは埋め立てでもしない限り増産はできない。それだけに、都会地には纏《まと》まった更地などあろうはずもない。しかし更地を求める需要があれば、古いアパートや借家をぶっ壊してでも無理やり更地を生産する。地上げは、欧米からは貿易不均衡を批判され、東南アジアからは出稼ぎ労働者への搾取《さくしゆ》を指摘される現代日本経済が作り出した鬼っ子だと表現するのは、言い過ぎだろうか。 「義兄《にい》さん、こんなに新しい更地があったのでは、どれが小端重夫が手がけたものか分かりようがないわ」 「由佳ちゃんの書いた似顔絵を使うんや。小端は何度か地上げの対象の土地に足を運んどったはずや。必ず顔を見た近所の人がいるはずや。招かれざる客として、非難の視線を浴びとったはずやからな」 「そうね」  由佳はハンドバッグから小端の似顔絵を取り出した。自分の絵の才能がこんなことで役立つとは、大阪に来るときは想像だにしなかった。才能を使っても一円の報酬を得られることではなかったが、今の由佳はそれでも抵抗は感じなかった。バレーボールで名前を売ったうえで、スポーツ番組のレポーターへの転身をしたいと設計図を思い描いていた頃の打算的な考えは、もはやどこかに消えていた。 「ついでにA子はんの似顔絵も出しといてんか。あるいはA子はんはこの近くに住んでいたということも考えられるさかいにな」 「つまり、彼女は小端重夫から追い立てを食らった人間ということ?」  さっき銀行建設用地の前で、地上げの被害にあった人たちの苦しみを想像していた由佳はそう直感した。 「かもしれへんのや。小端に成り済ましたBが、『鶴見での開発がなかなか巧く行かない』とえらい鶴見のことをよう知っとったやないか」  確かにこの鶴見の街には、A子やBと小端重夫の何らかの接点があるような気がする。  それから三十分ばかり、二人は小端の似顔絵を片手に歩き回り、情報を一つ得た。  小端を見たことがあるという中年男に出会ったのだ。  玄関口に×形の木が打ち付けられ、表札が剥《は》ぎ取られた古びた家が三軒立ち並ぶ路地の前で聞き込んだときのことである。 「お向かいさんが、三軒続いてやられましてね。こっちへ飛び火してきたらどないひょかと、夜もおちおち寝られまへんのや。ほんまにせっしょなことどすワ」  中年男は口髭《くちひげ》を擦《さす》った。 「ここら一帯は借家建ちでっか?」 「いえいえ、ちゃんとした持ち家ばっかりでっせ。それやのに、この似顔絵の男は強引に自分のもんにしよるんですワ。強盗と変わらしまへん。向かいの三軒とも、それでやられよったんですがな。今はちょっとなりを潜めているようやけど、またそのうち地虫のように這《は》い出てきまっしゃろ。役所も警察も、民事不介入とか何とか言うて、ほんまに頼りになりまへんさかいに」 「あの、すいません」  嘆きと愚痴を一気にまくし立てる中年男に、由佳は遠慮がちに口を挟んだ。「この似顔絵の小端という人はもう亡くなったのですけど、ご存知じゃありませんの?」 「へ、亡くなった? 死んだということでっか」  中年男の口髭が踊り跳《は》ねた。 「ええ、九日前のことです」  自殺ということで、新聞やテレビには報道されなかったのかもしれない。大都会での自殺は日常茶飯事だ。有名人とか、誰かを巻き添えにした場合とかを除いて、いちいち取り上げていては切りがないのだろう。 「よかったぁぁー」  口髭男は大げさに万歳をした。 (あまり喜ばない方が、いいんじゃありませんかしら)  由佳は胸の中で呟《つぶや》いた。  さっきから、フェンスで囲まれた更地を次から次と見て来ただけに、たとえ小端がいなくなっても、濡れ手に粟《あわ》のような利益が土地の下に眠っている限り、また新たな第二第三の小端が出てくるように思えるのだ。 「うちのヨメはんも喜びまっせ。ちょっとヨメはんにも教えたっとくなはれ。すぐそこの施設でボランティアをやってまんのや」  口髭男は由佳の手をぐいと引っ張った。表札の剥がれた三軒の家の横に、人がやっとすれ違うことのできる狭い路地があった。口髭男はそこへ由佳を引き入れて行く。 「ちょっと待ってください」  無理な体勢で引っ張られると腰が痛む由佳はそう言ったが、口髭男の耳には入らないようだ。  由佳は後ろを振り返った。伸太は巨体を横向きにして、どうにかこの狭い道を通っている。  入り口に〈社会福祉法人・鶴見イザヤ園〉と書かれた門を通ると、そこには意外にも四百坪近い敷地があった。 「おーい、わしや」  口髭男は由佳たちを残したまま、大正時代の小学校の校舎のような古い木造建築の中に入って行った。 「戦後まもなくの、建築基準法がでける前の時期に建てられたもんやろ。せやないと、こないな狭い袋路の奥に建造物を作ることは許可されへんワ」  伸太がぐるりを見回しながら言った。砂場で、四人の幼児たちが遊んでいる。 「お待たせしました。こっちへ来とくなはれ」  再び現われた口髭男は、まるで自分の家へ客を入れるかのように手招きをした。  二人は砂場の奥にある古びた一室に通された。八畳ほどのスペースに丸い木のテーブルが置かれ、そのぐるりを囲む形で薄いクッションの剥《は》がれた背もたれ椅子が五つばかり並んでいる。壁側には、木製の収納庫が大小取り混ぜて肩を連ねている。この部屋は会議室兼倉庫のような部屋と思われる。 「さあ、どうぞ座っとくなはれ」  口髭男に勧められるままに、由佳たちは背もたれ椅子に腰を降ろした。伸太の体重をまともに受けた年代物の椅子がギィーッと軋《きし》みを上げる。  いきなりドアが開いて、修道服姿の中年女が姿を見せた。 「主人から聞きましたわ。あのムカデみたいな男が死んだんですって」  まるで修道服に似つかわしくない粗野な大声だ。「もう本当にホッとしたわ。この施設もだけど、うちの家も危なくってね」  伸太は修道服の女に、小端の似顔絵を差し出した。 「そのムカデみたいな男は、こないな男どしたか?」 「ええ、間違いありません。この悪党は勝手に人の土地や家の登記を動かしておいて、いきなり『そこは他人の所有地だ』ってわめいてくるんだわ。それが嫌なら、自分に言い値で売れって凄《すご》むんだからさ。そのやり方で、三軒も出ちゃったのよ」  夫の方は大阪弁だが、なぜだか妻の方は東京弁のようだ。「あたしゃボランティアだから宗教のことはよく分かんないけど、この施設を守ってくださっているキリストさんの罰《ばち》があたってムカデ男は死んだんだわさ、きっと」 「ここはどんな施設なんですか?」  由佳は口を挟んだ。  先ほど砂場で幼稚園児ぐらいの子供たちが四人ばかり遊んでいた姿が印象に残っている。 「身寄りのない子供たちを引き取って育ててますのよ。園長のジェリスという女神父さんが、善意の塊のような人でね。戦後間もない時期にここに鶴見イザヤ園を開いて以来、四十年にわたって、ほとんど行政からの援助を受けずにやって来たのよ」  修道服姿の似合わぬ中年女は自慢げに胸を張った。それにしても、女神父などという言葉は辞書にあるのだろうか? 「ここで働いているかたは、ボランティアの人たちばかりですか?」 「そうでなきゃ、園の経営はとてもやっていけませんわよ。鶴見区に住む同じ宗派の教徒の人とあたしたち近所の者と、あと卒園生の人たちを加えて二十人くらいのメンバーが自分の出られる好きな日時に出て来て、ここでご奉仕するのよ。この修道服は、まあ制服みたいなもんよね」  彼女は修道服を摘んだ。 「そのボランティアの人の中に、こんな女性はいはりまへんでっか?」  伸太はA子の似顔絵を差し出した。 「いいえ、こんなきれいな人はいないわね」  彼女は首を横に振った。  ドアがノックされ、西洋人の銀髪老女が静かに入って来た。修道服姿がきっちりと板についている。一目でこの老女がジェリス園長だということが分かる。 「ジェリスと申します。本日はうちの者が無理やり、ここにお連れしたようでございます。申し訳ありません」  ジェリス園長は流暢《りゆうちよう》な日本語で詫《わ》びを入れてから、丁重に頭を下げた。 「とんでもありまへん。こっちこそ、訊《き》きたいことがおますよって、押しかけたようなもんですがな」  伸太はこんなときでも大阪弁丸出しである。由佳はちょっぴり恥ずかしさを覚えた。  ジェリスは静かに椅子を引いて座った。古い椅子であっても扱いかたによっては、このように何の軋《きし》みも立たないのだ。 「園長はんは、この小端という男と会わはったことおますのか?」  伸太は似顔絵を拡げた。こんなことなら、もっと上質の紙に描いておけばよかったと由佳は悔やんだ。 「ええ、とても不愉快な思いをいたしました」  ジェリスは碧眼《へきがん》を伏せた。 「宮《みや》昭子さんが、困ったことをしでかしちゃったのよ」  横から修道服姿の似合わぬ中年女性が口を出した。ジェリスは、彼女の出しゃばりに当惑したような顔つきを見せた。 「なんぞ、おましたんか?」  伸太は身を乗り出すようにして尋ねた。 「お恥ずかしいことですわ……」  とだけ言って、ジェリスは声を落とした。 「立ち入ったことを訊きまっけど、その宮昭子という人はどないなことをしはりましたんや?」  と伸太は間髪を入れずに、中年女性の方に向かって訊いた。 「宮昭子さんって、卒園生の人でさ。ときどきボランティアに来てたんだけどね」  中年女性は、俯《うつむ》くジェリス園長を尻目にペラペラと喋《しやべ》り出した。言葉遣いこそ違うが、饒舌《じようぜつ》なところは、似た者夫婦のようだ。「そのムカデ男に金で買収されてしまって、ここの施設の園長印をこっそり持ち出そうとしたのよ。園長先生がすんでのところで気づかれて、大声で叫ばれましたわ。ボランティアに来ていた男の人が出てきて、砂場のところで揉《も》み合うようにしてようやく奪い返してくれたのよ。宮昭子さんって本当はそんな悪い人じゃないんだけどね。金で叩《たた》かれて口説かれたら、人間って弱いじゃないのさ」 「わたくしの、教育が至らなかったせいですわ」  ジェリスは碧眼に涙を浮かべた。 「園長先生のせいじゃありませんわよ。あたしゃ、昭子さんを警察につき出さなかっただけでも、ご立派だと思っています」 「あの子を罪人扱いになんてできないのは当然です」  ジェリスは皺《しわ》の目立つ目尻を押えた。「でも、もう昭子は、二度とこの園を訪れてくれないと思います。それが、あたくし辛くて堪《たま》りません」  由佳はジェリスの涙を見ながら、沈んだ思いになった。異国の地で身寄りのない子供たちを四十年間にわたって育ててきた彼女にとって、その裏切り行為は恐らく最もショッキングな出来事のひとつだったのではないだろうか。 「日本の人はどうしてあれほどまでに土地に執着するのか、あたくしにはよく分かりません。土地は公共の物じゃないのですか? 神様はすべての動植物のために、大地をお造りになったはずですわ」  売却の形を取っても賃貸の形を取っても、利潤を確実に産み出してくれる不動産というものが究極の私有財産として扱われる日本経済の特質は、この篤実な碧眼老女には、とうてい理解しがたいことのようであった。 「園長先生、その宮という女性はこないな人とは違いますな」  伸太は、A子の似顔絵を見せた。 「いいえ、この絵のかたは宮昭子さんではありません。他の宮さんでもありません」 「他にも、宮さんという人がいはりますのか?」 「この施設は、両親が分からない子供たちを引き取っています。生まれてまもない赤ん坊の場合は名前もありません。そんなときはわたくしどもの方で姓名を付けます。女の子の苗字《みようじ》はすべて宮とします。鶴見イザヤ園の見とヤを取って、宮とするのです。成人してからも、この園のことを忘れてほしくないからです。下の名前の方は、ボランティアに来ていただいているかたから順次、拝借致しております」  ジェリスは静かに説明した。  幼くして両親が離婚してしまった由佳は、自分は薄幸な少女だと思ったことがあった。しかしこうしてみると、両親が分からず、本名さえ分からない子供たちもいるのだ。父親の死に目に会えた自分は、決して不幸とは言えなかった。 「ほなら、ボランティアに来てはる人とか、その他、顔見知りの人にこの似顔絵のような女性はいはりませんか?」  伸太はなおも粘った。先ほど隣の中年女性が、ボランティアに来ている者の中にこのA子はいないと断言していた。しかしいくら近所に住んでいたとしても、彼女は毎日欠かさずこの鶴見イザヤ園に来ているわけではないだろうから、A子とすれ違いということもありえないわけではない。 「いいえ、わたくし、この女のかたは存じ上げません」  ジェリスははっきりと否定した。  この上品で敬虔《けいけん》そうな老園長が嘘《うそ》をつく人物だとは、とても思えなかった。  鶴見イザヤ園をあとにした二人は、なおもその近所で聞き込みを続けた。  小端の顔を知っている者は他にもいた。彼らは似顔絵を見て、申し合わせたように怒りと憎悪の表情を見せた。そして死んだと聞くと、安堵《あんど》の胸を降ろした。いかに小端が忌み嫌われていたかがよく分かった。  しかしA子の似顔絵を見て、「知っている」と反応を示した者はいなかった。        3 「あそこまで小端重夫が憎まれていたとは、思わなかったわ」  二人は地下鉄で京橋まで引き返した。 「そら、目的のためには手段を選ばずというえげつないやり方で、土地を買い占めようとするんやもんな。狙《ねら》われた方は、かなわんで」 「地価の高騰さえなければ、ムカデ男に暗躍されることはなかったのにね」  聞き込みをしているとき、次のようなことを言う者もいた。  ——新しく地下鉄が完成して便利になるとか、花の万博の会場に近いということで脚光を浴びて地域の値打ちが上がるじゃないか、とかいう声を聞く。しかし実はこれほど迷惑千万なことはない。自分はボタン細工の小さな町工場をここでやっているが、地下鉄に乗ることなど月一回あるかないかのことだ。そのために自分の与《あずか》り知らないところで、勝手に地価は上昇してしまう。地価の上昇というと、えらく儲《もう》けをしたように受け取られるが、実はそうではない。投機目的で土地を持っているときは、確かに財産的価値が上がって得《とく》をしたと言えるだろう。しかし狭い自宅と生業である小さな工場では、売却などこれっぽっちも考えていない。それなのに、地価の高騰に伴って、固定資産税もアップする。固定資産税の上乗せ分に応じた工場増産ができるわけでもなく、負担が増加するだけだ。そして相続税の算出基礎になる路線価格も引き上げられ、それまで非課税の枠の中に納まっていたものがそうもいかなくなる。この調子で路線価格が上がっていけば、自分が死んだときに工場敷地の半分ほどを売却しなくてはならないのでは、と不安になっている。それでは息子が継ぐときの大きなハンディになってしまう。一生懸命に働き続けても、息子に工場の半分しか譲り渡せなかったとしたら、いったい自分の人生は何だったのかと思ってしまうだろう。そのうえ、地上げ屋のようなキナ臭い連中が暗躍する。まさしく地価の高騰は百害あって一利なしである。地下鉄ができたぐらい何なんだ。地下鉄なしで、月一回か二回タクシーに乗ったところで、固定資産税の値上がり分よりは安く済むはずだ——。 「行政は、博覧会のようなプロジェクトをやったり、地下鉄や高速道路を建設するというような、眼に見える実績造りにこだわり過ぎとんのとちゃうか。ほんまにみんなが住み良くて働き甲斐《がい》のある都市作りが一番やで。せやないと、このままでは市街地に住宅を持てる者はどんどん減っていって、都心はゴーストタウンになってしまいよる」  伸太はガラガラ声を掠《かす》らせた。 「東京では現にそうなっているところがあるわ。西新宿では、地上げで住民がどんどん出て行って戦前からの伝統のある小学校が閉校したのよ。都民に親しまれてきた神田の古本屋街も、新宿ゴールデン街も、激しい攻勢に晒《さら》されているわ。アルゼンチン、フィリピン、オーストラリアといった大使館ですら、標的にされているという話が雑誌に載っていたわよ。大使館って、都心の一等地にあることが多いでしょ」 「東京で行き着くとこまで行った土地漁りや地上げが、もはや猟場を食い尽くし、副都とも言うべき大阪へ出てきたいう観があるな。裏で糸を曳《ひ》いとる銀行や大手不動産会社が、関西に的を移してきたというこっちゃ。小端重夫のような関西を地盤にして地上げの尖兵《せんぺい》となって働く連中にとっては絶好の時代がやって来たということやで」  京橋駅から京阪《けいはん》電車に乗り換えて、大阪法務局の本局に向かう。  こうして伸太とつき合って奔走し、不動産のことをいろいろと知っていくうちに、憤《いきどお》りと正義感がいくらでも増幅していくのを由佳は感じていた。  伸太の言うように、このままでは、市街地はコンクリートのジャングルとも表現すべきビルとマンションばかりになってしまうに違いない。  平凡なサラリーマンが庭付きのマイホームを手に入れようとしたら、うんと郊外に照準を移して、それでも何十倍もの抽選の関門を潜らなければならない。通勤のために一日四時間も五時間も殺人的なラッシュにもまれ、ちょっとした買い物に行くにも電車に乗らなければならず、レジャーを求めるとしたら丸一日がかりとなる。日々の暮らしの基本である住環境の貧しさに、肉体的にも精神的にも疲れ果てなければならないのだ。東京圏では、そんな狂ったような状況が既に出現している。 (それが人間らしい生活かしら?)  例えば、駅前の横丁の角を曲がるとタバコ屋があって、その先に幼なじみの住んでいる家があって、向かいの手作りケーキ屋のシュークリームをよく食べる——そういうたたずまいこそが、人の住むべき�まち�ではないのか?  そんな人間臭い家並みや住まいが、どんどん取り壊されていっている。そこには暴力や詐術を弄して、弱い者や法律に疎《うと》い者を踏みにじり犠牲にするあくどいやり方もまかり通っている。 (あの鶴見イザヤ園という養護施設までもが、狙《ねら》われていたのだわ……)  由佳は唇を噛《か》んだ。  不動産を商品にして儲《もう》けようとたくらむ連中には、狙った土地や建物にどれだけの人々の善意や好意がしみ込んでいようと全く関係ないのだ。相手が弱いと見れば、嵩《かさ》にかかって手練手管の攻勢を仕掛けてくる。 (そんなことって、許されるべきじゃないわ)  政府も地方自治体も、あまりにも土地問題に無策過ぎるのではないか? 強者の土地漁りを、放置し見過ごしてはいないだろうか? (行政がやらないからって、あたしたちが手をこまねいていることはないわ)  人間らしい家並みを守るために、詐欺的地上げ屋と戦おうとする伸太に、由佳は協力したい気持ちを覚え出してきた。父の周平だって、同じような立場で目立たぬ庶民派代書屋を貫いていたではないか。その周平のナニワ節的な熱血が、由佳の体にも流れているはずなのだ。        4  天満橋《てんまばし》駅から谷町筋《たにまちすじ》を三分ばかり南に歩いたところに、大阪法務局の本局がある。 「まず公図で、小端が捜査二課的地上げをしとった鶴見イザヤ園周辺の地形を当たってみよや」  伸太は土地公図の閲覧を請求した。土地公図というのは、土地の町名・地番順に形状やおおよその大きさを現わしたものである。言ってみれば、地番ごとに区画された土地の鳥瞰図《ちようかんず》である。この閲覧は、登記簿の閲覧の場合と違って無料でできるということだ。 「由佳ちゃん、この台形の広い土地が鶴見イザヤ園や。地番は鶴見区|横堤《よこづつみ》六丁目三十六番地と出とる」  伸太は太い指に似つかわしくない器用さで公図をペラペラと繰って、目的のページを探し出した。そのあと、窓口カウンターに備え付けてある住宅地図とつき合わせた。「この隣り合った三軒が、表札の剥《は》がされていた土地や。地番はそれぞれ三十三、四、五となっている。おや、反対側はさいぜん通りかかった東洋銀行の建設予定地やないか」  伸太は住宅地図にラグビーボールを横にしたような顔を近づけた。  鶴見区役所前の道路に沿って、マンションを上に持つ銀行の建設予定地が五百坪ほど更地《さらち》になっていた。そしてその更地の奥に鶴見イザヤ園があり、表札の剥がされていた三軒の古い家を経て裏の道路に繋《つな》がっている。 「鶴見イザヤ園自体は袋路やけど、こうして三軒の裏手の家を繋げると土地の有効度は高《たこ》うなるし、表側は銀行・マンション用地とも接しとる。場合によっては、オリエント興産あたりに売ることもでける。オリエント興産としても、奥にもう一棟マンションを建ててもええわけやからな。確かにディベロッパーが、食指を伸ばしそうな土地やで」  感心したように伸太は言った。 [#挿絵(img/fig11.jpg、横248×縦425)]  続いて伸太は、この横堤六丁目の三十三番地から三十五番地にかけての土地登記簿の閲覧を請求した。  表札の剥がれた家である三十三番地の登記簿は次のようになっていた。 [#挿絵(img/fig12.jpg、横199×縦302)] 「右側の壱の記載は、相続によって加藤忠雄はんという人がこの土地の所有権を取得したということを示しとるんや」  加藤忠雄が相続により、土地を受け継いだ。ここまでは何の問題もない。ポイントはその次の記載だ。 「左側の弐を見ると、末尾に小端重夫の名前がある。住所は住民票を動かされる前の、堺市|今池西《いまいけにし》町の十六番地や。せやから、本物の小端に違いあらへん。その小端重夫に対して、加藤忠雄が所有地を売り渡したことになっとる。けど、今日、近所の人に聞き込んだ限りでは、加藤忠雄がそう簡単に所有地を手放したとは思えへんのや」  伸太はボールペンを取り出した。「こんなときは登記の申請書を見たら、詳しいことが分かるんや」 「つまり加藤忠雄から小端重夫への、弐の登記がなされたときの申請書ね」  申請書は能勢でも閲覧をした。申請書に必要な書類を添付して初めて、登記がなされる。従ってその登記に使った申請書を閲覧すれば、どういうプロセスで登記に至ったかの経緯が、詳しく掴《つか》めることになる。  伸太はボールペンでさらさらと申請書閲覧の申し立て書をしたためて、手数料の印紙を張り付け、窓口に提出した。このような機敏な仕草をみるのは初めてではないのだが、普段のぐうたらで大食いの伸太のイメージとの落差に、由佳はまだ付いて行けない。  しばらくして、石丸伸太の名前が呼ばれ、法務局の職員が申請書の綴《と》じ込み簿をカウンターに出した。 [#挿絵(img/fig13.jpg、横328×縦372)] 「そうか、なるほど、こないな手口で小端の奴は、加藤忠雄はんの所有地を動かしてしもたんか」  この申請書をしばらく見ただけで、伸太はうんうんと頷《うなず》いた。由佳は何のことかさっぱり分からない。「万藤刑事が捜査二課的な地上げ屋と表現したが、まさにそういうこっちゃな」  伸太は独りごちている。 「義兄《にい》さん。あたし、よく分かんない」  由佳は、伸太が手にしたボールペンを取り上げて、彼の低い鼻の先に突き出し、説明を求めた。 「よっしゃ。この申請書の最初の行から順を追って解説しよや」  伸太はすっかりトレードマークになっている広告ビラの裏を綴じたメモ帳を、ポケットから取り出した。メモ帳と一緒に、丸めたハンカチが引きずられるようにポケットからはみ出る。伸太はそれにはお構いなしに、申請書の先頭の行に太い指を置いた。「まず初めの〈登記の目的〉という項目には、どないな登記を申請したいかということを書くんや。本件では所有権移転すなわち所有権が動いた登記をしてほしいというこっちゃ。これはええな」  由佳は軽く頷いた。要するに、加藤忠雄から小端重夫への所有権が移転した旨の登記を求める申請書だ、ということを先頭の一行で示しているのだ。「次の〈原因〉は、どないな理由でこの申請書を出すかということが書かれてある。この申請書では、平成|弐《に》年弐月七日売買ということで、売買を原因にして所有権が移転するんやということが表現されている。そして〈権利者〉の項目には、この申請によって所有権を得る者の住所・氏名が書かれるんや。本件では、小端重夫が権利者となっておる。それに続いて〈義務者〉、つまりこの申請により、所有権を譲り渡す義務を負う者の住所・氏名が書かれる。それが加藤忠雄や。ここまでは分かるわな」  由佳は黙ってちょこんと顎《あご》を引いた。 「大事なのは次の〈添付書類〉や。これは『この申請が、真実の所有権売買に基づいてなされるものですよ』ということを証明するために付ける書類のことや。所有権移転の証拠書類と言い換えてもええやろ。法務局の職員は、この添付書類が全部|揃《そろ》っていることをチェックすることで、登記審査を行うことになる。つまりこの添付書類が、一つでも抜け落ちていたら、この申請書は却下という処理となり、加藤忠雄から小端重夫への所有権移転登記はなされへんことになる」 「証拠書類が全部揃ってなければ、所有権移転登記は却下ね。だけど、この場合は却下されずに、ちゃんと所有権移転の登記がなされてしまっているわ。ということは、ちゃんと証拠書類としての〈添付書類〉が整っていたということなのね」  由佳は片手を頬《ほお》にあてた。〈添付書類〉が揃っているのなら、適正で有効な売買が加藤・小端間でなされていたということなのか。しかし、それなら小端重夫は、忌み嫌われる捜査二課的地上げ屋にはならないはずだが……。 「証拠書類と言うと聞こえがええけど、その内容が今の法制度では薄ら寒いんや」  伸太は〈添付書類〉の項目をボールペンで押さえた。「ええか、まず〈原因証書〉とあるやろ。これは不動産の売買契約書のことや。この売買契約書は、申請書と同じくワープロでかまへんし、たとえ手書きでもまさか筆跡鑑定書を付けるわけではなく、偽造は難しいことやあらへん。次に〈保証書〉とある。こいつが最大の曲者や。前に権利証というもんを説明したことがあるやろ。所有権の移転登記を受けた者は、権利証を持っておる。この権利証というもんは、絶対に再発行されへんのや」  再発行を認めると、ときには権利証が二つ出回ることになってどちらが真の権利証か区別がつかなくなるからだ。 「そやけど、それでは権利証が火事で焼けてしまったり、紛失したあとで、誰かに所有権を移転しようとするときには困るやろ」 「そうね。権利証が絶対に再発行されない以上、権利証がないままだものね」 「そんなときの救済便法として、保証書というものがあるんや。権利証がない者は、この保証書を付けることによって、権利証がなくても、所有権移転登記がでけるんや」  伸太はボールペンで簡単な図を書き付けた。 [#挿絵(img/fig14.jpg、横113×縦244)] 「この保証書というのは、かつて申請法務局で何らかの登記を受けたことのある成年者二人の名義と押印があれば、それで有効なんや」  伸太はそう説明しながら、登記申請書に綴《と》じ込まれている書類を繰った。その保証書というのが出てきた。保証人として、姉の酒間朋子とその夫である酒間和史の名前が書かれ、押印がなされている。 「酒間和史が自分の名前が勝手に使われて困っていると言っていたのは、このことね。でも、こんな近親者でも保証人になれるの?」 「かまへん。そういう規制はないんや。保証人になるには、かつて申請法務局で何らかの登記を受けたことのある者という条件があり、一見えらい厳格なように思われるけど、登記をした経験ある者ならたとえ何年前でも、今はもう抹消された登記でも、所有権以外の例えば賃借権のような登記でもかまへんのや。小端くらいの男やったら、自分が取得した土地の上に酒間夫妻の賃借権を付けて、すぐにそれを取り消すという登記くらい容易にしてしまいよるやろ。その手間を一回かけておけば、それで酒間夫妻を永久的に保証人として何回でも利用できるんや」 「保証書って、何だかすごく簡単にできちゃうみたいね」 「簡単やな。本来権利証に代わるべき重要なものやという割には、容易にでけてしまうもんや」  伸太は不満そうな声で言った。「もともとは権利証をなくした人たちのための救済の便法である保証書制度が、現実はこないな形で悪用されとる」  由佳は、怖い気がした。こうやって保証書で代用すれば、権利証はなくても登記は動かせる。ということは、権利証をいくら金庫の中にしまい込んでいても、それで百パーセント安心とは言えないのだ。 「その次にある〈印鑑証明書〉は、加藤忠雄はんの実印に関する印鑑証明書を意味する。せやけど、この印鑑証明書は住民票さえ動かしたら容易に得られてしまうことは、前に体験したな」  そうだった。住民票を勝手に動かすことにより、実印を変えしかもその印鑑証明書を得られる手口があった。  伸太は、申請書の〈義務者〉の住所を確認した。加藤忠雄の住所は、城東《じようとう》区|関目《せきめ》七丁目五番七の四となっている。本来なら、鶴見区横堤六丁目三十三番地であるはずの加藤の住所はやはり移転されていた。 「添付書類として最後に書かれている住所証明書というのは、権利者、つまりこの場合で言えば所有権を取得する小端重夫についてのものを意味しとる。小端でなくても、自分の住民票の写しを取ることは容易なことや。これで所有権移転の証拠書類であるべき添付書類は、〈原因証書〉、〈保証書〉、〈印鑑証明書〉、〈住所証明書〉、と全部打ち揃《そろ》うことになる」 「証拠書類である添付書類が揃っていたら、それでこういった申請は認められちゃうの?」 「これも前にちょっと言うたけど、日本の登記制度は形式的審査主義や。書類上さえ有効なものが揃っていたら、それでええんや。現にこうして加藤忠雄から小端重夫への所有権移転登記は実行されとるやないか」  由佳は頬《ほお》にあてがった手をはずした。  こんな形で、土地の登記名義は動いてしまうのだ。いくら権利証を大事に保管し、実印を大切にしまい込んでいても、否応なしに登記は動く——常識的感覚からするとちょっと信じがたいことだけど、これが現実なのだ。 「じゃあ、これでもうこの土地は、小端重夫の所有になるの?」  由佳は、立ちくらみしそうなほどの憤《いきどお》りを覚えた。こんないい加減な登記なら、登記制度などない方がマシではないか。 「ややこしいことを言うけど、登記簿上の権利と実質的権利は別とされる。登記名義が小端に移転しても、それで直ちに小端の所有権が認められたことにはならへんのや」 「それじゃ、加藤忠雄さんの権利は安泰なの?」  そうでなくては困る。こんなことがまかり通ったら、誰もが安心して自分の土地に住めなくなる。 「この場合に実質的な権利は動いとらんことになる。せやから、安泰と言えば安泰と言える。ただ、登記というものはそれがなされたら、一応その登記に対応する行為があったという推定が働くんや。つまり加藤から小端へ所有権が移転したという推定が働いてしまう。せやからその推定を覆《くつがえ》そうと思たら、裁判を起こして本当の権利を証明するなどの面倒な手続きを踏まんならんことになる」 「裁判を起こさなきゃいけないの……」  由佳は眉《まゆ》をひそめた。いざ裁判と言ってもどうしたら起こせるのか、何も知らない。だいたい、裁判所に行ったことなど一度もないのだ。 「そして、たとえ手間とヒマをかけて、裁判で登記をようやく復帰させても、またこないな形でいとも容易に登記が動かされるのやないか? という懸念を持つことは避けられへん」 「そうね。バレーボールで言えば、いったん腰や膝《ひざ》を痛めたら、また痛めるんじゃないかってプレーが消極的になるのと同じよね。だいいち、登記制度に対する信頼感なんて、なくなっちゃうわ」 「そこへこの小端が現われて、時価で土地を買いましょう。今なら、時価にプラスして上乗せしてあげますよと申し出てきたら、由佳ちゃんが加藤はんの立場ならどないする?」 「登記を動かした張本人が来たら、塩をかけて追い返すわよ」 「小端が正直に名前を言うとは限らんがな。阪南開発の社員やという肩書きで適当な名前をかたるとか、あるいは阪南開発の社員と一緒に足を運んでくるかもしれへん。連絡先として小端は電話番号くらいは言うやろけど、登記上はどの書類にも電話番号は出えへんから、小端が登記を動かした張本人とは、加藤はんには分かりようがあらへん」  なるほど、小端は確かに加藤の前に一度も姿を現わさずに、黒子のようにして登記を右から左に動かせるのだ。そんな男が訪問したからといって、こいつが登記詐欺の仕掛け人だと見抜けるはずもない。「小端は『もうこんなふうに登記名義がどんどん勝手に動くような怖い目に遭うのは嫌でしょう。そうでなくても、ここはたくさんの地上げ屋が虎視眈々《こしたんたん》と狙《ねら》っているのですよ。ダンプカーを突っ込まれたらどうします、放火されても困るでしょ。でもその危険性は充分ありますよ。おたくには小さい子供さんが居るじゃありませんか』と充分に脅しつけといてから、『今なら、そして私なら時価よりさらに高い値段で買いますよ。ここが潮時じゃありませんか』と足しげく通いながら、ときには現ナマを積む。金銭的に損をせずむしろ少し得《とく》をするのなら、土地を換金して物騒でないところに引っ越そうかと思い始めるのが人の常《つね》やろ」 「小端は、本当に時価より高く買うの?」 「加藤はんの土地をそれ単独で買《こ》うたときの値段よりは多少の色はつけるかもしれへん。周囲の土地が纏《まと》まったときには、大きなマンション用地として、それだけ土地の値段が跳ね上がり、儲《もう》けも増えるんやさかい」  由佳は土地という怪物の変化《へんげ》を垣間《かいま》見たような気がした。土地は合体して大きくなると、その価値が上がるのだ。〇・五カラットのダイヤ二個よりも、一・〇カラットのダイヤ一個の方が値打ちがあるのと同じだ。ダイヤはおいそれとは合体できないが、土地の方は隣地を取り込めば可能だ。一坪何百万円という代物《しろもの》だけに、たとえ十パーセントのアップでも差額は大きなものとなる。  そのうえ、近くに地下鉄の駅ができるということになれば、地価はさらに上昇していくことになる。 「地上げで立ち退《の》く人々の多くは、最初は抵抗していても、次第に精神的に不安を感じ、疲れてきて、もう損せえへんのやったらええやないかということで手放しとる。小端はその精神的不安を、登記を動かすという形で揺さぶり増幅させる手を使《つこ》うていたんや。目に見える暴力でないだけに、ヤクザ絡みの追い立てとは違うけど、これも非合法な地上げには違いあらへん。ただ知能犯的なやり方だけに、タチが悪くて陰湿と言えるやろ」  加藤忠雄たちは、ムカデ男と蔑《さげす》みながらも、小端の姑息《こそく》な術中に落ちてやむなく手放していったのだ。万藤刑事が、捜査二課的地上げ屋という表現を使ったのは言い得て妙かもしれない。暴力を伴う地上げ行為に対して警察の取締りが強化されつつある現在、このような詐欺的な方法を弄する追い立てはこれから増えていくかもしれない。地価の高騰によって差益が得られるという状況がなくならない限り、手を変え品を変え地上げ屋という仕事はなくなりそうもないからだ。 「この権利証代用の保証書と住民票移転による印鑑証明書を使った移転登記という卑劣なやり方から、自分の登記を守る方法はないのかしら?」  こんなことがどんどんやられたら、堪《たま》ったものではない。 「残念ながら、今の法制度のもとでは防ぎようがあらへん。不動産を持っている者は、誰でもこんな形で登記を勝手に動かされてしまう危険性を潜在的に抱いているということや」  由佳の期待に反して、伸太は悲観的な答えを出した。「その危険性をゼロにするためには、法務局で添付書類さえ揃《そろ》っていたら登記申請を認めるという、現行の形式的審査主義を改めるしか方法はあらへん。日本の法律的な制度はその多くをドイツから学んで取り入れたんや。ところがこの登記制度だけは、なんでか知らんけど、ドイツの優れたやり方である実質的審査主義を真似せなんだんや」  伸太の説明を聞いて、由佳の憤《いきどお》りは膨らんだ。  不動産の値段が世界一高い国と言ってもよいこの日本で、このように登記が書類の操作だけで動いてしまう制度を野放しにしているのだ。  地上げ、悪徳不動産屋、土地転がし、地価狂乱——果してこんな言葉を適切に外国語に翻訳できるかどうか首をかしげたくなるほど、土地問題は日本的だ。どの国よりも深刻な状況があるというのに、どうしてこんな欠陥のある形式的審査主義を改めようとはしないのだ。世間の人たちは、もっと登記制度に関心を持ち、批判の声を上げるべきだ。 「今も言うたように、小端が使《つこ》うた〈保証書プラス住所移転による印鑑証明書取得〉というやり方は、誰も防ぎようがあらへん。ただこの方法の射程距離が及ばんケースがある。それが法人所有の土地や」 「法人って?」 「会社や財団・社団などのことや」 「法人所有の土地には射程距離が及ばないということは、会社などが持っている土地には、さすがの小端もこの切り札を使えないという意味?」 「そのとおりや。個人と違って、法人には住民票というものがあらへんがな。せやから、単純に個人の住民票を動かして、新しい実印とその印鑑証明書を手に入れるという方法が効かへんのや」 「個人が個人になりすますことは比較的簡単だけど、個人が法人に成り代わるということは困難ということね」 「まあ、そういうこっちゃ。そこで鶴見イザヤ園でのことを思い出してほしいんや。あの園の小さな門には社会福祉法人・鶴見イザヤ園と刻まれてあったやろ」 「確かにそうだったわね。ということは、あそこの四百坪ほどの土地は、法人の所有地ね。だから、単純に住民票を移転するというわけにはいかないのね」 「そうなんや。小端重夫が鶴見での開発が行き詰まっていたというのは、そのことやったんや。加藤忠雄たちが持っていた三軒を姑息《こそく》な方法で買い占めたものの、鶴見イザヤ園の土地は同じようなやり方では手に入らない。彼はそこで行き詰まっていたんや。せっかく三軒の民家を追い立てたものの、四百坪ほどの広さがあり、しかも銀行・マンションの建設予定地と繋《つな》がるイザヤ園の登記が簡単には動かない。小端はあせったやろな」 「宮昭子という女性が、園長印を持ち出そうとして寸前で捕まえられたということがあったと聞いたわね」 「さいな。小端は、ボランティアで出入りする卒園生を金で抱き込んで、園長はんの代表印を持ち出させる強行手段に出たんや。法人の場合は、個人のような実印登録カードの制度はあらへん。そやから、登録カードは要らずに代表印自体があれば、それだけで法人の印鑑証明書が得られるんや。この点では、むしろ法人の方が防御が弱いと言えるかもしれへん」 「権利証は?」 「権利証がないときは、さっきの保証書で代用でける点は、個人の土地でも法人の土地でも変わるところはあらへん」 「じゃあ、ポイントは印鑑証明書が手に入るかどうかね」 「そういうこっちゃ。そこで小端は金で買収して、代表印を持ち出させようとしたんや。さいぜんの加藤忠雄が所有していた土地のケースのような住民票を移転する方法よりも、代表印を直接手に入れる手段の方が、被害に遭《あ》ったことの立証は難しくなる」  伸太は次のように説明した。  法人の代表印に関する印鑑証明書は、代表印自体を持っていれば役所で請求することができる。その印鑑証明書を得たあと、代表印自体を元の場所へ戻しておけば、代表印を拝借された側としては、果たして印鑑証明書を請求されたかどうかは分かりようがない。したがって、全く知らないままに、印鑑証明書プラス保証書という形で所有権移転登記がなされてしまうことになる。 「あのジェリス園長さんなら、たとえ登記が動いてしまっても、代表印を持ち出した卒園生を責め立てたり告発したりは、しそうにないわね」  由佳はジェリスの慈悲に満ちた碧眼《へきがん》を思い出していた。「それでイザヤ園の登記は無事だったのでしょうね?」  あんな善意で成り立っている福祉施設が、むき出しの欲望の餌食《えじき》になることは許せない。 「登記簿の閲覧をしたら、分かる」  伸太は、イザヤ園の所在地である鶴見区横堤六丁目三十六番地の登記簿閲覧を請求した。 [#挿絵(img/fig15.jpg、横310×縦275)] 「大丈夫、無事や」  伸太の声に、由佳は小児科医に自分の子供が異常なしと診断された母親のようにホッとした。 「せやけど、この弐の仮登記はどないなつもりやろな」  伸太は、ボサボサの髪の毛を掻《か》き上げた。由佳は、横から登記簿を覗《のぞ》き込んだ。 「弐の×印は、何という意味なの?」 「いったん記載されたが、あとでその記載が抹消申請されたときには、×印を法務局の方で付けるんや」 「要するにキャンセルされたということね」 「まあ、そういう意味や。この場合で言えば、弐でいったん仮登記がついたが、参でそれをキャンセルしたということになる」 「キャンセルされたことなら、何も気にすることはないじゃないの」 「そらまあせやけど、弐の仮登記の権利者となっている鶴居という人物は初耳やで……」  伸太は、大きく×印で消されている欄のタイプ文字に眼をショボつかせた。そして太鼓腹を押さえた。「うーん、ぼちぼちガス欠やな。腹が減ってきたよって、うまいこと考えが纏《まと》まらんようになってきてしもたワ。この登記簿の謄本を取っといて、家で検討しよや。さいぜんの加藤忠雄はんの分と、表札の剥《は》がれていたあと二軒分の土地の謄本もや」  伸太は、計四通の登記簿謄本を請求した。登記申請書などは謄本を得ることはできないが、登記簿については一筆四百円で謄抄本が取れる。  加藤忠雄以外の表札の剥がされた二軒も、加藤のそれと同じような〈保証書プラス住民票移転による印鑑証明書取得〉という方法で、小端の手に落ちていた。 「小端が死んでへんかったら、これらの土地はすぐにいくつかの不動産業者の間をコロコロと転がされて、最終的には大手不動産会社か金融機関の所有名義になっとったと思われるで」  グーッと腹の虫を鳴かせながら、伸太はガラガラ声で言った。 [#改ページ]  第四章 真相への肉迫        1  新世界の自宅に帰った伸太は、さっそく特製のぶ厚いお好み焼きを焼き上げた。由佳もそれにつき合った。  ここ数日は、周平の葬儀や今のような調査に出かけることが多く、〈本日臨時休業〉や〈夕方より開店します〉の張り紙が前のガラス戸に掛かる日が続いている。もっとも、店を開けていても、客はほとんどやって来ない。夜になって、隣のカサブランカの客が出前注文したり、空腹を覚えた酔客がぶらりと立ち寄る程度である。儲《もう》けはしれている。  代書屋としての客はもっと少ない。と言うよりは、A子以外の依頼人を由佳は知らない。  こんな調子だから、二つの仕事を兼業といっても、その所得を合算しても並のサラリーマンの平均年収には到底及ばないだろう。その稼ぎの大部分を伸太は食費に当てている様子だ。エンゲル係数を計算したら、百に近い数値がはじき出されるのではないか。高いディナーをグルメするというわけではないのだが、とにかく胃袋に入る量の多い大食漢なのだ。もともとナニワは食い倒れの街と言うが、伸太はその食い倒れがLLサイズを着て歩いているようなものである。 「さあ、特製お好み焼きのあとは、特製魚料理や」  伸太は例によってソースを唇からはみ出させながら、包丁を握る。伸太は見かけによらず手先が器用で、しばしば自転車で黒門《くろもん》市場という大阪随一の魚河岸まで行き、生の魚を買ってきては捌《さば》いている。いっそのことフグ料理か何かの板前になった方が稼ぎがいいのではと思ったこともあるが、由佳には彼なりの社会的使命感と活動が分かってきているだけに、今はもう何も意見する気はない。もっさりとした看板を掲げ、容易に悪徳不動産業者に利用されそうな代書屋の外貌《がいぼう》を見せながら、伸太は不動産にこびり付くヘドロを懸命に掃除しようとしているのだ。 「さあ、やっと満腹になったで。これでこそ、知恵も回るというもんや」  甘鯛《あまだい》一匹をペロリと平らげたあと、伸太は満足そうにツマ楊子をくわえた。  満腹状態のときほど頭が回転するというのも、伸太ならではのことである。 「さあ、それでは今日の成果を纏《まと》めてみよや。まず鶴見へ行って、小端重夫がムカデ男と嫌われていたのを知ったな」 「そして法務局の本局で登記簿を閲覧して、小端の卑劣な追い立てのやり方を見たわ」  由佳は相槌《あいづち》を打った。 「どうや、小端という男、A子はんからひどく憎まれとったという気がせえへんか」 「A子さんじゃなくっても、あたしだってあんな奴は大嫌いよ」  由佳はいつの間にか、またA子をさん付けで呼んでいた。 「わいはA子はんが恨みを持って、小端に仕掛けをしようとしたと睨《にら》んどるんや。単なる当て推量やなしに、その根拠はある。そもそも今回の出来事の発端になった能勢《のせ》の土地のことを思い出してんか。あの土地は実のところは能勢の服部安太郎から、小端の名をかたったBが千九百七十万円で買ったんや。それをA子はんに転売した形にして、わいを騙《だま》して、さもA子はん自身が登記詐欺の被害者のような振りをしたやろ。そして現在、あの土地の所有権はどないなっとると思う?」 「えーっと、手付金はA子さんの方へ戻って契約は解約されたのだから、所有権の名義は小端重夫のままよね。まさか能勢の服部さんのところへは返らないわね」 「もう能勢の服部はんは関係あらへん。小端は言ってみれば、氏名を借用された結果、土地を取得したことになる。そやからほんまは小端には所有権はないんやけど、このことに現時点で気づいとるのは、わいらだけや。そやさかい、わいらが黙っとったら、あの土地は小端の死によって、姉の酒間朋子に相続されていくはずや」 「ということは、A子さんとBは千九百七十万円もの出費をしながら、小端の相続財産になっていくことを手をこまねいて見ていなきゃいけないの?」 「もし自分にほんまの所有権があるということを主張するなら、小端の住民票を勝手に移動したということなどを認めなあかんからな」 「じゃあ、A子さんたちは二千万円近いお金を損してでも、小端を能勢の土地の登記詐欺の加害者に仕立てたかったということね」  由佳は感心したかのように息をついた。  小端が自殺だという警察見解はまだ覆《くつがえ》せていない。しかしもしも、他殺だとしたら、怨恨《えんこん》を動機とする犯行という可能性は充分に考えられるだろう。小端は激しい恨みをかっても仕方のない人間だ、と由佳には思えるのだ。  由佳たちの眼の前に姿を見せ、小端の死と共に行方をくらましてしまったA子はどこかでこの小端と接点を持っていたという気がしてならない。 「もしかしてA子さんって、表札を剥《は》がされた加藤忠雄さんたち三軒の家に住んでいた家族だってこと、ないかしら?」 「今日、彼女の似顔絵を片手にあそこらへんを歩いたけど、A子はんの絵を見て反応を示した住民は一人もいいひんかったやないか」  言われてみれば、そうだった。A子の似顔絵の精度については由佳には自信がある。彼女とは、二回も会っているのだ。 「それにただ追い立てを食らったという恨みだけで、千九百七十万円を犠牲にしたり、ましてや殺害に及んだりするもんやないやろ。A子はんの背後には単なる迷惑の程度を超えて他の事情が横たわっている——わいにはそう思えるんや」  確かに、ただ追い出されたという程度では、ムカデ男と蔑《さげす》んでも、あんな手の込んだ氏名借用はしないだろう。 「でも、あれだけ鶴見で調べてみたけど、A子さんの影はどこにも見えなかったのよ。今のままでは、次の手掛かりはないわ」 「いや、わいは手掛かりはあらへんとは思てへんのや。まずさいぜん言うた千九百七十万円のことやけど、A子はんはわいに宝クジが当たったからと説明した。そやけど、そんなことは実際はめったにありえへん。宝クジやのうて、あの若さでそれだけの大金を手に入れられるのはどんな場合や」  売春で稼いだとき? と言いかけて、由佳は言葉を飲んだ。A子はとてもそんなふうな女性には見えない。 「……相続をしたときかしら」  由佳自身、周平の危篤の知らせを聞いて東京からやってきたときは、この家の相続のことをあてにしていた。 「そういうことや。たとえば親が追い立てを食らい、その代価を得たもののすぐ死んだとしたら、遺産として二千万円近い金を得ていたとしても不思議やあらへんやろ」 「そうね」 「二番目の手掛かりは、A子はんたちが非常に手の込んだ登記名義の利用をやっているということや。とくに小端の住民票を動かして印鑑証明書を手に入れているという点は、小端が鶴見でやっていた方法をきっちりと踏襲しているやないか。しかも、あの能勢の土地を対象にした仮登記では酒間和史の名義をしっかりと使《つこ》うていたで」 「つまり、小端から前にその手を食らった経験があるということ?」 「そやないと、なかなかこないな方法まで思いつかへんし、思いついてもおいそれと実行でけるものではないやろ」  確かにこうして事件に関わりを持つまでの由佳は、印鑑証明書の何たるかも不充分にしか理解していなかった。ましてや、住民票を勝手に動かして、印鑑証明書を得る方法があるなどとは露《つゆ》ほども知らなかった。一般市民の登記に対する知識もこれと大同小異ではないか。  A子たちは、登記詐欺師とでも言うべき小端の登記名義を逆に動かしているのだ。法律知識だけでなく、実行力もある。それだけではない。小端重夫が小道具として常套的に使っていた酒間和史の名義をも利用しているのだ。その酒間の氏名や住所を知っているということは、過去に酒間を小道具として登記を動かされた被害者という可能性が強い。 「だけど、鶴見で小端から被害を受けた人間の中からは、A子さんのことは浮かばなかったのよ」  さっき伸太自身が、A子は鶴見で追い立てを食らった者の一員ではないだろうと言ったばかりではないか。 「小端は、鶴見でだけ地上げ行為をやっていたとは限らへんで。一匹狼《いつぴきおおかみ》である彼は死ぬ直前は鶴見のことで手が一杯やったかもしれへんけど、過去に他の場所でやっていたことは幾度もあるはずや。彼のやり方はそれ相当の年季が入っておるがな。ほら、由佳ちゃんが前にBMWの中で死んでいた小端重夫は、別人のCやないかと疑ったことがあったやろ。あんとき万藤刑事が、小端の前科カードの指紋と死体のそれを照合したと言うとったがな。その前科のことを、万藤刑事はどないなふうに喋《しやべ》っとった?」  由佳の記憶力を試すかのように、伸太は訊《き》いた。 「憶《おぼ》えているわ。地上げのトラブルをめぐっての暴行の前科よ」 「さいな。奴は泉佐野《いずみさの》で暴行を働き、一度警察に捕まっているという話やった。つまり少なくとも、泉佐野で過去に地上げを行い、トラブルを起こしているというこっちゃで」 「泉佐野って……」  十三年間も大阪を離れていた由佳は、泉佐野と言われても即座にピンとこない。 「岸和田《きしわだ》市、そして貝塚《かいづか》市のさらに南や。現在はその沖合で、関西新空港が建設中や」  由佳は大阪へ来る途中の新大阪駅からの東海道線の車内でのベレー帽をかぶった男たちの会話を思い出した。二十四時間発着可能の空港が、平成五年のオープンを目指して作られているということだった。 「関西新空港は、開催期間が限られとる花の万博以上の大きなプロジェクトや。しかも泉佐野は、大阪市内である鶴見よりもずっと市街化が進んでいないとあって、新空港のプランが決まるやいなや、どっと不動産屋が用地取得を狙《ねら》って押し寄せたんや。早いうちに土地を手に入れておけば、近い将来に高騰するのは目に見えておるさかいな。東京と一時間で結ぶリニアモーターカーの建設の話もあるだけに、なおさらや」  由佳の耳に、今日の鶴見で聞いた、花の万博や地下鉄新線建設のために迷惑しているという町工場主の話が蘇《よみがえ》った。固定資産税のアップ、相続税への心配、そして地上げ屋の暗躍、と百害あって一利なしだと彼は怒っていた。泉佐野でも、同じような不遇を嘆いている人たちがいるに違いない。新空港の場合はさらに、二十四時間ひっきりなしの航空機騒音問題が加わるのではないか。結局、最終的に一番|儲《もう》けを得て喜ぶのは、土地転がしの終着駅と言うべき大手不動産会社や銀行かもしれない。その大手不動産会社の経営者や銀行の頭取たちは、きっと航空機の騒音などとは無縁の高級住宅街に住んでいるのに違いないのだ。 「明日にでも、泉佐野へ行こうと思うんや」 「ええ」  由佳は、暗い思いに捉《とら》われながら首を縦に動かした。        2  南海電車の新今宮《しんいまみや》駅から急行電車に乗って三十分余りで、泉佐野駅に着く。  駅舎は、山手《やまのて》線の原宿《はらじゆく》駅に似た感じの小ぢんまりとした建物である。駅前の商店街も、五分ばかり歩けば店が途切れて、しもた屋が続く。さらに五分ばかり歩けば、海岸に出る。漁港が作られ、五十トンぐらいの小型漁船が数隻停泊している。その漁船の上を鴎《かもめ》が鳴きながら回っている。どこででも見受けられそうな平凡な海岸風景だが、沖合には建設途上の人工島が見える。砂を引き入れて埋め立てるクレーンが何本も林立している。そして人工島と海岸を結ぶ海橋の橋桁《はしげた》が等間隔に並び立っている。あと三年ほどすれば、この海岸には未来都市を連想させるような幾何学的な臨空タウンが作られる計画になっている。  この大変容を近い将来に控えた泉佐野市で、伸太と由佳は小端重夫の似顔絵を持ちながら歩き回った。鶴見のときより対象地域が広く、それだけ時間もかかったが、二人は駅に近い四百坪近くはある空き地の前で、米屋を営む主人から�小端重夫を見かけた�という話を聞くことができた。 「三年ほど前だったと思うけど、この男がウロウロして、結局向かいの土地に建っていた十二軒の借家を全部立ち退《の》かせたんや。一人で何ができると、わしはタカをくくっとったが、この男はえぐい奴やった」  米屋の主人は、汚物を見るような視線で小端の似顔絵を眺めた。その眼光は、小端をムカデ男と評した鶴見の住人と共通するものがあった。「一度などは老人を殴りつけたことがあってね。何も抵抗できない六十過ぎの老人をだよ。警察に逮捕されてもうやって来ないかと思ったら、すぐにまた現われてね。その殴られた爺《じい》さんは向かいに建っていた借家の家主さんだったんだけど、今度は何をされるのかとすっかりびびっちゃってね。それまでは借家人の連中も、自治班長の男を中心に抵抗してたんだけど、根負けしてしまったね。自治班長自身が疲れのためだろうけど、自殺してしまってさ。それで余計にガタガタきた感じだね」  米屋の主人は、思い出したくないといった表情で肩を落とした。 「自治班長さんは自殺しはったんでっか?」 「ええ、車の中へ排気ガスを引き込んでね」  由佳と伸太は顔を見合わせた。小端の場合と同じ方法だ。 「あの、すいません」  由佳はあせりを覚えながら、A子の似顔絵を差し出した。「この女の人を御存知ありませんか?」 「あんた、これをどこで?」  米屋の主人は驚いた様子で眼をむいた。 「この人を探しているのです。何という名前の人ですか?」  由佳はごくりと唾《つば》を飲み込んだ。 「根坂嘉乃《ねさかよしの》さんやがな、今言うた自治班長の娘さんや」  似顔絵を持つ由佳の手が震えた。ついにA子の本名を突き止めることができたのだ。 「現在どこに住んでいるか、御存知ですか?」 「いいや。立ち退いたあと、いったいどこに行きはりましたんやろ」  米屋の主人は頼りなさそうに小首をかしげた。 「すんまへん、その自治班長さんの自殺の詳しい模様を知りたいんでっけど」  伸太の方は冷静な表情だった。A子の名前が分かってもさほど嬉《うれ》しそうではない。こうして地道に調べ回っていればいずれは突き止められるものだ、とでも言いたげだ。 「いやあ、わしはあとで人伝《ひとづ》てに、排ガス自殺しはったと聞いただけですさかいに」  米屋の主人は首の後ろに手をやった。「さっき言うてました殴られた爺さんが自殺現場に駆けつけたそうですさかいに、訊《き》いてみはったらどうですか」 「その爺さんの、住所は分かりまっか?」 「ええ、ここから一キロほど東へ行った古い屋敷に一人で住んだはります。今は跡取りもいなくて結構落ちぶれてはりますけど、爺さんの先祖は江戸時代のお侍さんということで、この向かいの広い土地はその先祖が、殿様から戴いた小作地やったそうです」  その爺さんは手原悠蔵《てはらゆうぞう》と言った。  米屋の主人に教えてもらった道順に従って訪ね当てた屋敷は、土塀に数カ所亀裂の入った古い平屋建てだった。いずれ、この泉佐野に空港がオープンして市街化が周辺部に進展したときには、この古い屋敷も地上げの対象になるのではという懸念が由佳の頭をよぎった。 「ごめんやーす」  伸太はグローブのような大きな拳《こぶし》で、冠木門《かぶきもん》の下の木製扉を叩《たた》いた。インターホンは設けられていない。  反応はない。伸太は、もう一度、ガラガラ声を張り上げた。 「手原はーん、いはりまっか?」  ようやく木製扉がほんの少し開《ひら》き、辞典一冊がかろうじて入る程度の隙間《すきま》から手原悠蔵が脅《おび》えた眼だけを覗《のぞ》かせた。 「すんまへん、駅前の米屋はんから聞いて来ましたんや。怪しい者やおませんねん」  伸太は精一杯の柔和な笑顔を作った。  しかし「三年前の立ち退きのときの件で、お訊《き》きしたいことがありますんや」と伸太が続けると、手原はたちまち警戒の色を老いた顔に走らせた。 「あ、あのあたし、根坂嘉乃さんのことについてお話がしたいのです」  由佳は扉の隙間に手を突っ込んで、閉められないようにした。せっかくここまで辿《たど》り着いたのだ。たとえ手を挟まれたって、その痛みくらいは我慢しよう。 「嘉乃さん? ああ、あの子、今どないしとるんじゃ」  手原はこっちが尋ねたいことを、逆に訊いてきた。 「あたし、十日ほど前に嘉乃さんにお会いしたのです」  嘘《うそ》ではない。岡崎美紀の名をかたった根坂嘉乃に、由佳は二度会っていた。 「ほう」  手原は窪んだ眼窩《がんか》に興味の色を浮かべた。由佳はここぞとばかりに扉をぐいと開けた。  着流しの和服姿の小柄な老人がそこに立っていた。頭はすっかり禿《は》げ上がり、皮膚の衰えた頬《ほお》にはしみがぽつぽつと浮かんでいる。 「手原さん、あなたはこの泉佐野に住んでいた頃の嘉乃さんを御存知なんですね?」 「当たり前じゃ。わしゃ、あの子がこんなちっちゃい頃から知っとるぞ」  手原は自分の膝《ひざ》の高さに指を押さえて、その背丈を示した。 「彼女が泉佐野を引っ越して以来、嘉乃さんとは会われていないんですか」 「そうじゃよ。あの妙な男が来てからというもの、わしの持っていた借家十二軒の住人は、みんなバラバラになってしもうた。そのあとの消息は、半分くらいの者についてしか知らん」  手原は、ゆっくりと首を振りながら溜息《ためいき》をついた。かつて家主として持っていた十二軒にかなりの愛着を持っていたように見受けられる。「戦争中でも空襲を免れたのに、新しい空港ができるとかいうことで、えらい目に遭《お》うてしもた」  手原は淋《さび》しそうにフッと笑った。 「嘉乃さんはその一軒に住んでられたのですね?」 「そうじゃよ。彼女のお父さんの晴彦という人はとてもええ人で、借家十二軒の自治班長としてとても良くやってくれた。追い立てのあったときも、彼が中心になって頑張って抵抗してくれた。本当は家主であるわしがもっと抵抗をせないかんかったと、今にして思う。その分、晴彦さんに精神的負担を掛けてしまっていたのやろ。彼は心労から自殺をしてしもうた。そして積み木が崩れるかのように、十二世帯全部が立ち退《の》いてしもた。わしはあの土地を売った代金を各世帯に配ることにした。せめてもの餞別《せんべつ》やと思うてな。とりわけ晴彦さんには多大の迷惑を掛けてしもうたので、一人娘の嘉乃さんには二千万円を渡すことにした」  A子こと根坂嘉乃が能勢の土地を買った千九百七十万円は、おそらくこの二千万円を使ったものなのだろう。「わしは子供も妻もおらん身やさかい、いくら財産を持っていてもあの世までは持って行けへんのや」  手原はようやく、中に二人を通してくれた。  老人の一人暮らしの侘《わび》しさが滲《にじ》み出てきそうなカビ臭い部屋で、由佳と伸太は三年前の経緯を聞き出した。  その概略は次のようなものだった。      *     *     *  関西新空港の建設が始動し出した昭和六十二年、何の前触れもなく小端重夫が手原の前に姿を現わした。 「おたくが、駅の近くに持っている借家十二軒の底地《そこち》を売ってほしい」  手原は、小端重夫の言う底地という言葉の意味など何も理解できなかった。この泉南《せんなん》地方の特産品であるタオルの図案を描く仕事を引退して以来、年金と貸家家賃を頼りに先立った妻の位牌を守りながら質素に暮らしてきた。リューマチの持病もあって、外にも出歩かず、隠居のような閉鎖的な生活を送ってきたのだ。 「手放す気などない」  底地とは、借家の建っている下の土地の所有権を指すということを小端から聞いて、手原は即座に否定した。それでも小端は、こんな一キロも離れたところで老人一人が借家を管理していくのは大変だから、いっそのこと売却してその代金を銀行に預けて利息を受け取った方が有利だと説得した。 「いやいや、あそこには十二軒もの所帯が住んでおるのじゃ。そんな人たちに断りもなく売るわけにはいかん」  手原の父親の代からの借家人もいた。老朽化した平屋建てばかりだが、みんなそれぞれ慎ましやかに生活している。家賃は、一軒あたり月一万円と安いが、一人暮らしの手原にとってはそれで充分だ。 「なあに、私にすべて一任していただいたら、住んでいる人たちの同意は容易に取ってみせますよ」  小端はうそぶくように言ってから、その日は強引に菓子折りを置いて帰った。  それから、小端は毎日のように訪れてきた。言葉遣いは次第に粗野になり、これ見よがしに登山ナイフを携えてくることもあった。  手原は、十二軒の借家の自治班長を務めている根坂晴彦を呼んだ。ちょうど根坂も、手原のところに相談に訪れようと思っていたところだという。小端が十二軒の借家を順番に訪れ、立ち退《の》き料を払ったうえで賃貸マンションを斡旋するから借家権を譲ってほしい、と説得して回っているのだ。 「何とかしなきゃいけません」  根坂は役所へ助けを求めに行こうと考えていると言った。 「あんたに任せよう。わしはとにかく手放す気は全くない」  手原は、小端が姿を現わすようになってから、リューマチの痛みの増した足を擦《さす》った。  根坂は仕事を休んで役所へ出かけた。けれども私人間の権利売買の交渉は自由であり、そこに暴力などの違法性が伴わない以上は行政としては介入はできない、というあいまいな回答しか得られなかった。  小端はさらに激しい攻勢をかけてきた。十二軒の借家のうち、母子家庭や老夫婦といった弱そうな所帯を三軒選んで、ときには脅《おど》し文句を吐き、ときには札束をチラつかせて執拗《しつよう》に迫った。嫌がらせの無言電話が繰り返されたこともあったし、腐った猫の死骸が投げ込まれたこともあった。 「ここで負けてしもたらあかんのです」  根坂は十二軒をまとめて、結束を強めた。小端がやって来たときはすぐに隣家に連絡しあって、十二軒全部の者が出てきて応対する。手みやげの類《たぐい》は絶対に受け取らない。ナイフを見せるなどの脅迫行為があったときは即座に警察に通報する——という三つの原則をみんなで確認し合った。  さすがの小端もその団結には戸惑った様子だった。けれども、彼は諦《あきら》めなかった。今度は所有者である手原に標的を移した。 「あんな老朽化した借家を何軒持っていても仕方ありませんよ。今は財テクの世の中です。土地を売却し、その代金で資産運用をした方がずっと得《とく》なんですよ。今なら、しめて一億円で買いましょう。いや、特別にもう二千万円上乗せしたっていい。考えてもごらんなさい。あなたがこれからどんどん年老いて、いよいよ足腰が立たなくなったときに頼りにできるのは金しかありませんよ。金さえあれば、いたれりつくせりの老人ホームにも入れます。いくら借家を持っていても、低い家賃収入では仕方がありませんや——」  小端は機関銃のように説得を続ける。それが連日続く。 「あの店子《たなこ》の連中とは古いつき合いじゃ。こっちが好き勝手に売るわけにはいかん」  手原は必死で拒み続けた。  手原は、ここで自分が所有権を手放したなら借家人たちがどうなるかは予想できた。小端はいつも、ワゴン車を乗りつけてやって来ていた。荷台には板切れや金槌《かなづち》が見えた。売り渡しを承諾したなら、小端はすぐさま借家人を追い立て、その玄関口に板切れを×形に打ち付けるのだろう。 「店子、店子って言うけど、あなたが本当に足腰が立たなくなったとき、彼らが面倒を見てくれるのですか。一キロも離れたここまで身を運んで、あなたの下《しも》の世話をしてくれるというのですか?」  小端は青筋を浮かべてまくし立てる。「あの借家人連中の本心を知っていますか? 今どき月一万円の家賃なんて、この地方でも絶対にありえない値段なんですよ。彼らはあなたが人の好いことに甘えて、まるで吸血虫のように安い家賃で住み続けていたいだけなんですよ」 「吸血虫はあんたの方じゃ」  手原は膝《ひざ》を抱え、耳を覆った。もはやそうするしか自衛の手立てはなかった。  手原は根坂を呼んで相談した。 「今度、小端の奴が来たときは、私のところに電話してください。全所帯から動員をかけて、こっちに駆けつけます」  根坂は、負けんでくださいと手原に頭を下げた。  そしてその言葉どおり、その翌晩「小端が現われた」と電話をかけると、さっそく根坂は他の借家人を車に乗せて一キロの道をやって来た。車に乗り切れない者は自転車に乗っていたが、みんな必死でペダルを漕《こ》ぎ、ライトを光らせてやって来た。  小端はたじろいだようにワゴン車を発進させて、その日は効果があった。しかし一日置くと、小端は再びねちこく姿を見せた。手原は根坂に連絡した。根坂はまた車を走らせてきた。そんな毎日が、かれこれ二週間も続いた。雨の日も風の日も、根坂は電話一本で駆けつけてくれた。他の住民たちは、仕事や子供の病気を理由に欠けることもあったが、根坂だけは必ず来てくれた。根坂の娘・嘉乃も、大学受験を控えているにもかかわらず、学校に行っている時間を除いていつも姿を見せてくれた。手原は、根坂の実行力と統率力に感謝した。根坂がいなければ、住民はとっくにバラバラになり、手原自身も根負けしていたと思うのだ。  ついに小端は姿を見せなくなった。そして平穏な日々が五日間も続いた。  自分たちは粘り勝った——手原は、込み上げてくる喜びにリューマチの痛みを忘れた。  そんなある朝、手原は小端からの電話でまどろみを破られた。 「貴様、いったい何を考えてんだ。店子《たなこ》がどうのこうのとほざきながら、他の不動産屋にあの土地を売り払っているじゃねえか」  いきなりの罵声《ばせい》に、手原は目を白黒させた。まるで夢の続きを見ているようだ。 「いったい何のことですか?」 「とぼけるなっ。貴様、金剛山興業《こんごうさんこうぎよう》という不動産業者に売っ払ったじゃないか」  手原は耳を疑った。金剛山興業などという業者の名前は聞いたことすらないし、ましてやあの土地を売り放すということはありえない。 「証拠はあるんだ。法務局へ行けばいくらシラを切っても貴様のやったことは分かるんだ。今からそっちへ迎えに行く。出かける用意をしておけ」 「待ってくれ」  何とか時間を稼いで根坂に連絡を取らなくては、と手原は瞬間的に考えた。 「根坂なら、ここにいるぜ」  手原はまたもや自分の耳を疑った。 「根坂です。私は納得できません。ぜひお訊《き》きしたいことがあります」  間違いなく根坂の声だった。根坂はまだ何か続けて言いたそうであったが、すぐに小端が取って代わった。 「これから根坂と一緒に、そっちへ行く。すぐに出かけられるようにしておくんだ」  荒々しくそう命じて、小端は電話を切った。  手原は狐に摘まれたような気分だった。妻の位牌《いはい》が置いてある棚の下の引き出しを開けた。そして、借家の敷地の権利証がそこにしまわれているのを確認した。権利証がここにあるのに、「土地を売った」などと小端は何を言っているのだ? 小端だけでない。こともあろうに根坂までが、「私は納得できません」と不満そうな声で、一緒に電話をかけてきている。あるいは根坂は、ついに万策尽きて小端の方に寝返ったのではないか?  それにしても金剛山興業とはいったい何者なのだ?  ようやく身支度をしたところで、小端のワゴン車が来た。 「さあ、早く乗った乗った。法務局へ行くぜ」  小端は助手席へ引きずり込むようにして、手原を乗せた。車内には根坂の姿は見えない。 「根坂さんは?」 「仕事の急用が入ったもので、あとのことはおれに任せると言って、車に乗って出かけて行ったぜ」  小端はそう説明しながら、ワゴン車を急発進させた。体勢を崩しながら、手原は不安に駆られた。もしかしたら、自分は小端の罠《わな》に陥ったのではないかというおびえに捉《とら》われたのだ。しかし、あの電話での根坂の声は本物に違いなかった。声色をあんなに巧く真似できるものではない。根坂が訊きたいことがあると言ったからこそ、自分もこうして出かける用意をしてきたのだ。 「そんなことより、貴様、こいつを見てみろっ」  小端は、ホッチキスで綴じられた紙を手原の膝《ひざ》の上に乱暴に投げつけた。「あんたが勝手に土地を売った証拠の登記簿謄本だ」 「わしは、土地など売っとらん」  手原は謄本を取り上げた。堅苦しいタイプ字が並んでいる。今まで登記簿謄本を見たことなど、相続のときの一度きりだ。それも司法書士に頼む仕事などは、妻が全部やってくれた。 「土地を売っとらんかどうか、目を皿のようにして見てみろ。貴様から、金剛山興業という不動産業者に、所有権が移転したと書いてあんじゃねえか」  怒鳴りつけながら、小端は後部荷台に積んだ大きな木箱が激しく揺れるほど急にハンドルを切った。手原はダッシュボードに胸を打ってしまった。 「ら、乱暴はやめて下さい」  勇気を振り絞って抗議したあと、手原は登記簿謄本に眼を凝らした。確かに自分の土地が金剛山興業という業者に所有権譲渡したというふうに、この登記は読める。しかも登記の日付は昨日だ。いったい全体これはどういうことなのだ?  小端は、ワゴン車を法務局泉佐野出張所につけた。 「この法務局にある原簿で確認しようや」  小端は荒々しくワゴン車を降りた。手原はやむなくそれに従った。  閲覧した登記簿には、さっきの謄本と同じことが書いてあった。手原は眼を擦りながら、登記簿を見つめた。住所も氏名も、何度見直しても間違いなく自分のものだ。 「しかし、権利証はちゃんとわしの家にある。こいつは何かの間違いじゃ……」  手原は小端に訴えた。こんな不可思議を信じるわけにはいかない。 「いい加減にしろっ。おれに何度も売れと迫られたのが嫌で、さっさとよそに売り飛ばしたんだろ」  小端は大声で怒鳴った。法務局に居合わせた人間がいっせいに注目した。 「そ、そんなことはない。わしは誰にも売る気はない」 「くそ爺め。じゃ、この登記は何なんだ」  小端は真っ赤な顔で手原に殴りかかった。最初のパンチだけで、手原は頬《ほお》を押さえてあえなく床に転がった。その上から馬乗りになった小端は、さらに殴りつける。 「君、やめんかっ」  法務局の職員たちが小端を背中から押さえた。 「このタヌキ爺!」  小端は倒れたままの手原の顔に向かって、唾《つば》を吐きかけた。  駆けつけた制服警官に、小端は連行されていった。  手原はトイレで顔を洗ったあと、警官の簡単な事情聴取に応じた。殴られた頬はまだ少し痛かったが、傷には至っていなかった。  そのあと、法務局の職員に登記簿のことを尋ねた。 「この所有権移転登記の申請は、適式に出されています。不動産登記法は形式的審査主義を採っていますから、われわれとしては書類上の不備がない以上、このような申請がされれば受け付けざるを得ません。しかし、登記が即ち実体関係を忠実に反映するとは限りません……」  職員は説明してくれたが、手原には半分も理解できなかった。  とりあえず家に帰り、根坂と連絡を取ることにした。  しかし根坂は不在だった。電話口に出た娘の嘉乃に、彼が帰宅したら折り返し連絡が欲しい、と頼んだ。  ——根坂です。私は納得できません。ぜひお訊きしたいことがあります。  けさの驚いたような彼の声が、いまだに耳にこびり付いている。  夜になったが連絡はない。苛立《いらだ》ちを覚えたところで、来訪者があった。初老と中年の二人の男だ。ネクタイにスーツ姿だが、眼つきには粘っこい鋭さがあった。  阪南開発会長、社長という名刺を二人は差し出した。 「小端重夫という男が今日は大変なご迷惑をかけたようですね」  白髪《しらが》の会長の方がそう切り出した。「実は小端は、うちの阪南開発で以前に雇っていた男なんですよ。雇っていたといっても社員ではなく、まあ一種の下請けのようなもんですがね。今日、泉州《せんしゆう》警察署の方から身元引取人になるかどうか連絡がありましてね。あわてて行ってみると、あなたに法務局で暴行を働いたということでした。とりあえず、暴行の件、彼に成り代わりまして、お詫《わ》びします」  会長は白髪頭を下げた。 「それで、彼があなたを殴った原因は、あなたが小端の欲しがっていた土地を第三者に売ったということのようですな」  今度は社長の方が口を開いた。 「そのことなら、わしには何の身の覚えもないのじゃ」  けさの小端からの電話に始まって、今日は何度この言葉を繰り返すのだろうか。 「われわれは、彼の持っていた登記簿謄本で確認しました。あなたは、金剛山興業という不動産業者に所有権を譲渡したことになっていますな」  野太い声で、社長は続けた。「あなたはたいへん面倒なことに巻き込まれたと言うべきでしょうな。登記原因は即決和解ということになっています。即決和解というのは起訴前の和解と申しまして、公正証書と同じだけの強制執行力があるのです。これを覆《くつがえ》すのはなかなか大変です」  社長は難しい法律用語を使った。 「どういうことかよく分かりませんが、わしは和解などということをしたことはない。だいいち、金剛山興業などという名前を聞いたこともない」 「あなたが知らないと言っても、それを証明するのは大変です。ですから、ここは私どもにお任せ願えませんか」  社長は両手を揉《も》んだ。 「お任せするとは?」 「小端が絡んだということも何かの縁です。ひとつ私どもにあの土地をお売りください。適切に処理をして、悪いようには致しませんよ。値段も、小端が提示したよりも高く買うことにしましょう」 「いや、しかし……」  何だかわけの分からぬややこしい話になってきたのは確かだが、あの土地を手放したくない気に変わりはない。 「今すぐには、お返事は結構ですよ」  会長が、社長を引き止めるように言った。「今日のところは、われわれはこれで引き取りましょう。どうぞゆっくりご検討ください」  二人が辞去したあと、手原は再び根坂のところに電話をかけた。娘の嘉乃が出て、まだ帰っていないと告げる。  手原は仕方なく、連絡を待った。しかし日付が変わる時刻になっても、電話は鳴らない。ようやく鳴ったと思うと、嘉乃からだった。 「父がまだ帰ってきません」  嘉乃は心配げに声を震わせている。手原の不安も肥大している。しかし何の手掛かりもないのだ。  そしてほとんど眠れぬまま夜が明けた。  また電話が鳴った。嘉乃からだった。涙声で何を言っているのかよく聞き取れない。 「落ち着いて話すんじゃ」  手原は受話器を握り締めた。 「け、警察から、連絡があって……、川の土手に停まった車の中で人が死んでいて……、そのナンバーから、父の車だと」  途切れ途切れにそれだけが聞こえた。手原はリューマチの痛みを覚えながら、老骨に鞭打《むちう》つように立ち上がった。  手原と嘉乃は、パトカーに乗せられて、泉佐野《いずみさの》市と泉南《せんなん》市の境界を流れる樫井川《かしいがわ》に向かった。  早朝ジョギング中の若者が、土手に停まっている根坂の車を見つけた。自動車の排気口から、掃除機に使われる太いホースが車内に伸びていた。若者はハッとして前に回った。中から扉はロックされ、窓という窓は完全に内側からガムテープで目張りされている。運転席の男はリクライニングシートを倒したまま、ぐったりと動こうとしない。若者は、あわてて近くの派出所まで全力で駆け出した。  派出所の警官によって、窓ガラスが割られ、ドアが開けられた。エンジンのスイッチはオンになっている。バッテリーは上がってしまい、ガソリンは空である。ガソリンが切れてエンジンが自然に停止したのだ。警官は車のナンバーを控えて本署の泉州署に連絡を取った。そして泉州署から、嘉乃に電話が入ったのだ。  遺体の確認を求められて、嘉乃は悲鳴を上げて顔を背け、手原に崩れるように抱きついた。間違いなく根坂晴彦だった。着衣などに乱れはなかったが、根坂の表情は苦しげであった。  泉州署の警官たちは、その場で事情聴取を始めた。けれども、嘉乃はほとんど何も答えられない。無理もない、父一人娘一人でずっと育ってきた十八歳の少女には、あまりにも残酷過ぎる衝撃であった。  死体を解剖に回した状態で、根坂の通夜が行われた。その場にも、阪南開発の社長と会長がやって来た。そして十二軒の借家の住民一人一人に挨拶《あいさつ》をした。暴行容疑で逮捕された小端は昨夜のうちに釈放されたということだったが、姿を見せなかった。  通夜の済んだあと、老夫婦の借家人が「立ち退こうと思っているのです」と切り出した。あの小端からの攻勢をしのぐだけでも精一杯だったのに、謎《なぞ》の金剛山興業というところに勝手に売買されていたり、根坂が死んでしまったり、もはや祟《たた》りのようなものさえ感じてしまうと言うのだ。続いて母子家庭の世帯も同調した。「もうすっかり疲れてしまいました。愛着のある場所ですが、何もここだけが住むところではないと思います」と声を落とした。  すっかり疲れたという点では手原も同感であった。もはやこれ以上の渦に巻かれることは、老体にはきつかった。もしも借家人が全員「出て行く」と言うのなら、手放してもよいという気になった。いやむしろ、もう手放したかった。  通夜の翌日、解剖に回されていた根坂晴彦の遺体が帰ってきた。警察では、自殺と判断したということだった。警官から、次のように理由を聞かされた。(1)立ち退き攻勢をめぐってのストレスはピークに達していたらしく、根坂の胃には潰瘍《かいよう》が見られた。(2)解剖の結果、死因は排ガス吸引による一酸化炭素中毒で、毒物の類《たぐい》は検出されなかったし、とりたてて外傷もなかった。(3)車の窓には目張りテープが内側から漏れなくなされ、ドアは中からロックされていた。そして車のキーはハンドル軸に差し込まれたままだった。目張りテープの粘着面には何個所も、根坂の指紋が付着している。(4)敵対関係にあった小端を洗ってみたが、根坂の死亡推定時刻である一昨日の午前中には、彼には鉄壁とも言えるアリバイがあった。すなわち、小端は手原と共に法務局まで行き、そのあと暴行容疑で泉州署まで連行されている。彼が調書を取られ、釈放が許されたのは夜になってからであり、根坂の死亡推定時刻を完全に過ぎている。  団結の核であった根坂を失った十二軒の借家は、次々と花びらが散って行くように一軒また一軒と転居していった。  最後まで残った嘉乃も、ちょうど高校を卒業したこともあって、大阪市内にアパートを借りると言ってきた。嘉乃はまだ父の死が自殺だということが信じられない様子であった。いやむしろ、父の死自体が信じられないようだった、と表現した方がいいかもしれない。手原に事件当日のことを何度も聞き直し、何を思ったのか、阪南開発の会長と社長のアリバイを調べたいと言い出した。手原は事件を担当してくれた警官に、申し出てみた。警官は一笑には付さずに調べてくれた。しかし二人とも、神戸で行われた同業者の会合に出席していたことが分かった。  嘉乃はひどく肩を落としながら、引っ越しの荷物整理をしていた。手原は、自分がもう少し根坂に負担をかけなければ、こんなことにはならなかったのではないかと胸が痛かった。  小端は一度だけ姿を見せた。かつての雇い主という阪南開発の会長に連れられて、おとなしく一軒ずつに頭を下げていった。しかし今さら「手荒なことをしましてすみません」と謝られても、どうなるものでもなかった。  結局手原は、熱心に買受けを申し入れてきた阪南開発に、借家人がいなくなった土地を売り渡すことにした。〈金剛山興業とのトラブルはすべて引き受けて、いっさい手原悠蔵氏には迷惑をかけることはない〉との念書を阪南開発の社長は手渡した。そして売却代金として、一億四千万円を受け取った。小端が最初に言ってきた一億円に比べると、四千万円高く売れたことになる。その代金の中から、手原は�立ち退き料�という形で二千万円を嘉乃に渡し、他の十一軒の店子《たなこ》世帯に各一千万円ずつを渡した。そして自分は残り一千万円を受け取った。  こうして、手原は屋敷に完全に引っ込み、以後隠者同然の独り暮らし生活を送ることになる。店子たちとは、ほとんど会っていない。年賀状をくれる者もいるが、嘉乃からは連絡はない。人伝てに、一年浪人ののち、京都の大学に合格したという話を聞いた程度である。        3 「ねえ、根坂晴彦さんという人の死にかた、あまりにも小端重夫の最期と似ていない?」  手原の家を辞したあとの帰り道を、由佳はゆっくりと歩を進めた。 「似とる。気持ち悪いほど似とる」  伸太は立ち停まって、腕を組んだ。小端重夫の場合は自宅のガレージ、根坂晴彦の場合は川の土手という違いがあるが、共に車の中に排気ガスを引き込んでの死である。ドアをロックし、中からガムテープで完全に目張りしていた点も共通である。 「もしも、両方の事件とも自殺でなくて他殺だとしたら、どうなるかしら? 同じ手口を使ったということは、同一人物の犯行を意味する……」 「かもしれへん。もしくはもう一つの可能性も考えられるのと違うか」 「何なの? もう一つの可能性って」 「いや、まだほんまの思いつきの段階や。だいいち、両方の事件が他殺やという根拠は、まだ何もあらへんで」 「そうね。どちらも疲れ切って自殺を選んだということになっているけど、もっと奥が深そうだわ」  由佳は眉《まゆ》を寄せた。磨《す》りガラスにぶつかって虚《むな》しく羽根を鳴らしながら飛んでいる虫になったような気分だった。ぼんやりとは前が見えてはいるのだが、いくら力を出してみてもなかなか前へは行けないのだ。 「義兄さん、これからどうするの?」 「わいは代書屋や。代書屋はあくまで登記という土俵の上で勝負するしかあらへん」  伸太は鼻水を啜《すす》った。「手原はんはさいぜん、自分の登記を勝手に動かされとったと言うてたやろ。それを確認したいんや」 「和解とかいうことだったわね」  由佳は手原の話を思い出していた。手原はいつの間にか和解をしたことになっていて、登記を動かされていたということだった。「どうして例の住民票を動かす方法を使わなかったのかしら?」 「まあ、とりあえず法務局や」  伸太はそういって歩き始めた。  泉佐野市を管轄する法務局の出張所は、南海電車・泉佐野駅の近くにあった。伸太はそこで、かつて手原が持っていた土地(そこに根坂晴彦たち十二所帯が借家をしていた)の登記簿を閲覧した。  確かに手原悠蔵から金剛山興業への所有権移転登記がなされていた。小端はこれを見て烈火の如く怒り、この法務局出張所で手原に殴りかかったのだ。  登記簿を追っていくと、約一カ月後に、金剛山興業から、阪南開発が買い入れていた。手原が阪南開発に一億四千万円でトラブル付きのまま土地を売却することになり、阪南開発が金剛山興業と話をつけて、買い入れたことに登記上はなっている。  登記簿にはさらに続きがあり、その土地は大都生命という保険会社が買い入れていた。  駅前に近い、この約四百坪の土地は生命保険会社に転売されていたのだ。 「やはり、金余りのとこが結局は手に入れとったというわけや」  伸太はぶ厚い唇を窄《すぼ》めた。「おそらく大都生命は四億円以上の対価を出したんとちゃうか。それでも、関西新空港が完成したあかつきには、四億円を払っても出資のモトは取れるというわけや」  もともとは郊外的要素の強い場所の土地が、新交通手段の開設により一気に地価高騰を見せる点では、鶴見と共通する部分がある。そこに住む人たちが、たとえ値上がりを望んでいるわけではなかったとしても、土地は魔法をかけられたかのように急騰し、格好の獲物として狙《ねら》われてしまうのだ。 「さて、問題の和解の件を調べようやないか」  伸太は、手原悠蔵から金剛山興業への所有権移転登記の付属書類の閲覧を申請した。  由佳はようやくこういった調査のやり方に慣れを覚えてきた。法務局の登記原簿や付属書類には、いろんな事項が記載され、それを一つ一つ辿《たど》ることで少しずつ事実関係が見えてくることに興味を抱き出していた。 「和解というのは、争い合った者同士がお互いに譲歩して争いをやめる約束をする一種の契約とされているんや。この和解には、裁判上の和解と即決和解とがある。裁判上の和解は、訴訟が始まってから、お互いに譲歩をするもんや。それに対して即決和解は、起訴前の和解とも言われ、訴訟とは関係なしに、当事者間で合意が成立した内容を簡易裁判所に持ち込んで、裁判所の関与があったということでそれに判決と同じ効力を与える。本来は、〈争いがありましたが互譲しました〉ということが和解の前提になるはずや。そやけど、実際は当事者間で争いがなくても、この即決和解の制度を使うことがでけるんや」 「争いがなくても?」 「そうや。両者の間に何の争いがなくても、即決和解という形を取ってくれば、裁判所としてはその争いの内容に立ち入ることはあらへん。もうすでに両者の間で裁判所に来る前に円満解決しとるのに、今さらほじくり返す必要はないというこっちゃ。そやから、現実には、判決を得たと同じ効果を安く手に入れることを目的に、争いがほんまはのうてもあったような格好を取って、即決和解が裁判所に持ち込まれることも多いんや。同じような効果を持つ方法としては、公正証書を作る方法があるが、公正証書は土地や家屋の明け渡しについては作ることがでけへんとされている。せやから即決和解は、公正証書の代用的脱法的利用をされていることが少なくないのや」  伸太の説明は完全には理解できなかったが、要するに即決和解という制度が本来の趣旨を越えて悪用されていることがあるということは分かった。住民票にしても登記にしてもこの即決和解にしても、本来の趣旨から逸脱した形で乱用されていることを完全に防ぐことはできないのだろうか? 「石丸さん、お待たせしました」  法務局の職員が、登記申請付属書類の綴《つづ》りをカウンターの上に出してくれた。  伸太は太い指でそれを繰った。 [#挿絵(img/fig16.jpg、横338×縦405)] 「これを裁判所に持ち込んで、即決和解が成立したことになっとる。物件名のあとに裁判所の印が押されとるやろ。こいつが和解調書の正本というやつや」  伸太は簡易裁判所の公印を指差した。「前にも言うたように、法務局は形式的審査しかせえへんよって、この和解調書正本が添付されたらそれで、手原はんから金剛山興業への移転登記を受け付けることになる。即決和解の場合は裁判所が関与しとるだけに、権利証もそれに代わる保証書も印鑑証明書も添付せんでええ、と不動産登記法は定めとる。せやから、前に鶴見で見たような住民票を勝手に移転して印鑑証明書を手に入れて、保証書と共に提出するという方法を使う必要はあらへんのや。けど、手原はんは、こないな和解など全く身に覚えがないと言うとる」 「どういうことなの? 手原さんが何も知らないことをどうして裁判所が認めたの?」 「即決和解の場合は、簡易裁判所に両当事者が出頭して、裁判官の面前で和解内容に間違いないことを申し立てて成立することになっとる。それなのに、手原さんが何も知らへんということは、手原さんの替え玉が裁判所に出頭したと考えるべきや」 「替え玉」 「手原悠蔵役と金剛山興業の代表者役の二人の演じ手がいれば、それで事足りる」 「そんな替え玉が裁判所で通用するの?」  由佳には、裁判所というのはとても厳格なところだというイメージがあった。もっとも法務局という公的機関で扱う登記制度も、それと同じくらい完全で磐石なものだと思っていたが……。 「裁判所を騙《だま》す訴訟詐欺ということもちょくちょくあるんや。裁判所に出頭した人間が�本人�であるかどうかの確認をすることは、現実にはなかなか難しいもんなんや。ちょうど区役所の窓口に来た人間が�本人�と偽って住民票を求めたときに、性別が同じで年齢が近ければまず見抜けへんのと同じや」 「ということは、この場合は手原さんと年格好の似た男性が、手原さんになりすましたということ?」 「そういうこっちゃな。この和解調書では、手原はんと金剛山興業が売買契約をしたものの、その売買価格について当初の口約束と相違するとして争っていたという形が取られとる。売買契約があったこと自体は争点になっておらず、ただ金額について口約束と違うというだけのトラブルとなっている。その金額に関しての折り合いがついて、裁判所に持ち込まれた形や。せやから裁判所にとっては比較的安易な和解ということで、おそらく一回の出頭で済んだと思えるんや」 「手原さんになりすました男って、誰なの、いったい?」  小端は二十代の若さだ。いくら変装しても、六十過ぎの初老男にはなれないだろう。それにこの即決和解というのは、手原役の他に、金剛山興業の代表者役という演じ手がいる。すなわち、事前に意思を疎通した二人の人物が必要なのだ。 「うってつけの初老男と中年男がいるやないか」 「え」  由佳は、それがどの二人を指しているのか即座に分からなかった。 「手原はんの話の中に出てきたやないか。わいら自身も、小端の義兄である酒間和史を梅田新道のメヌエット・ラブに訪ねたときに、一度出くわしとるで」 「じゃあ、阪南開発の会長と社長……」 「おそらくな」  伸太はカウンターに拡げたままの和解調書に目を落とした。「この金剛山興業という会社を洗えば、その推測が補強でけるかもしれへん」 「どうやって洗うの?」 「金剛山興業の登記簿を見るんや。登記簿というても、今までの不動産登記簿と違《ちご》て、商業登記簿というやつや」 「商業登記簿?」 「会社や各種の法人は、その概要を商業登記簿というもんに記載して公示することになっている。例えば、会社の資本金とか役員の名前は商業登記簿を見れば分かるんや」  幸い和解調書に書かれている金剛山興業の所在地である泉佐野市|旭《あさひ》町五番地の商業登記の管轄は、この同じ法務局泉佐野出張所が管轄をしていた。  伸太はさっそく金剛山興業の商業登記簿の閲覧を申請した。 「この会社は、昭和六十三年に解散がなされていますよ」  商業登記担当の職員が、伸太の書いた閲覧申請書を手にして窓口に出てきた。 「解散しとるんでっか、ほなら解散前の登記簿を見たいんですワ」  伸太はそう告げた。職員は黙って頷《うなず》いて、踵《きびす》を返した。 「解散って?」 「もう会社が潰《つぶ》れたということや。けど、潰れたと言うても、倒産したんやのうて自主的に店を畳んだんやと思うで」  その伸太の勘は当たっていた。法務局の職員が差し出してくれた金剛山興業有限会社の商業登記簿の最後のページには「昭和63年2月17日 社員総会特別決議により解散  昭和63年2月24日 清算結了登記」と書かれてあった。 「この社員総会の特別決議というのは、自主解散という意味や」  伸太はそう言いながら、登記簿を繰って左隅に〈役員欄〉と記されたページを開けた。代表取締役として梶松成次、取締役として下賀幹夫の名前があった。 「次は阪南開発の商業登記簿を閲覧しに行こや」  伸太は、珍しく先を急いだ。法務局泉佐野出張所を出た彼は、タクシーを掴《つか》まえた。  阪南開発株式会社は堺市にあり、その管轄は大阪法務局堺支局であった。伸太はそこで、阪南開発の商業登記簿の閲覧を申請した。  阪南開発の方は、解散されていなかった。  伸太はいの一番に〈役員欄〉のページを開けた。代表取締役・梶松成次、取締役・下賀幹夫の名前があった。 「これでどうやら、金剛山興業というのは阪南開発のトンネル会社であることが分かったで」  伸太はパチンと指を鳴らした。  阪南開発の梶松成次と下賀幹夫は、ダミーの会社として金剛山興業という有限会社を作った。そして社長の梶松成次はその金剛山興業の代表として、会長の下賀幹夫が扮《ふん》したニセの手原悠蔵と即決和解を成立させ、裁判所に持ち込んだ。その和解調書正本を使って、手原悠蔵の土地と家屋の所有権を動かしてしまったわけである。 「梶松、下賀の二人と、小端重夫の関係はどうなるの?」  由佳は混乱しそうになる頭の中を整理した。  さっき聞いた手原の話によると、小端は「勝手に手原が金剛山興業と即決和解をして土地や家屋を売ってしまった」と烈火の如く怒った。法務局出張所で、手原を殴りつけたのはそれが原因ということであった。そして小端の元雇い主という触れ込みで阪南開発の社長と会長である梶松と下賀が現われて、手原と小端の間のトラブルの仲裁に乗り出した。  ところがこうして調べてみると、金剛山興業と阪南開発は同一会社といってもよい存在である。 「小端は、下賀たちの密命を帯びて、わざと手原はんとトラブルを起こした、と考えると辻褄《つじつま》が合うんとちゃうか。手原はんとしては、思ってもいない不動産登記が動かされ、小端に怒鳴られ殴られて、ウロがきた。そこへ下賀たちが極めてタイミング良く現われて、高い値段で買い取ろうと言ってくる。下賀たちは小端の身元引受人となって事情を知ったということになっているが、ほんまは既にシナリオが書かれておったんやで」 「卑劣だわ」 「あんなダミー会社をわざわざ作るくらいやから、手原はんの不動産以外にも何件か、同じやり方で血祭りに上げとるかもしれへんな」 「じゃあ、根坂晴彦さんの死はどうなるの?」 「根坂はんは、あの四百坪の土地をどうしても手に入れたい彼らにとって、とても邪魔な存在だった。せやから、消されたという可能性は考えられる」  由佳は背筋に震えを覚えた。何億円、いや何十億円になるかもしれない利益を得るためには、平気で人の命を奪う。土地にはそんな魔力があるようだ。 「じゃあ、小端重夫の死も他殺だとすると、犯人は梶松成次と下賀幹夫の二人じゃないかしら? さっき話したように根坂晴彦と小端重夫は、車の中に排気ガスを引き込むという同じ形で死んでいるのよ。同一手口の同一犯人ということからすると、誰よりも下賀と梶松が怪しいわ。小端は二人にこき使われるのが嫌になって足を洗おうとした。あるいは小端は、下賀たちを脅《おど》そうとしたかもしれないわ。犯行をばらされたくなかったら、もっと分け前を寄こせって。そして、ミイラ取りがミイラになるという恰好《かつこう》で、下賀たちに消されてしまったのよ」  由佳は、自分の推察に少し自信を持った。渋滞していた道路が空いてきて、前が見えてきたような感覚に捉《とら》われた。 「待ってや、それはちょっと早トチリとちゃうか。まず、根坂はんの死に関しては、小端にもそして梶松、下賀にもアリバイがあったということを忘れたらあかん」  手原の話によると、根坂の死亡推定時刻に、小端は手原を殴り、警察に連行されていた。梶松と下賀に関しては神戸での業者集会に出席していた。 「そして小端重夫が死んだ件に関しては、A子とBがわざわざ虚偽の登記を申請したことを忘れたらあかんで」  そもそも、今回の事件の発端は、A子が伸太の前に姿を現わしたことだった。A子が騙《だま》されているのではと思い、彼女のために動き回った伸太が小端の�自殺死体�を発見したのだ。今の由佳の推察では、このA子とBが果たす役割が全く出ていない。 「それに小端重夫についても根坂晴彦に関しても、他殺やという立証をわいらは何もしとらへん」  言われてみれば、すべてが当を得ていた。いったん抜けたと思えた渋滞は、たちまち由佳の前に再び立ち塞《ふさ》がることになった。 「家へ帰って、お好み焼きを腹いっぱいに食べてから、検討のやり直しや」  伸太はグローブのような拳《こぶし》を作って、鼻水を啜《すす》った。        4  エビ入りのミックスお好み焼きを三人前ペロリと平らげた伸太は、座布団を二つ折りにして枕代わりに寝そべった。眼は閉じていないが、気軽に話し掛けられる雰囲気ではない。重タンクのような体を横にしながらも、彼の頭はしきりに思考を回転させている様子であった。  由佳は、黙って立ち上がり、一階へ降りて、皿とお好み焼き用のヘラを洗った。洗い場といっても、駅のトイレの手洗いに毛の生えたようなものである。水道の蛇口は、由佳の力では完全に締まってくれない代物《しろもの》である。トレンディな生活に憧《あこが》れていた由佳にとっては、あまりにも爺《じじ》むさい実家である。由佳が住んでいたときよりも、さらに古びている。 (だけど、とても人間臭い温かみを感じるわ)  それは由佳の実家だけでなく、通天閣界隈《つうてんかくかいわい》の家々にも当てはまる。平成の現代日本から取り残されたような、薄汚れたレトロの�まち�には、昔ながらの人情もふれあいも潤いもまだまだ息づいている。醜男でありながら熱き心を持ったブーやんは、この�まち�の典型的人間と言えるかもしれない。 (もしかして、あたし、あのブーやんと一緒に居るのが楽しいから、東京へ帰らないのかしら?)  ふと、そんな思いが湧き起こった。義兄《にい》さんと呼んではいるが、父の先妻の連れ子であった伸太と自分の間には血の繋《つな》がりは何もなく、恋愛するのも結婚するのも障害はない。 (まさかよりによって、あんな豚と象を足して二で割ったような男と……)  由佳は首を振って打ち消そうとした。由佳の好みは、この大阪へ来る途中の環状線のホームで偶然出会った河合のような長身のハンサムガイである。自分よりも背の低い恋人では腕を組んでも様にならない。 (このままの中途半端な状態で事件から降りちゃうのが嫌だから、まだ大阪に居るのだわ)  由佳はそう答えを引き出すことで、無理やり自分を納得させようとした。そして皿を片付けて、二階へ上がった。  伸太はいつの間にか机に向かっていた。その机の上には、一台のプラモデルのミニカーが置かれている。 「わいが中学校のときに買ってもらったんや。親父が、由佳ちゃんと由佳ちゃんのおふくろさんを連れて新幹線を見に行ったとき、留守番役のわいが独りぼっちでは淋《さび》しいやろと、与えてくれたんや。親父に買ってもろた物なんて数えるほどしかあらへんよって、大事に押し入れに残しておいた。それがこんなときに使えるとは全然思わなんだワ」  父の周平は、母に疎《うと》まれていた伸太をそっと気遣っていたのだ。 「小端重夫も根坂晴彦も共に、ガムテープで完全に目張りされた車の中の排ガス死や」  伸太は立ち上がって押し入れの中をゴソゴソ探したかと思うと、大工道具箱を取り出してきた。そして腰を降ろし、電気コードの絶縁などに使うビニールテープをプラモデルのミニカーの窓に内側から張っていった。太い指からは想像もできないほどの器用さだ。「窓という窓に全部完全に内側から目張りをするとなると、ドアを閉めて中から作業をせんと無理や。そやさかいに、車の中に居る人間やないとでけへん、という自殺説の根拠は確かになるほどと思うんや」  伸太はミニカーの運転席に大工道具箱から取り出した小型ドライバーを置いて人間に見立てた。運転手という意味のドライバーのシャレのつもりだろうか。 「けど、わいが腑《ふ》に落ちんのは、小端重夫の死体の爪《つめ》や。わいらが彼の死体を発見したときに、彼の手の爪が剥《は》がれんばかりにめくれ上がって血が滲《にじ》んどったことを憶《おぼ》えとるやろ」 「ええ、痛々しいくらいだったわ」 「わいには、あの爪のことが、案外と大事なポイントのように思えるんや」  伸太は大工道具箱から錐《きり》を取り出して、ミニカーの後部座席の窓に小さな穴を開けた。それから彼は針金を適当な長さに切って、その一端を排気口にビニールテープで止め、もう一端を窓に開けた穴から通して車内に入れたあと、穴を内側からビニールテープで塞《ふさ》いだ。 「どや、これで排気ガスの充満した密室のでき上がりや」  伸太は太い指をミニカーから離して、小さな眼でじっと眺めた。「中に車のキーが置かれてあって、ドアが閉まっていたという点だけでは�密室�とは言えへん。オートロック式やさかいに、ドアをバタンと閉じたらそれで外からは開かへんようになるさかいな。問題は内側からの目張りや」  伸太が作った作品(?)も、前部ドアの片側にビニールテープが完全に貼れていないままだ。 「義兄《にい》さん。ドアを閉めた途端にガムテープがガラスにピタッとくっつくように細工してあった、という可能性はないかしら?」 「そんな手品みたいな貼り方はあらへんで」  そう言いながらも、伸太はミニカーを使って実験を試みた。しかし何度やってみても、ビニールテープには浮きができてしまう。その浮きは、車の内側からでないと窓に密着させようがない。 「もしかして、シートの下に人間が這《は》い出ることのできる穴が開いていた、ということってないかしら?」 「そないなことになってたら、警察が検証で見逃すはずがあらへんがな」 「じゃあ、何らかの方法で運転席の人間を騙《だま》して、中から目張りテープを張らせたってことは?」 「そんなことをホイホイ聞く人間なんておらへんで。仮にそれができたとしても、そのあと排気ガスが入ってきたら、黙って運転席にじっと座っとるわけがあらへん」 「そうね」  由佳は思いつきの連発をやめて、押し黙った。この車を使って排気ガスによる殺人をなそうと思えば、二つの関門を突破する必要がありそうだ。まず、中から目張りを完全にすること、そして次に、運転席の人間の抵抗なく排気ガスを送り続けることだ。 「義兄さん。これビニールテープじゃなくって、ガムテープでやってみない?」  由佳は、あくまで写実的なミニカー作りを提案した。 「そないしようか」  伸太は素直に従ってガムテープを細く切り、ビニールテープと取り替えた。それでドアを何度か動かしてみたが、結果は同じだった。窓とガムテープとの間に、浮きができてしまい、完全な目張りとはならない。 「義兄さん、この針金というのも良くないわ。ホースを使うべきよ」  由佳はまたクレームをつけた。なかなか外れてくれない知恵の輪を前にして、少し苛立《いらだ》っているのだろうか。 「けど、ホースと言うても、ミニカーにつり合う太さのもんはあらへんしな」  小端のときは洗濯機の排水ホース、根坂のときは掃除機に使うホースが使われていた。どちらも家庭電気製品の部品が使用されていたというのも奇妙な一致だ。 「ストローでいいじゃないの」  由佳は立ち上がって、さっき皿を片付けた一階の棚からストローを一本持ってきた。 「ここまでリアルにやるんやったら、排気ガスも作らんとあかんな」  伸太は冗談を言いながら、針金を外してその代わりにストローを嵌《は》めようとした。だが、ストローをカーブさせるのはとても難しい。少し力を入れたら、たちまち途中でペコンと折れが入ってしまう。 「ファミリーレストランでよく出てくるストローみたいに、途中にジャバラの部分があったら、うまく曲がってくれるのにね」  由佳はそう喋《しやべ》りながら、小端のときの洗濯機用排水ホースも、根坂のときの掃除機用のホースも共にジャバラ状になっていることに気づいた。曲がり易さという点から、それらが排気口との繋《つな》ぎ役に使われたのだろうか。 「あかんな、巧いことカーブしよらへん」  見かけによらず手先の器用な伸太も、とうとう音《ね》を上げた。ストローは、くの字型に曲がってしまった。 「義兄さん、針金を芯に入れてみたら?」  由佳は、さっきまでホースの代役だった針金を指で摘んだ。 「せやな」  伸太は頷《うなず》いてそれを実行した。排気口からストローをはずし、そこから針金を通した。  果たして、針金という骨の入ったストローは巧く曲がってくれた。 「こいつは実用新案が取れそうなアイデアやで」  伸太は、おもしろそうに針金の通ったストローを弄《いじ》った。  遊んでいる場合じゃないわよ、と小言を口に出そうとした由佳は、思わず「あっ」と声を上げた。 「義兄さん、この骨代わりの針金って、自由に動くじゃない」  由佳は、伸太の手の上からストローを掴《つか》んだ。二人の手が触れ合った。 「それがどないしたんや」 「ほら。ストローの中の針金は、こうして引いたり押したりできるのよ。うんと先の方まで押し出したなら、針金は車内を通って、向こうの窓ガラスまで届くじゃない」  ストローは排気口側がはずされ、窓をくり抜いた側がガムテープで留められたままの状態だ。由佳は、排気口側の端からストローに通された針金をぐいぐい先へ押し伸ばした。すると針金は、くり抜いた窓から、後部座席のシートの上を通過して、反対側のドアの窓ガラスまで到達した。  由佳はその針金を動かして、反対側のドアの窓ガラスを目張りしているガムテープを上からなぞった。浮きを作っていたガムテープは、その作業によってぴったりとガラスに付着した。 「そうか。この方法を使えば、内部から目張りをしたと同じ状態を作出でけるわけや」  伸太は、感心したように指を鳴らした。 「ホースというのは、排気ガスを通すだけじゃなくって、棒のようなものも中に入れることができるということに、もっと早く気づくべきだったわ。掃除機用のホースにしても、洗濯機用のホースにしても、棒を入れるだけの太さは充分にあるし、棒を動かしてもホースにその痕跡《こんせき》は残らないわけよ」  由佳は頭の中を整理しながら、次のように纏《まと》めた。「犯人は、車の内側からすべてのドアの窓に目張りのガムテープを貼ったのだわ。ただし、この棒を伸ばせば届くドアの部分だけはガムテープをガラスに密着させないでおくのよ。そして、そのドアから外へ出た犯人は、ホースの中の棒を動かして、ドアのガムテープの浮きを直し、さも内側から完全に密閉されたような状態を作り出す。そのあとホースから棒を抜き、ホースの端を車の排気口に繋《つな》ぐ——それで、車の中の密室状態という舞台装置は完成するわ」 「ガムテープに被害者の指紋が付着しとったという点はどないや」  伸太はそう訊《き》いてきた。確かに小端重夫の死に関して、万藤刑事はガムテープには小端の指紋があちこち付いていたといっていた。 「指紋というのは、指の汗と皮脂の成分だということを雑誌で読んだことがあるわ。だからもし被害者が抵抗不能の状態なら、その指紋をガムテープに付着させることは可能だわ。とくにガムテープの粘着面なんて、いくらでも指紋が取れるのじゃないかしら」 「となると、被害者は抵抗不能の状態になっていたということが由佳ちゃんの推説の前提になるわけやけど、どないしてそういう状態を作り出すんや。解剖の結果、睡眠薬や毒物の類《たぐい》は発見されへんかったはずやで」 「そこで注目すべきなのが、指の爪《つめ》が剥《は》がれていたという点よ。睡眠薬や毒物を使わなくても、エーテルとかクロロホルムとか、人間の気を失わせることのできるものはいくらでもあるわ」 「エーテルやクロロホルムと、爪の剥がれとは何の関係があるのや?」 「義兄《にい》さんがもしも、エーテルとかクロロホルムを突然|嗅《か》がされたとしたら、どうする?」  由佳は逆に伸太に尋ねた。 「どうするって、そらあ」  伸太は考え込んだ。「苦しいに決まっているワな」 「苦しいどころじゃないと思うわ」  由佳はいきなり、伸太の背後から彼の低い鼻をぐいと押えた。 「おいおい」  伸太はあわてて腕を伸ばした。その手がミニカーに当たって、ミニカーが横転した。 「こんな程度じゃないわ」  由佳は伸太の鼻を押え付けたまま、かぶりを振った。爪が剥がれたということは何か狭いところに閉じ込められて、そこから何とか脱出しようとしてもがいたという印象を受けるのだ。 「義兄さん」  ようやく由佳は、伸太の低い鼻から手を離した。「根坂晴彦さんが死んだ日に、小端重夫にはアリバイがあったんだわね」 「そうやで。いきなり何をやるかと思たら、今度は何を言い出すんや」  伸太は少し苦しげに息をついた。  根坂晴彦の死亡推定時刻に、小端は手原と法務局出張所へ行き、手原を殴りつけて警察に連行されるという、鉄壁と表現してもいいアリバイがあったのだ。それを根拠に、小端が根坂を殺害した可能性は否定された。 「小端重夫は手原さんを怒鳴りつけて、半ば無理やり法務局へ連れて行った様子だったけど、そのときの小端の車って何だったかしら?」 「えーっと、確かワゴン車やった」 「ワゴン車って後ろの座席部分に広い荷台の付いた車でしょ」 「さいな」 「その荷台に箱が乗っていたらどうかしら。気を失った根坂晴彦さんを中に閉じ込めて、排気口からホースを繋いだ箱が乗っていたとしたら?」  由佳は手原の話を反芻《はんすう》した。  小端のワゴン車に乗った手原は、彼の乱暴な運転に閉口したと話していた。�後部荷台に積んだ大きな木箱が激しく揺れるほどの荒いハンドルさばきに、ダッシュボードに胸を打ちつけてしまった�とも言っていた。あるいは小端は、手原に後部座席の木箱の中身を悟られないようにわざと派手な運転をしたのかもしれない。 「せやけど、小端が逮捕された時点で、そのワゴン車の荷台は、警察に調べられとるんやないか」 「彼が、警察に捕まったのは、手原悠蔵に対する単純暴行の現行犯よ。そんなことでワゴン車の中まで調べないわよ」 「それもせやな」  伸太は相槌《あいづち》を打った。  もし由佳の仮説が正しいとなると、小端はワゴン車に積んだ木箱の中に失神した根坂を入れて走り回り、その排気ガスで根坂を一酸化炭素中毒死させたことになる。暴行容疑での取調べが終わり、警察署から保釈された小端はそのあとゆっくりとワゴン車を運転して、樫井川まで行き、そこで根坂の車の運転席に遺体を移し替え、ホースの中の棒を使ってガムテープの密閉した状態を作出した。——それで、自殺に見せかけた他殺の図式はでき上がる。 「せやけど、なんで根坂晴彦がすんなりとそんな箱に入ったんや。根坂は、地上げをめぐって小端と対立していたはずやがな」  伸太は完全に納得したわけではないという表情を見せた。 「そこなのよね。誰もホイホイとそんな箱の中には入らないわ。でももし、隠れてこっそりとする必要があるって、言いくるめられたらどうかしら。例えば、手原さんがやったことになっている即決和解の登記簿謄本を見せて、『あんたの家主である手原は、こんな姑息《こそく》な手で金剛山興業というところに土地を売り飛ばしているぞ』と小端が告げるとするわ。根坂さんとしては、小端の言葉だけなら信じないにしても、現実の登記簿謄本を見せられたら半信半疑の状態になるでしょ。そこで『おれはこれから確かめに行く。あんたはワゴン車の荷台の箱に隠れて、手原の野郎の言葉をテープに録音して証拠を取ってくれ』とでもそそのかされたなら、登記簿謄本を見せつけられて手原の裏切りの懸念に動揺しているだけに、小端の策略を見抜けないのじゃないかしら」  手原は、あの朝、小端からいきなり「どうして、金剛山興業という業者に売っ払ったんだ」と電話で怒鳴りつけられた。その電話口に根坂が出て、「私は納得できません。ぜひお訊《き》きしたいことがあります」と抗議した。——そのとき、根坂は所有権の移転した記載のある登記簿謄本を見せつけられていた可能性は十二分にある。 「一般人の登記への信頼を利用しやがって」  伸太は拳《こぶし》を作って、机を叩《たた》いた。「世間の人々はたいてい、登記というものは正確な実体関係が反映しとると思っているんや。即決和解の登記簿謄本を見た根坂晴彦は、驚いて、それとは知らずに真相を確かめる気になったのやろ。もはやその時点で、手原よりも登記簿謄本の方を信じていたのかもしれへん」 「根坂さんは、ワゴン車の木箱の中へ入ったあと、エーテルとかクロロホルムの類《たぐい》の薬品を送り込まれたのよ。狭い木箱の中に閉じ込められてしまえば、何をされてもまず抵抗できるものではないわ。根坂さんは木箱の中で失神し、そのあとから排気ガスをどんどん送られて、一酸化炭素中毒死してしまったのよ」  由佳は説明しながら、目頭を押えた。手原が乗ったときのワゴン車の後部荷台で、根坂はまさに棺の中にいたのだ。疾走するライトバンの排気ガスをどんどん送り込まれながら息絶えていったのだ。 「可哀想《かわいそう》に……」  伸太は畳の上に転がったミニカーを拾い上げた。  金剛山興業の名を使って成した即決和解に基づく登記は、一石二鳥の効果を持ったことになる。一方では、手原を呼び出して法務局出張所で殴りつける理由を作り、他方では根坂を騙《だま》して棺の中に潜り込ませる道具立てとして使われたのだ。もちろん小端の背後には、暴行現行犯で連行された彼の身元を引き受けた阪南開発の社長と会長がいたのだろう。あるいはあの二人は、小端の根坂殺害行為に加担しているかもしれない。例えば、根坂の車を樫井川の堤防まで運んだり、ガムテープの目張りの際に目撃者が通りかからないように見張ったりしたかもしれない。 「そして、その小端重夫が今度は同じような形で、BMWの中での一酸化炭素中毒死を遂げたのよ」  由佳は呟《つぶや》くように言った。 「由佳ちゃん、あんたはこの二つの事件が同一手口だけに、同一犯人の仕業やないかと言うとったな」 「ええ、でもちょっと今その考えに自信が持てなくなってきたわ。だって、第一の事件で根坂晴彦の殺害に関しては、実行の中心的役割を担ったはずの小端重夫が、第二の事件では逆に殺されているのよ。つまり第一の事件の加害者が、第二の事件の被害者よ」 「ほなら第二の事件の動機はどないなる? 同一犯人でないのに、わざわざ同じ手口でやられとるのは何でやねん?」 「仕返しということかしら。やられた側が同じ方法で報復する……」 「わいもそう思う。そもそも今回わいらが関わりを持ったんは、岡崎美紀の名をかたったA子はんが現われたことから始まったんやった。A子はんが小端に騙《だま》されたように思え、小端を追い詰めようとしたところで小端が死んでしもうた。ところが、そのA子はんは、由佳ちゃんの似顔絵のお蔭《かげ》でどうやら根坂晴彦の一人娘の嘉乃はんやということが分かった。第一の事件と第二の事件はちゃんと結びついとるやないか」 「じゃあ、A子さん、つまり嘉乃さんが報復として小端を殺害したということ……そんなこと信じたくないわ」 「わいかて信じとうはない。手原悠蔵の屋敷を訪れた帰り道、わいはもう一つの可能性があるはずやと言って口をつぐんだやろ。わいはそれ以上、嘉乃はんの復讐《ふくしゆう》説を考えとうなかったんや。けど、こうして車の外から目張りを作り上げてしまう方法が分かった以上、もはや根坂嘉乃はんに対する疑惑は動かしようがあらへん」 「でも、もし仮に嘉乃さんが小端を殺害したとして、いったいどうやって、あの小端を呼び出したのよ。小端は自ら同じ方法で根坂晴彦を殺した男よ。そう簡単に罠《わな》に嵌《は》まるとは思えないわ」 「けど、餌《えさ》がおいしかったら、うっかり罠に入るということはあるやろ」 「餌?」 「小端重夫が鶴見の土地を狙《ねら》っていたということを思い出すんや」  そう言うなり、伸太は立ち上がった。 「どこへ行くの?」 「わいは代書屋や。どこまでも、登記で勝負するしかあらへん。鶴見の登記簿をもういっぺんあたってみるんや。その前にちょっと酒間和史の家に寄ってみよと思とる」  酒間和史は、新世界から自転車で十分ほどの天王寺《てんのうじ》区|下寺《しもでら》三丁目に住んでいた。その住所は、前に伸太と由佳が閲覧した登記申請書に出ていた。 「酒間はわいのところへ手付金を返しに来たとき、ワゴン車に乗ってきたがな。あれはもしかしたら、小端重夫が譲ったものかもしれへん」  由佳を荷台に乗せて、伸太はペダルを漕《こ》いだ。自転車は伸太の重量に時々|軋《きし》みを上げながらも、忠実に前に進んだ。 「さすがの小端も、殺人に使ったワゴン車を乗り続けるのは嫌だったのかしら?」 「あるいは下手に中古車として市場に回すよりも、身内に譲った方が安全やと踏んだのかもしれへん。何も知らん酒間に使うだけ使わせてから、スクラップ処分にしよと思てたのとちゃうか。それが一番怪しまれへんやり方やろ」  伸太はペダルを漕ぐピッチを上げた。「いずれにしろ、小端が犯行に使用したワゴン車かどうか、調べてみる値打ちはありそうやで」  酒間はメヌエット・ラブへ出勤する時刻だったようで、身支度を整えてちょうど玄関先に出てきたところだった。 「すんまへん。出かけはる前に、ちょっとワゴン車を見せとくなはれ」  伸太のあわてた言い方に、酒間は「私は店へは電車で行きますが」と首を捻《ひね》った。 「あんたが電車で行こうと行くまいと、ワゴン車が見たいんですワ」  日本語文法に適《かな》っていないような伸太の言葉であったが、酒間はすぐ近くの貸ガレージへ案内してくれた。  由佳も一度見たことのある平凡な白い色のワゴン車が、貸ガレージの隅っこに停まっていた。 「あれはもしかしたら、小端はんから譲ってもらわはったんでっか?」 「ええ」  酒間はどうして分かるのだ、と驚いた眼をした。 「いつごろ、もらわはったんでっか?」 「三年ほど前ですね。そろそろ廃棄にしたらどうだ、と義弟は言っていました」  やはり伸太の直感は当たっていた。 「少し調べまっけど、堪忍しとくなはれ」  伸太はいつ用意してきたのか、懐中電灯をポケットから取り出した。そして地面に伏して、ワゴン車の底を覗《のぞ》き込んだ。巨体のため、潜り込むというわけにはいかない。 「マフラーが比較的新しいでっけど、譲り受けてから取り替えはったんでっか?」 「いいえ、もらったときのままです。私は、車というものは動きさえすればいいと思っているくらいで、あまり興味はないんです」  しばらく懐中電灯であちこち照らしたあと、伸太はジーパンに付いた埃《ほこり》を払おうともせず、むっくりと起き上がった。もっとも、払ったところで汚れは変わらないだろう。 「お出かけのところ、えらいすんまへんでしたな」  伸太は笑って見せた。 「私のワゴン車が何か?」 「いえ、義弟はんのことでほんのちょっぴり、調べたいことがおましたんや。けど、もうよろしおます」 「はあ……」  酒間は怪訝《けげん》そうな顔をした。 「いずれ時期が来たらお話ししますよって、今日のところは、どうぞ仕事に行っとくなはれ。時間があんましおまへんのやろ」 「ええ」  酒間は腕時計を見ながら、軽く頷《うなず》いた。 「やっぱし、由佳ちゃんが推理したとおりの方法で、小端は根坂晴彦はんを排ガス死させたんや」  酒間が駅に向かって急ぎ足でどんどん歩いていく後ろ姿を見送りながら、伸太は呟《つぶや》くように言った。「マフラーは取り替えられていたし、荷台の下にあたる部分にはパテで固められていたけど、これくらいの穴が開けられた痕《あと》があった」  伸太は指で直径五センチほどの円を作った。 「アリバイを作るために、小端は、根坂を木箱に入れたまま、手原を助手席に乗せて泉佐野の市内をワゴン車で走る必要があった。せやから、車のケツの排気口からホースを伸ばして車内に引き入れたなら、ホースがえらい目立ってしまいよる。そこで人目につかんように、荷台の床に穴を開けて、車の底の排気管と木箱をホースで繋《つな》いだんや」  由佳は吐息をついた。由佳のすぐ横に停まっているどこにでもありそうなワゴン車は、根坂晴彦を殺害する凶器として、そして走る棺として使われたのだ。        5 「やっぱり根坂嘉乃さんを追い詰めるの?」  翌朝、由佳は気の進まないまま、伸太の自転車の荷台に乗って大阪法務局本局へ向かっていた。 「わいは追い詰めとる気はあらへんで」  伸太の漕《こ》ぐ自転車はナンバの街に近づいた。 「A子さん、じゃなかった、嘉乃さんの所在なんて分かりっこないじゃないの?」  由佳は希望を込めて訊《き》いた。ここまで推理を進めたものの、できればもう彼女のことをそっとしておいてあげたかった。嘉乃がもし小端重夫を殺害したのなら、確かに犯罪行為には違いない。けれども三年前に彼女が受けた仕打ちに比べたら、それは小さなものではないだろうか。  嘉乃は、強引な地上げという悪と戦っていた父を狡猾《こうかつ》な手段で殺され、生まれ育った土地を追い出されてしまったのだ。手原の好意による立ち退き料があったから経済的にはさほど苦しまずに済んだかもしれないが、大学受験を控えた十八歳の少女にとってたった一人の父親である晴彦の突然の他界は、精神的に大きな負担になったに違いない。それがしかも自殺として処理されただけに、嘉乃としては自らの報復感情を誰にもぶつけられないままなのだ。  もし嘉乃が直接的な報復手段に出ずに、警察に「父は他殺で、その犯人は小端重夫だ」と訴えたとしても、取りあってもらえただろうか。警察がいったん判断した自殺の結論を、そうおいそれと覆《くつがえ》して、事件の真相究明に乗り出してくれただろうか。 (あたしだって、そんなやられっぱなしはたまらないわ)  同年代の女性というせいもあろうが、由佳には嘉乃の気持ちがよく分かる気がするのだ。由佳の母親は交通事故死だったが、その母が数え切れないほどの愚痴を繰り返していただけで、由佳は父・周平のことをあれだけ毛嫌いしていたのだ。 (あたしたちは警察官じゃないのだから、ときには犯罪を見逃しても許されるのじゃないかしら。この場合、誰よりも非難されるべきは小端重夫だわ)  由佳は、不条理を感じていた。もし自分たちが事件を明るみに出せば、嘉乃はたちまち殺人容疑者ということになってしまうのだろう。新聞やテレビには、容疑者として彼女の端正な顔が出るに違いない。 「由佳ちゃんは、このまま見逃した方がええと言うんか……」  自転車は道頓堀川《どうとんぼりがわ》を渡った。スピードが上がる。  伸太は道頓堀川に視線を向けた。 「この川は、公害列島と言われた昭和四十年代の泥のような水と比べたらずいぶんきれいになった。せやけど、わいらが子供の頃は、魚がなんぼでも釣れたし、底の藻がよう見えたもんや。いったん汚れてしもたら、なかなか元の清流に戻るのは大変なんや。今も魚が住んどるかどうかはあやしいで」  伸太は、鈍《にび》色に淀んだ朝の道頓堀川を見ながら続けた。「人間の人生も、似たことが言えるんとちゃうか。いったん汚点を持ってしまうと、なかなかみそげるものではあらへん。おっと」  赤信号に気づいた伸太は、ブレーキをかけた。由佳はあわてて伸太の太鼓腹にしがみついた。急に体勢を変えたために、由佳の腰に痛みが走る。  由佳とバレーボールの関わりは、今伸太が言ったことが当てはまるかもしれない。あれだけバレーボールに青春を賭けながら、結果的には腰と膝を痛めて二十一歳で引退を余儀なくされてしまった。そのあと、由佳はデザインという次の進む方向を決めたものの、いまだにフリーアルバイターという立場に甘んじている。その気になれば、デザインの勉強を始められるはずなのに、なかなかそれに取りかかっていない。バレーボールに賭けた青春の夭折《ようせつ》という汚点を、結局のところ自力では拭い去れないでいるのだ。 「嘉乃はんは、あの若さで大変な重荷を背負ってしまったことになる。事情がどうであれ、小端がどないな男であれ、人間一人をあやめてしまったという事実は、腹の中に針を千本飲み込んだ以上にチクチクと彼女の心を痛め続けるに違いないんや。その針を、誰かが取ってやらんといかんのとちゃうか?」  伸太は、ぶ厚い唇を真一文字に結んだ。信号が青になり、伸太は自転車を発進させた。 「嘉乃はんの居所を探す手掛かりは、皆無ではないと思うんや」  伸太は、ペダルを漕《こ》ぐピッチを上げた。 「あたしの所在を調べるときに使った戸籍の附票《ふひよう》を見るの?」  東京に居た由佳は、突然届いた伸太からの速達に驚いた。大阪へ来た日にそのことを質《ただ》すと、戸籍の附票を辿《たど》れば住所の移転の様子が分かるということだった。 「戸籍の附票というのは、登録者が住民票を真面目に動かしている場合に、そいつを辿ることが可能なんや。根坂嘉乃の場合、現在の住所を正確に住民票に反映させとるとは思えんのや。岡崎美紀の名をかたり、犯罪を行ったあと行方をくらました者《もん》がバカ正直に、潜伏先を役所に届け出ているとは考え難いよってな」 「じゃあ、嘉乃さんの居所を探す手掛かりは?」 「一つは、本物の岡崎美紀はんを洗うことや。ソバカス女子大生の彼女は、嘉乃はんに名前を貸す形となった」 「ちょっと待って。あたしたち、本物の美紀さんに会ったけど、とても彼女が嘉乃さんの仲間とは思えなかったわ」  美紀は学究タイプの大学生で、勝手に氏名を使われたことに目を白黒させていた。 「わいも、本物の美紀はんは、根坂嘉乃とは一面識もないと思う。けど、氏名を使った根坂嘉乃の立場になってほしいんや。由佳ちゃんがもし根坂嘉乃やとして、まったく正体の分からん女の子を無作為に選んでその人になりすますことがでけるか? あんときのことをよう思い出してほしいんや。根坂嘉乃は岡崎美紀に扮《ふん》し、住民票を移転させて電話を開設したうえで、わいの前に現われとるんや。それから少なくとも小端が死ぬまで、根坂嘉乃はずっと岡崎美紀である必要があったんやで。その間に、もし本物の岡崎美紀が自分の住民票を動かされていることに気づいたら面倒なことになる。せやから、標的として岡崎美紀が独り暮らしで学究タイプの女子大生やということくらいは、知っとったんとちゃうか。それに彼女の正確な住所が分からんことには、転居届を書くことも難しい」  そう言われてみれば、なるほどとも思えてくる。根坂嘉乃が美紀になりすますのは、この計画の基礎の基礎だ。ここで躓《つまず》いては何にもならない。 「もし由佳ちゃんやったら、どないな人間の氏名を借りる?」 「そうね、友だちじゃ顔を知られているし、うーん例えばアルバイト先の従業員名簿でもあればそれを使うかな。あ、待って。手原さんの話だと、嘉乃さんは浪人したあと大学に合格したということだったわ。本物の美紀さんもやはり大学生だったから、同じ大学ということはないかしら。学生同士なら、名簿もあるだろうし、どんな女の子か知人を通じてそれとなく情報を手に入れることも可能でしょ」 「そうは単純にはいかんのんとちゃうか。手原はんは、『根坂嘉乃は京都の大学へ行ったと聞いた』と言っていたけど、本物の岡崎美紀はんは浪速《なにわ》大学の学生ということで、大学が違うやないか」 「そうだったわね」  体に似合わず、伸太は細かいことを記憶している。 「けど、由佳ちゃんの指摘は当たらずと言えども遠からずやと思う。根坂嘉乃には協力者がいて、その協力者から得たデータを元に、岡崎美紀を狙《ねら》いに定めたんやと思う」 「協力者って」 「Bという男がいたやないか」  うかつにも、由佳はBのことをすっかり頭の片隅に追い遣っていた。一時は、このBこそが事件の仕掛け人と思ったのだが……。 「根坂嘉乃の所在を突きとめる二つめの手掛かりは、そのBや。わいの想像ではBは、根坂嘉乃がかなり信頼を置いとる人物やと思う。そやないと、おいそれと殺害行為の共犯者として選ばへんやろ。例えば、嘉乃はんの兄弟とか」 「でも、彼女には兄弟はいなかったわ」 「せやったな。ほなら恋人か。けど、単なる恋人とは思えへんな」 「どういう意味?」 「単に好きになったという関係だけで、殺人の片棒を担ぐもんやろか? たとえ根坂嘉乃にとって小端重夫は蛇蝎《だかつ》の如く忌み嫌う悪人であったとしても、Bにとっては単なる地上げ屋というだけやったら、なかなか共犯者にはなれへんもんやで。いやむしろ、普通の恋人やったら、罪を犯すことはやめとけと引き止めるもんやろ」  大阪法務局本局の七階建ての庁舎が目の前に見えた。伸太はペダルを漕《こ》ぐスピードを落とした。  大阪法務局本局で、伸太は小端重夫が狙っていた鶴見区の登記簿を閲覧した。前に一度当たったことがある鶴見イザヤ園の周辺の土地を調べることにしたのだ。 「おかしいな、これといったヒントが出てきやへん」  太い指で登記簿をあちこち繰りながら、伸太は行き詰まった表情を見せた。 「小端が、鶴見以外の土地を狙っていたということはないの?」 「詐欺的手段で地上げを行う一匹狼《いつぴきおおかみ》の存在では、そういくつもの方面を掛け持ちでけへんのとちゃうか。いったん成功すれば、揚げられる利益は十二分やったやろし」 「利益ってどのくらい?」 「せやな。泉佐野の手原はんは、結局一億四千万円で四百坪の土地を手放したと言ってたやろ。今やあの土地は坪単価百万円くらいに値上がりしとる。一坪百万円として四百坪なら四億円、ざっと二億六千万円の差益や」 「そんなに——」 「まさに狂乱という形容がピッタリの土地の高騰や。そやから小端重夫のような、せこい手段を使《つこ》うても何とかしようやないかという輩《やから》が出てきよる」  伸太は登記簿を繰る手を止めて、例の広告ビラの裏を使ったメモ用紙を取り出した。 「鶴見を訪れたときのことを思い出しながら、ちょっと整理してみよや。小端は住民票を動かして印鑑証明書を手に入れ、保証書を使って土地の所有権登記名義を移転させて、あまりに脆弱《ぜいじやく》な登記制度に嫌気がさした所有者から買い取るという手だてを使っていたんや。その方法で、小端は三軒を立ち退《の》かせた」 「ええ」  由佳の脳裏に、表札の剥《は》がれた三軒の古びた家が浮かんだ。 「せやけど、小端は鶴見イザヤ園のところで停まった。鶴見イザヤ園は法人やから、住民票を動かして印鑑証明書を得るというやり口が使えへんかったわけや」 「そうだったわね」  鶴見イザヤ園が無事だったことを登記簿で知ってホッとしたことを、由佳は憶えている。   「小端にとっては、鶴見イザヤ園がネックやったはずや。もしもあそこの土地が手に入れば、地下鉄が通っている大通りに面したマンション用地と繋《つな》ぐことがでけて、土地の値打ちも上がったはずや」 「当然、小端重夫としては鶴見イザヤ園を何とかしたいと思ったでしょうね。泉佐野のときのような即決和解という方法はどうだったのかしら?」 「そら無理や。鶴見イザヤ園の代表者は、ジェリスはんという外人女性やったやないか。ジェリスはんの替え玉は、おいそれとは演じられへんで」 「そうね」  篤実な園長ジェリスの青い瞳が思い起こされた。「だから、小端重夫は、卒園生の宮昭子とかいう女性を利用して園の代表印を持ち出させようとまでしたのね」 「せやったな、小端にとっては喉《のど》から手が出るほど欲しかった鶴見イザヤ園や」  伸太は、鶴見イザヤ園の登記簿を開けた。「行き詰まった小端の前に、鶴見イザヤ園が何とかなるという話が持ち込まれたらどないや」 [#挿絵(img/fig17.jpg、横310×縦272)]  由佳は横からそれを覗《のぞ》き込んだ。以前に一度見たことのある登記簿だ。そのときは「弐に付けられた大きな×印は何なの?」と尋ねた記憶がある。いったん記載されたが、あとでその記載が抹消されたときに、キャンセルの意味の×印を法務局で付けるのだ、と伸太は答えていた。 「この弐でいったん仮登記が付いたが、参でそれを取り消したという点がどうも引っかかるな。前に閲覧したときは、もうキャンセルされて今は効力のない登記ということでさして気にかけへんかったけど、日付の点からしても弐の仮登記がなされとる三月十五日は、小端重夫が死んだ三月二十日のわずか五日前や。そして解除されとるんが、まさしくその三月二十日や」  伸太は、細い眼を精一杯に見開いて登記簿を見つめた。 「仮登記って、先にそれをしておけば、あとからの移転登記に対して優先力を持てるっていうものだったわね」  そもそも岡崎美紀こと根坂嘉乃が持ち込んできた能勢の不動産にいつの間にか〈仮登記〉が付いていたということから、由佳は初めて法務局に足を運び登記簿というものの現物を見ることになったのだ。そしてこんな殺人事件にまで引きずられることになってしまった。 「そのとおりや」  伸太はじっと登記簿から視線を動かそうとしない。「仮登記をした人間は、鶴居敏一となっておる。この男が案外、事件の鍵《かぎ》を握っとるかもしれへん」 「この鶴居という男が仮登記をしておけば、その土地を狙《ねら》う小端はたとえ権利証の持ち出しに成功しても、優先力を持つ鶴居には勝てないというわけね」 「さいな」  伸太はようやく顔を上げた。「とにかく、鶴見イザヤ園へ直行や」 「鶴見イザヤ園へ?」 「仮登記は権利証がなくても申請でけるけど、印鑑証明書の添付は必要なんや。仮登記をした鶴居が、イザヤ園の印鑑証明書をどないして得たか、調べる必要があるやろ。あるいは彼は、あの園長先生と何らかの関わりがあるかもしれへんのや」        6 「おやっ」  もうすぐ鶴見イザヤ園という路上で、伸太は小さく声を上げて、自転車を止めた。 「どうしたの、義兄さん?」 「あれを見るんや」  伸太は、横断歩道の向こうを指差した。  万藤刑事が、制服警官を伴って、住民に聞き込みをしている。 「どういうこと?」 「やっぱし万藤は、小端重夫が自殺したとは確信しとらんのやで」  伸太は、自転車を反転させた。荷台に乗った由佳は危うく体勢を崩しかけた。 「万藤に気づかれんように、遠回りして行こや。せやけど、あんましゆっくりしとる余裕はあらへんで」  伸太は、矛盾とも受け取れる言い方をした。  二日ぶりに訪れた鶴見イザヤ園は何も変わっていない。ただ狭い門の横に植えられたたった一本の桜の木のつぼみがふくらみ、チラホラと花を咲かせ始めているところが小さな変化であった。  孤児たちを庭で遊ばせていた修道服姿のボランティアの初老女性にジェリス園長に会いたいと来意を告げると、向こうの部屋で待っていてくださいと右手が差し出された。前にも入ったことのある古い小学校の教室のような、会議室兼倉庫のようなへんてこりんな部屋だ。  ジェリス園長が姿を見せるまでの間、伸太は古い木の椅子に座ろうとせず、壁ぎわに不揃《ふぞろ》いに並んだ木製収納庫の扉を開けたり閉めたりした。 「義兄《にい》さん、お行儀悪いわよ。勝手に覗《のぞ》き込んだりして」  由佳は幼い子供をしかるような口調でたしなめた。  そこへジェリス園長が物静かに現われた。その澄んだ碧眼《へきがん》に、由佳は不思議な懐かしさを覚えた。顔を合わすのはまだ二回目なのに、なぜか育ての母にも似た親しみと慈悲深さを感じてしまうのだ。 「お忙しいところ、お邪魔してしまってすみません」  由佳は立ち上がって最敬礼した。 「いいのですよ。この園は来る者を拒みません。たとえ用事がなくても、いつでもいらしてください。そしてもしも興味をお持ちになったなら、一日でも、いえ半日でもボランティアを経験してみてくださいな」  ジェリスは語りかけるように、ゆっくりとそう言った。 「ボランティアをしたら、たとえ半日でもあの修道服を着ていいのですか?」  由佳はつい、ここへ来た本来の目的を忘れて訊《き》いた。一度あんな恰好《かつこう》をしてジェリス園長のもとで、子供たちの相手をやってみたいと思ったのだ。 「ええ。ボランティアをなさるかたには、自由に着ていただいておりますわ」  ジェリスは目許《めもと》に微笑をたたえた。 「園長はん。その来る者《もん》を拒まへんということに関してでっけど」  ぶしつけなまでに、伸太が口を差し挟むように尋ねた。「誰か第三者がイザヤ園へこっそり入ったとしても、園長はん以外の人間にはなかなか部外者やと分からへんわけですな」 「ええ、わたくし以外は、みんなボランティアのかたたちです。それも週一回とか二回とか、ときには月一回だけという人もいらして、ボランティア相互のかたは、すべて顔を御存知というわけでは……」  ジェリスは、伸太が何を訊こうとしているのか理解できないとばかりに細い眉《まゆ》を寄せながらも、誠実に答えた。 「ところで、園長はん。鶴居敏一という男を知ったはりまっか?」 「敏一ですか?」  ジェリスは訊き返した。 「へえ、敏腕の敏にヨコイチですワ」  相手が外国人女性であることをすっかり忘れたかのような伸太の説明だ。しかしそれでもジェリスは理解したようだ。 「はい、存じております。卒園生の一人です」  ジェリスはこくりと頷《うなず》いた。 「年齢はいくつくらいでっか?」 「さあ、二十二でしたでしょうか。二十三になっているかもしれません」  ジェリスはやや自信なさげに答えた。 「卒園してからも、ここへよく来てはりましたか?」 「はい。半月ぐらい前まではよく来てくれて、いろいろとボランティアをしてくれましたわ」  半月前ということは、イザヤ園に対する仮登記の日にも、そして小端が死んだ日にも近い。 「最近はどないでっか?」 「大学での実習授業が急に忙しくなったために、しばらく来れないということです。あの子は卒園生の中でもとても成績優秀で、よく子供たちの勉強をみてくれてましただけに、残念ですわ」 「大学生でっか」 「ええ、浪速大学の理学部四年生です」  由佳と伸太は顔を見合わせた。浪速大学というのは、本物の岡崎美紀が在籍している大学だ。岡崎美紀と全く何の関連もない人間が彼女の氏名を借用するはずがないというのが、伸太の推論であった。同じ大学の人間なら、名簿などで住所を調べることは可能だ。 「その鶴居敏一はんの、現在の住所を知りたいんですワ」 「それはどうしてなのですか?」  ここまで協力的だったジェリスの顔が初めて堅くなった。 「もしかしたら、鶴居さんは重大な犯罪を……」  はやる気持ちで横からそう言いかけた由佳の袖を、伸太が引っ張った。 「わいらは、けっして鶴居敏一はんの敵やあらしません。ただ鶴居はんと大事な話がしたいんですワ。わいは登記を扱う仕事をしとります。せやから登記簿で、彼の住所が東大阪市|高井田《たかいだ》五番八号となっとるのは把握しとります。せやけどそれがある事情で、おそらく虚偽の住所やないかと思てますのや。何とかして、彼と会《お》うて話がしたいんです」  伸太はいっきにそう喋《しやべ》った。 「先ほどおっしゃりかけた重大な犯罪というのは、どういうことなのですか?」  ジェリスは不安の入り混じった声で訊《き》いた。 「重大な犯罪に巻き込まれたかもしれへん可能性がある、ということですワ」  伸太はようやく由佳の袖を離した。「これ以上は今ここでは言えまへん。わいの見当違いかもしれまへんよって。けど、もしわいの想像が当たっていたなら、園長はんには必ず事情を報告しに来ます。そのときはきっと、園長はんの精神的な支えが、彼には必要になると思えますのや」  ジェリスはしばらくじっと澄んだ碧眼《へきがん》で、伸太と由佳を見据えた。 「あたしからもお願いします。あたしたち、けっして自分の利益や好奇心で動いているのではありません」  由佳はそう訴えながら、自分自身の変化に気づいた。大阪に来るまではちゃっかりした功利的なところもあったのに、今はそんな気持ちはどこかに掻《か》き消えている。 「わたくしが、鶴居敏一さんの了解もなしに、勝手に彼の現住所を教えるわけにはまいりませんわ。でもせっかくいらしたのですから、一つだけお教えしておきます。うちの園は御存知のように、身寄りのない子供たちを引き取る施設です。赤ん坊の場合は戸籍も名前もありません。そんなときは、わたくしどもの方で名前をつけることになります。姓は、女の子の場合は鶴見の見とイザヤのヤを取って、宮とします。これは宮昭子さんに関して申し上げましたわね。男の子のときは、鶴見の鶴とイザヤのイを取って鶴居とします。さあ、あとは恐れ入りますが、ご自分でお調べください」  ジェリスはゆっくりと立ち上がった。「もし鶴居敏一さんにお会いなさる機会がありましたなら、『詳しい事情は知りませんが、わたくしはいつの日かあなたがまた元気な姿を見せてくださることを待っていますわ』とお伝えください。失礼します」  そう言い残して、ジェリスは修道服の袂《たもと》を翻《ひるがえ》して部屋を出て行ってしまった。由佳はそれ以上何も言えなかった。充分に事情を説明もせずに、ろくに面識のない自分たちが「卒園生の現住所を教えてくれ」といきなり頼む方が無理というものかもしれない。だから由佳は、ジェリスにすべてをぶちまけようとした。それを伸太が袖を掴《つか》んで止めたのだ。伸太の意図が今一つ、由佳には理解できない。 「あれ? お財布かしら」  由佳は、ジェリスが座っていた位置の木机の上に置かれた黒い小さなものに気づいた。由佳は腰を浮かして眼《め》を近づけた。財布のように見えたそれはアドレス帳であった。 「そうか。あの園長はん、わざと置き忘れていかはったんや」  伸太はまるで懸賞金を受け取る力士のように手刀を切って、そのアドレス帳を取った。  ジェリスは正確な事情までは分からないまでも、卒園生である鶴居敏一が何らかの犯罪に関わったことを察知した様子であった。「もし鶴居敏一さんにお会いなさる機会がありましたなら、『詳しい事情は知りませんが、わたくしはいつの日かあなたがまた元気な姿を見せてくださることを待っていますわ』とお伝えください」という彼女が残した言葉も含蓄《がんちく》が深いように思える。 「鶴居、鶴居、さすがに鶴居姓はぎょうさんあるワ」  伸太は太い指でアドレス帳を繰った。 「これやな、鶴居敏一」  拡げられたページを覗《のぞ》き込んだ由佳は、思わず唾《つば》を飲み込んだ。 [#挿絵(img/fig18.jpg、横135×縦288)] 「どういうこと? 鶴居が直されて河合になって、また鶴居になって……」  由佳はほとんど消え入りそうな声で聞いた。 「おそらく、この施設で育った鶴居敏一は、河合姓のところへ養子に行って、そのあと養子縁組の解消か何かで旧姓に戻ったということやろな。養子縁組をすれば名前が変わる。このわいかて、石丸周平と養子縁組をしたよって、石丸伸太や。けど、もしも、養子縁組を解消すれば、わいは旧姓に復氏するんやで」  伸太の説明を、由佳の耳はぼんやりとしか知覚しなかった。 「あたし、この河合敏一という人、知っているわ。大阪へ来た日に、環状線のホームでバッタリ会ったの……」  そう言うだけで精一杯だった。環状線の中で、河合は父親が死んで八尾《やお》市のアパートに引っ越したと話していた。 「何やて、そらまた奇遇やな。その男が今回のキーポイントを握っとるんやで」 「奇遇じゃないわ」  由佳はボーッとした頭を振った。  あの日、環状線で小学校三年生以来の河合と出くわしたのは、確かに偶然だ。あのときの河合には、由佳を騙《だま》そうとする気が初めからあったわけではなく、ただ小学校時代の淡い初恋にも似た甘い思い出に浸りながら会話を交しただけだろう。現に彼は浪速大学の学生であることも、八尾市に住んでいることも正直に喋《しやべ》っている。大阪駅から鶴橋《つるはし》駅に至るまでの間に、由佳は売れない代書屋の父の話をし、義兄の伸太がそれを同じ場所で引き継いでいることを話した。  河合はそれでヒントを得たに違いない。河合は、ボンクラな司法書士を探していたのだ。ニセ者の小端重夫の不動産詐欺行為を追い詰め、その過程で�小端が自殺のメッセージを自分に伝えた�と誤解して、警察にそう証言するお人好しの司法書士を……。  由佳は、目が回る思いに捉《とら》われた。鶴橋駅で降りて歩いて行く河合の後ろ姿に対して、由佳は「振り向いて」と念じた。それは十三年ぶりの再会が、もしかして恋に発展しないかという仄《ほの》かな期待を込めたものだった。けれども、そのとき河合の胸の中では、伸太のことが自分たちの計略の道具として冷徹に検討されていたのだ。 「由佳ちゃん、どないしたんや」  伸太の太い腕が、体勢を崩しかけた由佳の背中を支えた。        7  それから約二時間後、由佳と伸太は鶴居敏一のアパートの入り口に立っていた。環状線で偶然会ったあと、別れ際にもう一度会いたいと由佳は思った。今、その願いが皮肉な形で実現する。 「由佳ちゃんは無理して入らんでもええで。わい一人だけでも、事は足りるんや」  伸太は丸い顔にかすかに笑みを作った。 「大丈夫。あたし、そんなにカヨワクないわ」  由佳も微笑を返そうとした。しかしどうしても頬《ほお》が引きつってしまう。 「たとえ、鶴居敏一が環状線の中で由佳ちゃんに出くわさなくても、彼らはどこかのもっさりした司法書士事務所を訪れて、能勢の土地の件を持ち出しとるで」  伸太は、由佳を慰めるかのような口調で言った。 「でも、あたしたちが探偵ごっこをしなければ、河合君たちをこうして追い詰めることにはならなかったわ」  あのまま小端重夫の自殺に何らの疑いを挟まなかったなら、という悔いが由佳を捉えていた。 「そんなことはあらへん。わいは自分の行動を、法に携《たずさ》わる者の端くれとして、そして何より一人の人間として、間違っているとは思とらん」  伸太はチャイムに手を伸ばした。 「待って。あたしに鳴らさせて」  由佳は、意を決したかのように強くチャイムを押した。 「どちらさんですか?」  若い男の声が、扉越しに返ってきた。 「園山由佳です。あ、いえ、石丸由佳です」  由佳は小学校時代の旧姓で言い直した。  ドアの向こうからの返事はなかった。 「河合君なんでしょ。お願い、ここを開けて。どうしても、お話ししたいことがあるの。河合君、後生だから開けて」  由佳は叫ぶように、繰り返した。  ためらいがちにドアのロックが外された。  由佳は、ドアの向こうに立っている男が同姓同名の河合敏一だったら、という万に一つも有り得ない僥倖《ぎようこう》を念じた。  その希薄な期待はあえなく萎《しぼ》んだ。開けられたドアの奥に、間違いなくあの長身の河合敏一が立っていた。 「やあ」  聞こえるか聞こえないほどの声でそうひとこと言ったまま、敏一はじっと由佳を見つめている。  思わず視線を下げた由佳は玄関のタタキに、婦人靴と女物のサンダルが置かれているのに気づいた。サンダルということは、単なる訪問客ではないことを意味する。 「岡崎美紀さんじゃなかった、根坂嘉乃さん、いらっしゃるんですね?」  敏一が答えるより先に、奥の居間から嘉乃がエプロン姿を現わした。 「いつぞやは、どうも……」  嘉乃は丁寧に頭を下げた。そして、由佳の肩越しに丸い顔を覗《のぞ》かせる伸太の方にも黙礼した。 「とつぜん来てしもて、すんまへん。ちょっと上がらせてもらえませんやろか」  伸太のガラガラ声が、由佳の耳にはやけに大きく響いた。  嘉乃は少し間を置いてから、 「ええ、どうぞ」と短く答えた。  中は六畳が二間《ふたま》で、一室が居間兼台所になっている。もう一方の部屋には、机が二つ置かれていた。大きい方の机の上には化学関係の本が積まれている。これは敏一の机だろう。小さい方には、法律に関する本が並び、その片隅に白百合の花が一輪置かれている。ペン立てに描かれたスヌーピーの絵柄を見ただけでも、それが嘉乃の使っている机だと分かる。もはや同棲《どうせい》は疑うべくもない。 「お二人は、どこで知り合わはったのでっか? 大学は別々でっしゃろ」  流し台に立ってコーヒーを湧かし始めた嘉乃に、伸太は訊《き》いた。 「高校が同じだったのです」  嘉乃は端正な横顔を向けて答えた。「彼はバレーボール部のキャプテン、あたしはその一学年下でマネージャーを務めてました」  嘉乃はちらりと敏一の方を見た。敏一は不安げな顔を見せながら、じっと手持ちぶさたそうに座っている。 「あたしが高三で父を亡くしたとき、一生懸命励ましてくれたのが、他ならぬ彼でした。彼はあたしよりもずっと早く、両親を失っていたのです」  嘉乃の口調はまるで普通のお客が来たかのように平静に振舞っていたが、カップにコーヒーを淹《い》れる手はかすかに震え、カップがカチカチと擦《す》れ合う音が聞こえた。由佳は、嘉乃に同情した。巧く利用できたと思っていたボンクラ司法書士が、突然訪ね当ててきたのだ。しかも、二人の大学が違うことまで調べ上げている。これからいったい何が始まるのか、落ち着かない気持ちにかられるのは当然だろう。  しばらく、誰もが黙った。重く淀《よど》んだ空気が、居合わせた四人のそれぞれの肩にのし掛かっている。 「このアパートの所在はどうやって、分かったのですか?」  敏一が、堪え切れないような顔で沈黙を破った。 「ジェリス園長はんのアドレス帳を偶然、わいらは拾いましたんや」  と嘘《うそ》をついて、伸太はポケットからジェリスが置いていってくれたアドレス帳を取り出した。 「すぐ返さなあきまへんねけど、ここまで持ってきてしまいましたワ」 「園長先生に会われたんですか?」  敏一は驚いたような視線で伸太を見た。 「へえ。二回お会いしまして、いろいろと話を聞きましたんや」  伸太は短くそう返答した。  強ばった表情で、嘉乃がコーヒーの入ったカップを四つ載せた盆を運んで来た。 「何もお構いできませんけど、どうぞ」  座りテーブルの中央に、嘉乃は盆を置いた。四人はテーブルのそれぞれの辺に腰を降ろす形となった。  伸太は砂糖を大盛り三杯入れて、コーヒーカップをぐるぐると掻《か》き回した。 「石丸さん。もしも、その中に毒が入っていたとしたら、どうなさいます?」  嘉乃は突然、そう訊《き》いてきた。 「あんたに、そないなえぐいことがでけるわけあらへんがな」 「でも、分かりませんわよ」 「わいには分かるわいな。あんたは、二千万円近い金を出して買った能勢の土地をあっさりと放棄しとる。ほんまの悪人やったら、せこく回収を狙《ねら》っとるはずや。それに本物の岡崎美紀さんの住所を、あんたはちゃんと戻したげてるやないか。彼女が勝手に住民票の住所が変わっていたために難儀することのないように、元のとこに返したげとる」  伸太は、嘉乃の淹れたコーヒーをぐいと飲み干した。言葉どおり、伸太は毒などまったく疑っていない。 「石丸さん……」  嘉乃は、まじまじと伸太の顔を見つめた。 「嘉乃はん、そして敏一はん。わいはあんたらの気持ちが理解でけへんわけやない。そやけど、あんたらのやったことが正しいとは思わんのや」  伸太はそう言って、空になったカップを置いた。 「な、何のことですか?」  敏一が、顔を伏せたまま吃《ども》り声を上げた。 「その吃った言い方、わいに電話をかけてきた小端重夫とそっくりやで。いや、そっくりで当然なんや。あんたが小端になりすまして、かけてきたんやさかいにな」 「そ、そんな……」  と言ったきり、敏一はもうそれ以上声を出さない。 「わいは完全に騙《だま》されてしもて、堺の小端のところへ行くことになった。わいが能勢の法務局の前の電話ボックスの中で留守番電話に怒鳴ってから、通天閣《つうてんかく》の自宅に帰って小端になりすましたあんたから電話を受けるまでには約三時間の間隔があった。その間に、あんたたちは、本物の小端重夫を呼び出して、殺害したのやないか?」  由佳は持って来た紙袋の中から、鶴見イザヤ園の修道服を取り出した。修道服を見た嘉乃は、蛇に出会ったかのような歪んだ表情で顔を背けた。 「この服は園でボランティアをする女性が、身に着けているわ」  由佳はテーブルの上に修道服を置いた。「河合君は卒園生として、園によく出入りしていたから、一着くらい持ち出すことは造作ないでしょ。あたしだって、これは実は無断で一時拝借してきたのよ」 「あの日、嘉乃はんはこれを身に着けて、鶴見イザヤ園の人間の振りをしたんとちゃうか。そのちょっと前に、小端はどうしても鶴見イザヤ園の土地を手に入れたくて、やはり卒園生の宮昭子という女性に近づき、金で誘惑して園長印を手に入れようとする事件があった。そいつがヒントになったとわいは睨《にら》んどるで。園長印を持ち出そうとした宮昭子は、砂場のところでボランティアの男性に取り押さえられたと聞いたけど、その男性が敏一はんやったとわいは想像しとるんや」  嘉乃は顔を背けたまま、じっと耐えるように伸太の話を聞いている。その白い頬《ほお》はかすかに震えている。 「敏一はん。登記簿というものは何よりも雄弁に事実を語ってくれるものなんや。あんたは三月十五日、すなわち嘉乃はんがわいのところを訪れる少し前に、鶴見イザヤ園の土地所有権を仮登記しとる。仮登記は、印鑑証明書さえあればでける。その印鑑証明書は、園長印を印鑑証明の申請書に押印すればそれで事足りる。印はいつも園長室に置いてあるということや。せやから、宮昭子も、園長印を持ち出すことがでけたんや。敏一はん、よう事情を知っているあんたやったら、園長はんが不在のときにそっと行って印を押してくることぐらいわけもないはずやな」  敏一はぴくりと顔を上げかけた。 「敏一はん。あんたは、仮登記をすることにより、鶴見イザヤ園にゆすりをかける不逞《ふてい》の卒園生の役を演じたのとちゃうか」  伸太はぶ厚い唇を舌で湿らせた。「そして鶴見イザヤ園はその不逞の卒園生に困っていると、小端に持ちかけた役が、嘉乃はんやないか。この修道服を着て鶴見イザヤ園の中で会《お》うたら、あんたはジェリスの片腕の職員やと名乗っても、小端としてはちょっと見抜けへんがな」  伸太は机の上の修道服を摘みながら続けた。 「その小端重夫は、仮登記を見せられてかなり驚いたと思うで。宮昭子を買収して強引に園長印を持ち出させようとして失敗した途端に、夢にも思とらん仮登記が突如現われたわけやからな。嘉乃はん、あんたは『あたし、卒園生の鶴居敏一に印鑑を貸してくれと言われて、うっかり貸したところ勝手に仮登記をされてしまいました。もし仮登記を消してほしけりゃ金を出せ、と鶴居敏一から脅しを受けています。うちは福祉施設ですから、そんな経済的余裕はとてもありません。小端さんは、何度かこの土地を欲しいって園に来られてましたわね。この仮登記事件を巧く解決してくれたなら、あたし、ジェリス園長に、小端さんへ園の土地を売るように強く進言します。鶴見イザヤ園は戦後ずっとこの地に置かれてきましたけど、もっと地価の安い郊外に広い土地を持った方が孤児たちにとっても良いと思いますわ』と持ちかける。小端は、おそらく小躍りしたやろ。宮昭子ルートからの園長印取得に失敗し、行き詰まっていただけに、予期せぬ果報が転がり込んだと思ったに違いあらへん。嘉乃はん、あんたはさらに『これからその鶴居敏一に会います。何とか、あたしから借りた印鑑で仮登記をしたということを喋《しやべ》らせるつもりですから、それを証拠のテープに取ることに協力してくださいな』と持ちかける。欲に捉《とら》われた小端はここが千載一遇のチャンスとばかりに、鶴見イザヤ園に駆けつける。あんたはそこで彼を、古い木製収納庫が並んだ倉庫兼用のような会議室に連れて行く。それらの木製収納庫の一つの中に、彼をテープレコーダーと共に隠し入れる。それが実は、棺桶《かんおけ》になるとも知らん小端を……」  伸太はなおも言葉を継いだ。「嘉乃はんが待つ会議室に現われた敏一はんは、演技たっぷりに嘉乃はんと言い争う。木製収納庫の中に潜んだ小端は、その会話に耳を傾け、証拠となるテープを回すことに必死やっただろう。敏一はん、あんたは頃合を見て、木製収納庫にクロロホルムか何かの気体を一気に流し込む。あんたは大学院進学の決まった化学専攻の大学四年生や。短時間に人を失神できる気体を大学の実験室から調達してくることは、そう困難なことではなかったはずや。その結果、小端は閉じられた木の箱の中で爪《つめ》を立てて、気を失う。そしてあんたたちは、小端を箱に入れたまま車に乗せて運んだ。そして箱の中に排気ガスを送り込み、一酸化炭素を充分に嗅《か》がせて、中毒死させた。それから、あんたらは堺市の小端の事務所兼自宅へ向かった。小端のポケットをまさぐれば、鍵《かぎ》を探すのは容易やったはずや。それから、彼の死体をガレージのBMWの中に入れて、ダメを押すかのように排気口からホースで排ガスを車内に流し込む」  伸太は、机に置かれた修道服の上に、例のミニカーを重ねた。そして、ストローと針金を使って、目張りのビニールテープを中から完全に張った状態を実演した。 「こないしたら、自殺と思わせるだけの状態が作り出せますのや」 「あたし、もっと早く、排気口とホースを繋《つな》いでいたガムテープの巻き方の特徴に注目すべきだったわ」  由佳は、やはりバレーボールをやっていたという敏一の伏したままの顔を覗《のぞ》き込んだ。敏一はもはや観念したかのようにじっと動かない。「小端重夫の死体を発見したとき、あれはバレーボール選手が膝《ひざ》を痛めたときにするテーピングのやり方と同じだ、ということに気づいていたのに」 「あんたらは、そうして使用した木製収納庫を鶴見イザヤ園にちゃんと戻しとるやろ。わいはこないだあの部屋を訪れたとき、扉の内側に引っ掻《か》き傷がつき、天井に穴の開いた木製収納庫を見つけたで。由佳ちゃんに、『お行儀悪いわよ。勝手に覗き込んだりして』とたしなめられたけどな」  伸太は、ミニカーの上にさらに、鶴見イザヤ園に関する登記簿謄本を置いた。「あんたらは、よっぽどジェリス園長に余計な心配をかけとうないと思とるんやな。仮登記を付けてすぐ消したにもかかわらず、正直に鶴居敏一の名前を書いとる。そしてここのアパートの住所も、園長はんにはちゃんと知らせとる。もしも何かの拍子で園長はんが登記簿を見たときに、すぐに誰のなした行為かが分かって、問い合わせしてこれるようにとの配慮やな」 「え、園長先生は、この事件には何の関係もありません」  敏一は絞り出すような声を上げた。 「分かっとる。百も承知やで」  伸太はゆっくりと続けた。「その園長はんから、わいは伝言を預かっとる。『詳しい事情は知りませんが、わたくしはいつの日かあなたがまた元気な姿を見せてくださることを待っていますわ』と」  敏一は、謝罪するかのように力なくうなだれた。  伸太はその敏一の顔を覗き込んだ。 「小端重夫の名をかたって、能勢の服部安太郎から土地を買った男は、あんたやろ。そしてやはり小端重夫の名義で堺市のアパートを借りた相撲取りの『寺尾』のような長身男も、あんたやな」  うなだれたまま、敏一は黙って小さく頷《うなず》いた。 「あんたらは、小端の自殺を補強するために、貧乏代書屋であるわいを利用して、電話による一種の遺書という方法を使《つこ》うた。そのために嘉乃はん、あんたは�小端の登記詐欺の被害者�という役を演じた。あんたは、鶴見イザヤ園の周囲の土地登記簿を閲覧して、小端が保証書を悪用して登記名義を勝手に動かしていることを知った。その登記申請書をも閲覧して、小端がよく小道具にしとった酒間和史の住所などを調べ上げたんやろ。そしてまさしく、その酒間名義を小道具とする形で、さもあんたに登記詐欺を仕掛けているような小端の登記申請をなした。わいも、それにすっかり騙《だま》されてしもた。けど、登記簿というもんは何よりも饒舌《じようぜつ》に事実を物語ってくれるものなんや。あんたが登記簿から酒間和史の名前を引き出したように、わいも登記簿の記載を忠実に追いかけることで、ここまで辿《たど》り着いたんや」 「本当に、申し訳ありませんでしたわ」  嘉乃は深々と頭を下げた。「もはや言い逃れする気はありません。でもあたしたちは、あの小端という男がどうしても許せなかったのです」  嘉乃の端正な顔立ちに、憎しみの色が浮かんだ。 「そいつも、分かっとる。わいらは泉佐野まで行って、手原はんにも会い、樫井川に停めた車の中で根坂晴彦はんが自殺と処理された死を遂げたことも知ったで」  伸太は、そのあと晴彦の死に関する自分の推測を述べた。  嘉乃は、こくりと首を縦に動かした。 「あたし、父を亡くしたあと、この敏一さんに励まされ、一浪したあと京都の洛北大学の法学部に進みました。法律を学び、登記簿の制度を知るようになってから、父やあたしが住んでいた土地に関する即決和解はおかしいのではないか、と思い始めるようになりました。ちょうどその頃、家で掃除をしていたあたしは、ホースを詰まらせてしまい、物差しを中に突っ込んで紙屑を出しました。そのとき、ふいに父の自殺に対する疑問が湧き起こったのです。父があの樫井川であえて掃除機に使うホースを排気口から繋《つな》いでいたことには、もともと潜在意識としてしっくりしない点はありました。あたしたちが普段あの家に置いていた掃除機のホースを持って行かずに、どうして新しいホースを使ったのだろうか? 仮にそれはあたしに不便さをかけないためだとしても、どうして水撒《みずま》き用のゴムホースではなくあえて掃除機のホースを使用したのか、と」  嘉乃はとうとう涙を流し始めた。「どうやら真相は他殺で、小端重夫がその犯人だということに気づき始めても、あたしはすぐに彼に報復を考えたわけではありません。それなのに小端重夫はなおも性懲りもなく、敏一さんの生まれ故郷とも言うべき鶴見イザヤ園を狙《ねら》ってきたのです」 「神が与えた引き合わせ、とでも解釈すべきなのでしょうか、彼女の親の敵《かたき》が、今度は僕の育ての親であるあのジェリス園長に向かって牙《きば》をむき始めたのです」  敏一は激しく首を振った。「あんな善意の塊のような園長先生に狙いをつける小端のことが、僕は許せませんでした。自分が育ったあの園を、利益の対象とする姿勢が堪《たま》りませんでした」 「あたしだって、法律を学んでいる人間の端くれです。江戸時代のような仇討《あだう》ちが、今は認められないことは重々《じゆうじゆう》分かっています」  とめどなく溢《あふ》れ流れる涙で嘉乃の頬《ほお》は白く光っている。「でも、いくら私的報復はいけないことだと自分に言い聞かせても、親を殺した敵《かたき》が、今度は自分の愛する人の大事なものを奪おうとするとき、手をこまねいていることはできませんわ。一度目は辛うじて堪《こら》えても、二度目はどうしても許せない——そんな心理って、人間にはあるのではないでしょうか」 「警察に持ち込むことは考えなかったの?」  由佳は、貰《もら》い泣きに目頭を押えた。幼い頃の両親の離婚も母を交通事故で失ったことも、嘉乃の悲しみに比べたなら些細なことに思えてくる。 「警察って、いったん自殺と判断した結果をそう簡単に覆《くつがえ》してくれるものではないでしょう。それほどの物的証拠が新たに出てきたわけじゃありませんもの」  嘉乃は訴えるように言った。 「嘉乃から聞いたのですけど、人を一人殺したくらいでは、高々《たかだか》無期懲役というのが今の日本の裁判の現状だそうですね。それにたとえ無期懲役になったとしても、十年余りで娑婆《しやば》に出てくるケースが多いとか。そんなことって、ちょっと不合理じゃありませんか。善良な市民の命を奪い、土地を狡猾《こうかつ》に狙ったとしても、十年余りの身柄拘束だけで出所できるのですよ。その十年の間も、特別な過重労働があるわけでもなく、三度の食事もちゃんと与えられる」  敏一は半ば吐き捨てるような口調になった。「法理論には合わないかもしれませんけど、僕たちにとっては、裁かれなかった殺人行為への応報と鶴見イザヤ園に対する一種の正当防衛として、小端重夫に死を与えることにしたのです」 「正当防衛ということは、あんたたちは自分のやったことに対して罪の意識は持ってへんということか?」  伸太は、嘉乃と敏一を等分に見た。 「いいえ、決して罪の意識がないわけではありませんわ」  嘉乃はかぶりを振った。頬を伝う涙が雫《しずく》となって降り落ちた。「今でも、ガムテープを手にするだけで、鳥肌が立つ思いに捉《とら》われます。洗濯機のホースを倒すだけで、苦しいほどの痛みで胸が一杯になります」 「僕だって、まだ大学の薬品庫に足を向ける気になりません」  敏一も相槌《あいづち》を打った。 「ほなら、話は早い。今日にでも、自首をするんや。あんたらの事情はよう分かる。けど、人をあやめたという事実がそれで合法化されて、消えるもんやあらへん」  伸太はぐいと身を乗り出した。「わいは警察の人間やない。想像をめぐらせた結果をわいがここでいくら喋《しやべ》ったとしても、まだ自首の要件は欠くことにはならへん。実は、万藤という刑事を知っとるけど、彼は鶴見イザヤ園の近くで聞き込みをしとったんや。警察は決して無能やない。粘り強く調べとる。せやけど、今やったら、間に合う。早《は》よ、自分の足で警察署へ行って、犯行を告白するんや。そしたら、罪の意識からもずいぶん解放されるやろ。あんたらほどの事情があって、自首ということなら、執行猶予が付くことも充分に期待でける」  伸太は、万藤より先に真相に辿り着いて、嘉乃たちを自首させようとして、丸っこい体であちこちを動き回ったのだ。由佳にはやっと今、それが分かった。 「でも……」  そう言っただけで、嘉乃は顔を両手で被《おお》った。その白い指の間から、涙の雫が糸を引くように流れる。 「まだ阪南開発の社長と会長に対する報復が残っとるというわけか?」  と伸太が訊《き》く。嘉乃は顔を被ったまま、黙って顎《あご》を引いた。  由佳は頭の中に、彼女の思いを想像して描いた。  ここで自首したところで、三年前の泉佐野の事件が完全に解明されて、阪南開発の社長と会長が、根坂晴彦に対する殺人関与で逮捕・起訴されるとは限らない。自首となれば、嘉乃たちは(執行猶予付き判決が期待できるとしても)殺人罪で確実に処罰されるのに、あの社長と会長の行為は不問に帰されたままとなるかもしれない。そんな不均衡は耐えられない。小端重夫に下した報復の鉄槌《てつつい》を、続いて彼らに与えたい。彼らは小端に勝るとも劣らない社会の害虫なのだ。  もしも由佳が嘉乃の立場なら、そう考えるだろう。 「嘉乃はん、そして敏一はん。あんたらの青春と人生を、あんな連中のために浪費することは、もうやめときなはれ。今、自首したら、あんたらには執行猶予が付くように思う。けど、あと二人殺すということになったら、話は別や」  伸太は諭すような口調でゆっくりと喋った。「あんたらの恨みは、小端重夫をこの世から消し去ることで、充分に解消でけたはずや」 「だ、だけど、元凶は小端を後ろで操っていた社長と会長じゃないですか」  敏一がやっとの思いの掠《かす》れ声を出した。 「元凶を辿れば、切りがあらへん。阪南開発から泉佐野の土地を手に入れたのは、大手の生命保険会社やで。そしてそこに融資をして利鞘《りざや》を稼いだ銀行があるはずや。さらにこんな狂乱的な地価高騰と土地登記の病理を手をこまねいて放置している役人や政治家まで、責任を追及せんならん人間はヤマほどおるわいな」  伸太は、バンと机を叩《たた》いた。修道服の上に積まれた、ミニカーと登記簿謄本がその勢いで床に落ちた。「阪南開発の社長と会長の二人も、実は小端重夫と変わらんほどの雑魚《ざこ》なんや。そんな連中と、あんたらの人生とを引き替えてしまうことは余りにも勿体《もつたい》ない。そんな個人的|怨嗟《えんさ》にこだわるエネルギーがあるなら、自首をしてマスコミや法廷を通じて、今回のあんたらの悲劇を世論に訴えるべきや。あんたらだけの問題やない。土地の高騰と投機対象化、それをめぐる犯罪の横行と登記制度の不備——これらは、大げさに言うと、日本国民全体がこれから必死でとっくまねばならん問題なんや。あんたらの赤裸々の告白が、きっとその嚆矢《こうし》の一本になってくれるはずや。わいはそう信じとる。阪南開発の社長と会長については、たとえ殺人関与の立証は無理でも、私文書偽造罪と公正証書原本不実記載罪の成立は証明でけるはずや。自首したあんたらに代わって、わいはそれに必死で打ち込む肚《はら》づもりやで」 [#改ページ]  エピローグ 動く不動産  嘉乃と敏一が連れ立ってアパート近くの警察署に入って行くのを、伸太と由佳はそっと物陰から見送った。  嘉乃は警察署の自動ドアが開いたときに、ちらりと後ろを振り返って伸太たちの姿を眼で探した。 「さっさと行かんかいな」  伸太はかすかに声に出して、歯ぎしりをした。  さあ早く入ろう、と言わんばかりに、敏一が嘉乃の肩に手を掛けた。嘉乃は伸太の姿を探すことを諦《あきら》めて、軽く頷《うなず》いて敏一に応えた。 (大阪へ来た日に河合君と偶然に出会ったときに抱《いだ》いた、『もしかしたら』というあたしの淡い期待は、見事に外れてしまったわ)  由佳は心の中で呟《つぶや》いた。  環状線の車両から降りる際に、敏一は由佳に「お父さんをせいぜいお大事に。たとえ死に目であっても、お父さんに会えるというのは幸せだと思うよ」と言い残して去って行った。あれは今にして思うと、父親を殺害された嘉乃のことと比較しての言葉だったのだ。  長身の敏一は嘉乃の肩に手を掛けたまま、警察署の中に入って行った。自動ドアが閉まり、その姿は由佳の視界から消えた。 「敏一はんのこと、好きやったみたいやな」  伸太がニヤリと笑った。 「そーんなことないわよ。ただ単なる小学校時代の同級生よ」  由佳は踏んぎりをつけるように、くるりと踵《きびす》を返してスタスタと歩き出した。 「確かに、彼はなかなかの好青年や。敏一はんは、ジェリス園長に少しでも心配をかけとうないと、小端を誘《おび》き出すための仮登記を自分の名前にして登記簿に記載した。あれを岡崎美紀のときのように別人名義でやっていたら、わいらはもっともっと迷っていたはずや」  伸太は巨体を揺するようにして、息を切らせながら由佳に追いついた。 「あたし、本当に自首させてよかったのかと、五パーセントぐらい、後悔しているわ」  由佳は、わざと足を早めた。由佳がこうして大阪に帰ってこなければ、敏一と再会することはなかった。そうすれば、彼らが伸太を道化役の司法書士に選ぶことはなかったはずだ。もっと無能な司法書士のところへ行っていたら、彼らは今ごろ自首の道を歩いていなかっただろう。もちろん、これ以上、彼らを復讐鬼《ふくしゆうき》にしたくないという思いは強い。けれども、自分との再会が、(さらにはこの伸太との探偵ごっこが)結果的に、敏一を犯罪者として暴《あば》くことに繋《つな》がってしまったことは辛い。 「わいらが見逃してやったなら、小端重夫に対する殺害行為は完全犯罪のまま終わったはずやと言いたいんか?」 「ええ、まあ」  おそらく明日の朝刊には、敏一の顔写真が出るのではないか、という気がした。 「わいは、あの若い二人のために、自首は正しかったと思うで」  伸太は、立ち止まった。由佳はそれにつられるように歩みを停めた。「今ですら、BMWの窓を密閉するのに使ったことを思い出すからとガムテープを触るのに鳥肌が立ち、小端を失神させる薬品を盗み出した大学の倉庫へ行く気がしないというほどに苦しんでるんや。これから先、毎日毎日重い十字架を背負って行くことになるんやで。理由がどうであろうと、一人の人間を欺き殺したという罪悪感は日にちが経っただけで消えていくもんやあらへん。そのうえ阪南開発の社長と会長を殺害でもしたら、彼らはもうその贖罪《しよくざい》で心中でもしかねんで」 「そうね」  心中まではともかく、敏一たちが善良な人間だけに、死ぬほど苦しむことは目に見えていると言えた。「やっぱり、自首が正解かもしれないわ」  由佳がそう口に出したとき、伸太は先を歩き始めていた。今度は由佳が追いつく番となった。 「義兄《にい》さん、これからどうするの?」 「まず、ジェリス園長はんにアドレス帳を返しに行く。それから、あの二人に約束したように、阪南開発の社長と会長を、とりあえず私文書偽造および公正証書原本不実記載の罪で告発する準備を始めないかんな。長期戦になるかもしれへんが、わいは必ず連中をやっつけるで」  伸太は突き出た腹を摩《さす》った。「その前に腹拵《はらごしら》えや。家に帰ってブーやん特製のお好み焼きや」  由佳は呆《あき》れた。この伸太の食費は月にいくらになるのだろうか。その割に稼ぎは少ない。今回だって、これだけ東奔西走して、あちこちで登記簿謄本とかを取っているのに、報酬らしい報酬は最初の能勢の土地にまつわる仮登記を解決したときに、嘉乃から礼金として手付金の一部を受け取ったときだけだ。 「わいは一生涯、貧乏代書屋でええんや」  由佳の胸の中を見透かしたように伸太は言った。「あんたも今回体験して分かったやろ。不動産というのは、日本では何よりもの財産的地位を占めるのや。都会地では、猫の額ほどの土地でも、何千万円、何億円といった値段がつき、それを投機の対象にする者もいれば、弱肉強食とばかりに掠奪《りやくだつ》を狙《ねら》う輩《やから》までいるんや。不動産と字は書くけど、その実は銭《ぜに》を生み出す打出《うちで》の小槌《こづち》とばかりに、コロコロ転売されたり、果ては登記名義が勝手に動かされたりする」  確かに、不動産と言いながら、とても不安定なものなのだ。小端たちが使ったテクニックを弄すれば、容易に登記名義は変わってしまうのだ。 「前にも説明したように、これだけ地価が高い日本で、登記制度に形式的審査主義というやり方しか取り入れなんだところに、小端のような詐欺的地上げ屋の暗躍する余地を生む原因があるんや。今回の悲劇も、ドイツ流の実質的審査主義を採用していたら、起こらなんだことや」  伸太はぶ厚い唇を噛《か》みしめた。「地価の抑制や投機対象への制限はいろんな知識人が指摘しとるが、形式的審査主義のことは誰もあまり問題にしとらん。しとらんからこそ、わいは自分のライフワークとして取り組む気や。制度として、実質的審査主義が採用されるまでは、わいは登記オンブズマンとして、がんばるつもりや」  ライフワークやオンブズマンといった伸太には似つかわしくない横文字が並んだ。由佳は改めてこの血の繋《つな》がらない義兄を見た。まだまだ由佳の知らない一面がありそうだ。 「ところで、由佳ちゃん。あんたいつまでこの大阪に居《お》んのや」  いつの間にか、由佳の長い脚が伸太を追い抜いていた。 「さあ。阪南開発の社長たちが、少なくとも私文書偽造罪で逮捕されるところを見届けるまでは、大阪に居《い》ようかな」 「そら、しばらく時間がかかるで。これから告発のネタを集めにかかろうというとこやで。資料が集まっても、警察がすぐに取り上げてくれるとは限らへんしな」 「だけど、三年も五年もかからないでしょ」  由佳は、ぐいと背伸びをした。由佳は、この大阪の街が好きになりかけてきたのだ。緑は少なく、道は汚れていて、雑踏はどことなくニンニク臭い匂《にお》いがする。由佳の憧《あこが》れていたトレンディさは、ひとかけらほどしかないかもしれない。けれども、よその都市にはない、温《ぬく》もりと活気を感じるのだ。 「あたし、もう少し、自分の生まれ故郷である大阪に住んでみようと思っているの」 「さよか。そらまあ、よかった」  伸太はにんまりと笑った。 「でも、義兄さんの仕事を手伝うとまでは言ってないわよ。フリーアルバイターとなってどこかで稼がないと、あんなブーやん特製のお好み焼きばかり食べていたら、あたしまで本当のブタになってしまうもの」 「本当のブタて、それもしかして、わいのことか?」  伸太は情なさそうに、自分の丸い顔を指差した。由佳が頷《うなず》くより先に、伸太の腹の虫がグーッと鳴った。 [#改ページ]   後 記 *本作品を書くにあたっては、左記文献を参考にさせていただきました。 櫛引信利『自殺百態——ある刑事調査官の記録』(立花書房) 鈴木康夫『犯罪ドキュメントシリーズ地面師』(東京法経学院出版) 朝日新聞土地問題取材班『土地の病理』(合同出版) 山見郁雄『地上げ屋のウラの裏がわかる本』(ぴいぷる社) 国友隆一『地価戦争』(こう書房) 杉田静・菅原松夫・川端雄三・石瀬他正『不動産犯罪』(東京法経学院出版) 北田玲一郎『小説司法書士』(日本評論社) *おことわり ・ この作品はフィクションであり、作中に登場する個人名、団体名等は、架空のものです。 ・ 作品中に掲げた登記簿の見本は、見やすさの観点から、一部を省略してあります。申請書の見本も、一部簡素化しています。 ・ 登記簿謄抄本の交付手数料は、平成十年三月現在、一通につき八〇〇円に改定されています。また、登記簿の閲覧に関する手数料も、一筆につき四〇〇円とされています。  またコンピュータ化がなされた法務局ならびにその出張所では、登記簿謄抄本に代わって記載事項の証明書と呼ばれるものが交付されることになっています。 ・ 司法書士制度は、明治五年に定められた司法職務定制に始まり、昭和十年の法改正により「代書人」「司法代書人」から「司法書士」へと名称を変えています。  本作品では、主人公・石丸伸太があえて「代書屋」を名乗っていますが、「代書屋」は「司法書士」の正式名称ではありません。 [#改ページ]  文庫版あとがき [#地付き]姉小路 祐   「今日のミステリーは時代と社会を映す鏡でありたい。現代人の苦悩や挑戦をリアルに描く新社会派とも呼ぶべき秀作を待望します」  これは、第11回の横溝正史賞の募集規定に載っていた選考委員の夏樹静子先生のお言葉です。  私は、平成元年の第9回横溝正史賞に「真実の合奏《アンサンブル》」という応募作を提出して、佳作入選という結果を幸いにも得ました。それで文壇デビューを果たせたのですが、できれば正賞である金田一耕助像を手にしたいと不遜にも考えて、もう一度応募してみることにしました。(そう思い立った第9回の受賞式が平成元年の五月下旬で、第10回の締め切りは同年の七月末日でしたので、第10回には間に合いませんでした)  さて、何を書いたらいいのか……いろいろ考えていたときに、ヒントになったのが冒頭に引用させてもらった夏樹先生のお言葉です。  小説を書いて応募をするようになる以前に、私は司法書士の資格を取得していました。私自身は実務的開業をしていなかったのですが、実際に司法書士をやっている知人も多く、不動産関係のことには興味を持っていました。  私が、文壇に出た平成元年はちょうどバブルの時期でした。そのときはまだバブルという言葉はなく(そしてバブルがはじけるということもあまり予想されておらず)、株価が上がり地価が急騰を続ける時期でした。いったいどこまでいくのだろうか、という不安さえありました。  地上げ屋という今までにはなかったウラの仕事が新聞紙上をにぎわし始め、それまで平穏に暮らしていた人たちが突然追い立てをくらったり、土地の売買契約を無理強いされるなどの被害も続出しました。  私は、これをテーマに書いてみたいと思いました——  わずか半年とか一年といった短い期間に、都心部を中心に土地の価格が急激に上がり、それまで二千万円だったものが、三千万円になり、五千万円になり、ときには一億円に達しました。それらをまとめて取得して、ビル用地として転売すれば、巨額の利益が得られるのです。そこに、たとえば殺人といった犯罪が絡む可能性は充分にありえました。  そして、その一方では、(これはバブル経済とは関係なく)不動産はそれ自体が詐欺の対象になります。たとえば、格安物件だと思わせて他人の土地を売りつけるといったようなケースです。  そういった不動産詐欺が起こる原因の一つに、日本の登記制度が持つ欠陥があります。自分の所有している土地だからと安心をしていると、いつの間にか他人名義に書き替えられて売られているといった事態が起こりえます。それを防ぐことは、現行制度上は不可能と言えます。  生命の次に大切だと言われる不動産の登記名義が勝手に動かされたり、また逆に登記名義を信頼して買ったのに自分のものにならないといった不幸が起きるのは、おかしいのではないか——司法書士の試験勉強をしていたときに感じた疑問や憤りを自分なりに展開してみよう。そうも思いました。  すなわち時代背景をベースに、殺人事件を縦糸に、不動産制度を横糸に、描いてみようと考えたのです。主人公としては、不動産登記の専門家である司法書士が最適という気がしました。弁護士とは違ってこれまでのミステリー作品にはほとんど取り上げられていない職業だけに、オリジナリティのあるものが書けるのでは、という期待もありました。  今やバブル経済は過去のものとなり、地上げ屋の横行が新聞紙面をにぎわすこともなくなりました。現在ではそのバブルの後始末に四苦八苦している状態です。バブルの後始末の一つである債権取り立てや倒産が絡んだ殺人事件が起きてもおかしくない情勢です。  しかし、不動産登記に関わる欠陥は依然とまるで変わっていない印象を受けます。さらに、地下《じさ》げ屋(たとえば競売の対象となったビルに居座り込んで競売価格を下げる)という新しい存在も出現しています。  この作品の主人公である司法書士の�ブーやん�がまた新たな場面で活躍する可能性は大いにあるのではないか、と私はひそかに思っています。  なお、文庫化にあたっては前述のように時代背景は重要な意味を持っていますので、平成二年の春という設定は変えていません。また、不動産登記に関する登記簿の記載などが本文中に出てきますが、「専門的すぎないか」というご指摘もありましたので、文庫化にあたってはこれらを減らすとともに簡略化しました。またそのほかの点でもいくつか手を加えました。  改めて読み返してみて、自分の創作原点が「時代と社会を映す鏡」であり、「現代人の苦悩や挑戦」であることを思い知らされました。今のミステリーの状況は決して社会派にとっては追い風ではないような気がしています。七〇年代の学生運動やフォークの盛んだったころの遺物だと言う人もいるかもしれません。けれども、時代が変われば社会状況も変わり、そしてミステリーが取り上げるテーマもまた新しいものになっていくはずです。けっして遺物とは思いたくありません。けれども、いつまでも古いスタイルにこだわるのもよくないはずです。  私としては、創作原点を忘れない一方で、新しい袋に新しい酒を盛るようにチャレンジすること——を文壇デビュー十年目を直前にした自分自身への課題にしたいと思っています。 本書は平成三年五月、小社より単行本として刊行されました。             角川文庫『動く不動産』平成10年4月25日初版発行            平成11年4月20日再版発行